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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

足掛け2年の読書 『ユダヤ女 ハンナ・アーレント 経験・政治・歴史』

2014-01-06 17:57:47 | 書評
  昨年末から読み始めた『ユダヤ女 ハンナ・アーレント 経験・政治・歴史』(マルティーヌ・レイボヴィッチ 合田正人:訳 法政大学出版局)を読了。
 足掛け2年の読書であった。そういえば最近、「足掛け」という言葉をあまり使わなくなったように思う。年の区切りの正月の意義がそれだけ低下して、年をまたぐという行為もまたさほどの意味を持たなくなったせいであろうか。

           

 「ユダヤ女」というタイトルはいささか直接的だが、もちろん意味はある。
 アーレントといえば大陸哲学の影響下、冷徹な政治理論を構築した人として知られているが、しかしそれはある骨格を示しているまでで、それだけでは彼女の理論の血肉を、そして何よりのその人間としての苦闘を取り逃がしてしまうことになる。

 まさに彼女は、「ユダヤ女」としての自身の出自を回避したり棚上げしたことはなかった。
 彼女の最初期の論文に『ラーエル・ファルンハーゲン ドイツ・ロマン派のあるユダヤ女性の伝記』があるが、これは1820年代にベルリン・ロマン派の中心となるようなサロンを開いたユダヤ人女性について記したもので、そのサロンはゲーテが訪れるなど哲学・文学・芸術の各界の論客で賑わったという。
 ラーエルは、回信し、ユダヤ人としてのアイディンティティを捨てることによって一見成功したかに見えるのだが、アーレントはそれをある種の「成り上がり」として批判的に捉えている。ただし、決してラーエルに冷たいのではなく、彼女に寄り添うようにしながら、当時の反ユダヤ的風潮の中で彼女の選んだ道がひとつの可能性であること、またそこでの彼女自身の功績といえるものをちゃんと評価した上で、なおかつそれがユダヤ差別からの解放の道ではないことを指摘している。
 アーレントは言っている。「ラーエル・ファルンハーゲンは百年以上前に死んだけれど、私の親友です」と。

           

 アーレントの指摘が的はずれではないことは、ラーエル自身が後半生の書簡などで一見華やかだったサロンの隆盛にもかかわらず、「ユダヤ人として」満たされなかった自分について記している。アーレントが言いたいことはストレートである。反ユダヤ主義に対しては自分がユダヤ人であることから逃避したり、その事実を回避したりするのではなく、まさに「ユダヤ人として戦え」ということなのだ。
 これは同時に、ラーエルのような「成り上がり」ではないが、「パーリア=」として世界参加から逃避する逆の傾向に対しての批判をも含んでいる。

           

 ようするに、成り上がりもも自己卑下の形態であって、反ユダヤ主義の受容にほかならない。面を上げて、「私はユダヤ人である。それがなにか?」という次元で戦うべきだというのである。ユダヤ人は劣等民族であるとするヨーロッパの通念に対し、それを自然必然であるかのように受容し、リアル・ポリティックスの世界へ逃避するのではなく、その場で戦えということである。
 
 しかし、これはユダヤ民族主義を強調すること(後のシオニストら)とは根本的に異なるということをいい添えねばならない。彼女がいっているのは自分の所与の実存「ユダヤ人」たることを回避しては真の解放、したがって人間としての普遍性にも到達できないのだということである。ユダヤ人にしろ何にしろ、自らの《誰》性を放棄したところに普遍性への道はない。アーレントが人間の複数性を繰り返し繰り返し説く所以である。

           

 さて、これで私が読み上げた書のタイトル「ユダヤ女」が含意するものがお分かりいただけたであろう。この書では、彼女がその理論を開花させる前提としてのその政治参加の様相が、当時の複雑なユダヤ社会の情勢などを絡めて縷々語られている。
 こうして私たちは彼女の詳細で緻密な政治理論や哲学が、彼女の大陸哲学を始めとするヨーロッパの伝統に根ざすのみならず(ちなみに、彼女は20世紀において最も広い知と教養を身につけていたいわれる)、まさにユダヤ人としての種々の実践活動を展開する中でそれらの経験から獲得されたものであることがわかる。

 彼女は、自身収容所から逃げ出したことも、そしてドイツ圏にいるユダヤ人の国外逃亡のための活動をしたこともあるし、反ナチのユダヤ人による抵抗軍の組織化も真剣に考えてもいた。またイスラエル建国に対してもコミットしたが、結局当時支配的だったシオニストと折が合わず手を引いたといわれる。その際、パレスチナ人との共存の問題について示唆に富む論考も残していてそれは今なお妥当すると思われる。

           

 私が足掛け2年の読書で得たものはとてもここには書き切れない。
 最後に、彼女が語る私の好きな言葉を書き添えてこう。
 「人間は必ず死ぬ。しかし死ぬために生まれてきたのではない」
 ここには、その師、ハイデガーの「死の哲学」への批判が込められているし、生を受けた以上、二度目の生としての世界参加(それを忌避する没・世界主義への批判を含む)への誘いがあるし、さらにはそれぞれの人間が自分の所与を生きながらこの世界へと参加してゆく人間の複数性への熱い思いがあふれている。


コメント (2)
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