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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

中途覚醒と図書館とマーケット

2013-12-21 01:22:41 | よしなしごと
 私の、本来、快きはずの睡眠のさなかに、中途覚醒という黒い時間を差し挟むのはよしてほしいものだ。
 それは不意にやってくる。
 ちょっとした寝返り、咳、小用等によって中断された眠りは、次に続く睡眠によって継続されるべきなのだが、それが巧くゆかない。次の眠りが来ない。
 眠らなければと意識すると余計それが巧くゆかないようだ。
 草原を行く羊を呼び出してみても、効果はない。

           

 私は「ある」という裸の実存の中に宙吊りにされる。
 行動する人ではなく、考える人でもなく、ただそこにいいるだけの。
 闇の中で、無様に彷徨う幽霊のようなものである。

 そんな時は思い切って起き出したほうがいいというひとがいる。
 しかし、起きて明かりを灯し、書物など引っ張り出しても集中はできない。
 「眠らなければ」という義務感のようなものが邪魔をするからだろうか。

           

 眠りの継続に成功する場合もある。
 まず、呼吸を極端にゆっくりにする。
 そしてなにか具体的なもの、食い物でも、街の景色でもなんでも良いからとにかく「あるもの」を思い浮かべる。
 そして、自由連想法よろしくそれから思い浮かぶものを制約なしにどんどん繰り広げてゆく。

 起承転結のある物語などにしたり、なにか観念的な想念にはしない方がいい。
 とにかく茫洋としたもの、もの、ものの連想、できるだけ輪郭の緩やかな揺れ動くイメージの連続がいいようだ。
 そのうちにそれらが漠然とした霧のようなものとして私を包み始める。
 そしてそれが「自然に」フワーッとしたストーリーのない夢の様なものになるとき、眠りに成功する。

           
 
 「自然に」というのは、その夢の様な状況が私を包み始めたとき、「しめた、これで眠ることができる」などと意識してしまうとダメだということである。
 せっかく積み上げたおもちゃの城がガラガラと音を立てて崩れるように元の木阿弥で、またもや不眠の世界に連れ戻される。
 そしてまた、最初から連想を始めなければならないこととなる。
 これはしばしば体験するところで、いわば釣り人が、せっかく掛かった魚を取り込むのに失敗したようなものである。

           

 しかし、これを繰り返すうちに、なんとか眠りを得ることができるのだが、問題はその時間で、一時間はざらで、二時間に及ぶこともしばしばである。
 当然のこととして、それだけ睡眠時間が削られることとなるのだが、それ以上に疲労感がある。不眠の時間はとても疲れるのだ。
 「眠らなければ」と悪戦苦闘すればするほど、それ自体がどんよりした疲れとなって蓄積される。
 そしてそれは確実に翌日に持ち越され、心身ともに絶不調となる。

              

 若い頃からの習性であり、かつてはそうした疲労感からは比較的短時間で回復できたのだが、この歳になると、下手をすれば一日引きずってしまう。
 もちろん、誘眠剤は常用している。それがあってか寝付きは悪い方ではない。
 しかし、どううまく寝付いても、それとは関わりなく中途覚醒は起こる。
 医師に相談しても、中途覚醒に効く薬というのはないという。

 昨夜(19日)もそうであった。
 悶々としていたのは2時間ほどだろうか。
 その影響はてきめんで、朝から何も手に付かないし、集中できない。
 こんな時は思い切って環境を変えたほうがいいと思い、午後からマイ・フェイバリット・プレイスである県立図書館とマーケットへ出かけた。

           

 図書館では、あらゆる分野にわたって蓄積された知や情報の膨大な堆積に圧倒された。
 マーケットでは、そこに展示された物品の多様さにまずはオブジェとして圧倒され、その背後に確実に存在する人間の欲望の系図に圧倒された。
 というわけで、図書館とマーケットを見ればそこの文化がわかるという私の密かな持論(常識かな)を確認して帰ったような次第である。
 その刺激のせいか、夕方には幾分元気が回復したのであった。
 まあ、こんな文章が書けるぐらいにということであるが。

 写真はすべて、岐阜県立図書館にて。


コメント (2)
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