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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「嘘」と「ほんとう」のはざまでのコミュニケーション

2013-12-12 02:34:36 | 現代思想
 嘘をつくということは人間にのみ可能なことです。
 それは、ウソには言葉や記号が必要だからです。

 動物も嘘をつくという見方もあります。例えば昆虫などの擬態を指してのことです。
 しかし、これは人間があとからとってつけた目的論的な考え方のたまものでしかありません。つまり、擬態は天敵をだます目的をもって仕組まれたものではなく、たまたまそのような姿態を持っていたがゆえに生き延びてこられたということにすぎないのです。

 しかもこれにはもうひとつ突っ込んだ話があって、そうした擬態は、人間の視覚にとっては、「木の葉そっくり」や「木の枝そっくり」なのかもしれませんが、それらを捕食する天敵にとってどれほどの効果があるかは疑問だというのです。
 ある調査によれば、昆虫を食べる動物の胃袋を調べたところ、擬態をしているといわれる昆虫も、そうでない昆虫と同様に食べられていたのだそうです。

 したがって、「食べられないように」という目的説もむろん、「擬態」という事態そのものも、人間が自分の狭隘な五感や経験でもって断定したものにすぎないという疑いがあります。
 擬態に何がしかの効果があるとしても、それはすでにみたように、「そのために」そうなったのではなくて、「そうであったから」生き延びてきたということが本当のところなのでしょう。

           

 その点、言葉は容易に嘘を可能にします。白を黒にし、大を小にするぐらいのことは朝飯前で、時にはあったことをなかったことに、なかったことをあったことにしたりもします。
 ではなぜ言葉を使う人間においてのみ嘘が可能なのでしょうか。
 その答えは上に述べたことの中にすでに出てしまっています。

 ようするに、ないものをあるかのように表現できるのが言葉の力なのです。
 これを哲学の世界では「不在の現前」などというようですが、例えば私が「犬」といったとき、ここには犬などいないのにあなたは犬のイメージを思い浮かべることができるということです。これは名詞ばかりではなく動詞においてもそうです。
 ですから私が、「犬が来た」というと、あなたは犬がやってくることを想起します。ところが、犬が来た様子も来そうな様子もないとき、あなたは私が嘘をいったことに気づくわけです。

 ところで、こうして嘘をつくことができるという言葉の性質が、皮肉なことにも同時に、本当のことをいうことをも困難にしています。
 私がある経験をして、それをあなたに伝える場面を考えてみましょう。

 私はある経験をします。そしてそれを記憶にしまい込みます。この場合にもやはり言葉を介しています。私たちの意識や記憶というものは言葉と切り離しては考えられないのです。
 実は、この経験を受容すること、それを記憶にとどめることの中にさまざまな心理的要因があり、それらによって私の記憶は支配され加工されるのですが、この際、煩雑になりますからそれらは除外して考えてみましょう。

 私は誠実にありのままに私の経験をあなたに伝えようとします。そのために、あなたと私の関係にふさわしい言葉を選び、その経験を再現しようとします。あなたもまた、私が再現した経験を素直に文字通り受け止めようとします。
 さて、私の経験は本当にあなたに伝わったのでしょうか。

           

 これがすこぶる難しいのです。
 私の経験はひとまず言葉に翻訳されました。しかし、ここにおいてすでにズレがあります。私の経験は言葉と同じではないのです。私はそれをあなたに話します。ここにもズレが生じます。あなたは私の話を受け入れ、私の経験を自分の中で再構成します。ここにもまたズレが生じるのです。

 それに加えて、先ほど棚上げにしておいた私の側の心理的要因、そしてあなたの側の心理的要因、加えて、あなたとわたしとの関係そのものの要因も実は情報の伝達には不可欠なものであり、それらの作用のもとで、やっと私の経験はあなたに伝えられるのです。

 さて、あなたも私も誠実に私の経験を授受しようとしたのですが、その間のズレは不可避ではないでしょうか。これは例えば、私が自分がかつて飼っていた雑種を思い起こしながら「犬」といったとき、あなたが血統書付きのゴールデン・レトリバーを思い起こすようなズレの重なりといっていいでしょう。
 むろんこれらは嘘ではありません。むしろ、伝え、伝わるということが避けがたく含むズレの問題だといっていいでしょう。
 ようするに言葉は、透明で無機質な道具ではなく、それ自身ある重みをもったものだということです。
 にも関わらず、私たちはそうした負荷を背負いながらも伝え合わねばならないのです。それは私たちが、この世界の中で共存しているという事実に根ざすものであり、また、共存するとはそうしたコミュニケーションを諦めないということなのです。

 もっとも一方、こうした言葉の作用を巧みに利用して、あからさまに虚偽を述べ立てる言説もあります。これは、いわゆる詐欺やデマゴギーといわれるもので、相手の言葉への信頼を利用して、相手を欺いたり架空の事実に誘導したりするものです。

 私たちは最近、TVのニュースなどでふたつのあからさまなそれに出会っています。
 ひとつは、猪瀬知事の弁明というにはあまりにも貧しい言葉の羅列です。そしてもうひとつは、衆参両院での強行採決の連続を指揮してきた当事者である首相の、
 「まず、厳しい世論については、国民の皆様の叱正であると、謙虚に、真摯に受けとめなければならないと思います。私自身がもっともっと丁寧に時間をとって説明すべきだったと、反省もいたしております。」
 という極めて明るいトーン「反省」の言葉です。
 しかし、ここで首相が本当に反省していると受け止めたひとは多分、病的にナイーヴな人だと思います。
 こうした言説は、本来のコミュニケーションを目指すというより、言葉の壁でもってディスコミュニケーションを形成するものだと思います。
 したがってこれらは、先程述べた共存のためのコミュニケーションとは全く相容れないものだといえます。
 

コメント (3)
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