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【討論】相対と絶対  なんたる刺激!

2009-05-28 02:33:12 | ラブレター
 前回の私の記事、【相対主義と絶対主義】を別のSNSへも掲載いたしました。
 変な独り言のような記事ですから、コメントはほとんど付かないだろうと思っていましたが、けっこう興味を示していただき、それぞれ中身の濃いコメントをいただくこととなり、思わず襟を正すこととなりました。
 以下はいただいたコメント、並びにそれへの私の応答です。

Aさん より
 勉強不足で分からない部分たくさんありましたが、興味深い日記でした!
 相対主義と全体主義に対してのさらなる考察の日記を期待しますわーい。

Aさんへの私の返事
 私もあまり分かってはいません。この問題は、どうしてもある種のアポリアを免れがたく、そうしたアポリアにうちにあるのが人間なのだといってしまえそうなのですが、それで済ませては実も蓋もないので、そのあたりをなんとか言語化する努力をすべきでしょうね。
 また、新しい進展がありましたら報告いたします。

     
 
Bさん より
 この問題はいつも苦しんでいる問題ですが、問い続けるしかないですね、それにしても写真が素晴らしい。相対主義と絶対主義の対立を超えています。

Bさんへの私の返事
 Bさんがお進めになっている「疎外論の復権」とも関連するようです。
 疎外論は、「本来性」からの逸脱、そこへの環帰といった意味合いを含むのでしょうが、その場合の「本来性」の設定を誤ると、民族や大地に足をすくわれたハイデガーのように、あるいはまた、プロレタリア的人間のありようの歪曲を強要したスターリニズムのように、ある種の絶対主義(あるいは形而上学)に至る可能性をも秘めているように思います。
 その意味でお進めになっているお試みにつき、その動機を諒としつつも、どのように具体化するかをかたずをのんでROMさせていただいております。

 写真についてお褒めいただきありがとうございます。
 私のはとてもその域に達してはいませんが、一般的に優れた芸術は、上記のアポリアをイメージの提示として越えているようです。
 その点、哲学や思想は、それらを概念を用いた論理として言語化しなければならないので大変ですね。

     

Cさん より
 僕は相対主義+関係主義+生物学で全て考えてます。
 絶対主義が役に立つのかなと。

Cさんの補足
 現代の精神疾患的犯罪などは、道徳や倫理を問いますが、絶対主義ではヒステリックでアホな議論しか出来ません。
 倫理は物理的条件、生物学的条件を出発点として流動的に組み上げられた関係から発生し、異なる状況では異なる倫理が形成されます。一種の相対主義です。
 役に立つ、という意味では関係主義だと思います。

Cさんへの私の返事
 最初いただいたコメントではよく分からなかったのですが、二度目にいただいたコメントでご主旨は幾分分かりました。
 生物学的というところが面白そうで、これはひとつ間違って、優生学的に固定したファクターとすると、抑圧や排除の道具立てになるわけですが、Cさんの場合には、倫理を人間に内在する固定した要素として捉えるのではなく、生物としての外界への反応のありようのバラエティとして捉えようとなさっているわけですね。
 相対主義は同時に何ものかとの関係を前提するという意味では関係主義でもあると思います。

Cさんのさらなる補足
 わかりにくくてすいませんでした。
関係の生成と変化を前提として、システムの均衡または定常変化の傾向の規則性が重要であると。動的な構造主義ですか。
 これはどんなものにでもあるかと思いますが、社会や人間の場合は倫理と呼ぶというのではと。
 その関係の生成変化を分析してゆくと、これ以上分解出来ないレベルが生物学的条件、物理的条件では、という主旨です。

 ある犯罪の傾向を、犯罪者Aと社会の関係として考えると、犯罪者Aがどのように世界(社会)と関係を結んでいるか、その状態はどのように学習されたか、学習を強いる環境とはどのようなものか、という推測が可能であり、環境から学習した結果、犯罪者Aにとって生きる上で一番効率的な指針を僕は倫理と呼びます。
その土台となるのが、生物学的条件、例えば自己保存の性質や快楽の原則などである、という認識です。

 個々人は学習から無矛盾のやりかたを探します。無矛盾に至るためには何かを排除するかジンテーゼを生み出すか、保留する必要がある。
そのような者同士の間にも無矛盾を求める動きがあり排除やジンテーゼや保留がある。
そのような動きが全体のダイナミズムを生み出すと同時に均衡を生み出す、と。

 絶対主義の要素を入れ込むことは可能ですが、あくまでこのシステムのひとつとしてでしかなく、こうした関係主義思考と対等に扱うことが出来ないことがお分かりかと思います。対比にさえならないというわけです。

 なぜ絶対主義などというものを人は形成してしまうのかを問うのが関係主義的思考だからです。
 多分にニーチェ系統の思考です(笑)

 *追記
 「無矛盾」と言うと誤解を招くおそれがありました
 「最適化」と読み替えて下さい。

 


Dさん より
 どちらの方が人(自分とともに他者、動植物、無生物)を活かし、知性を働かし、より善く、できるだけ「罪」なく生きていけるか、を考えますが。はっきりしているのは、絶対主義は選ばない。相対主義は選べる。選ぶ際には当然、その都度の、絶対ではないにしても「絶対的な決断」をしなければならない。相対主義には絶対主義的なものが含まれている。その逆はあるのかはしりません。絶対主義には相対的な選択はないのでは?それなら、「絶対的な決断」を多くの選択の中からやっていく相対主義の方が、まだまし、になりませんかね。「より善く、できるだけ「罪」なく生きていけるか」の問いがその都度忘却されない分、再審性を持っている分、いいかなと私は思います。

Dさんへの私の返事
 相対主義はもちろん絶対的な基盤を欠いていますから、現実的にはおっしゃるようにある種の決断を迫られるわけです。
 それについて思い起こすのは、あらゆる基礎付けを否定していたプラグマティストのリチャード・ローティが唯一認めていた「人間の悲惨、苦痛の減少」という一見単純な基盤です。
 加えていうならば、ハンナ・アーレントがいっていた、オイコス(エコノミー)から自由になった人間がポリスのアゴラ(広場)という公共の場で「活動」というパフォーマンスを展開するというイメージです。
 とくに後者は、深い人間の肯定に根ざした思考であると思っています。

 ただし、二人とも、それが成功裏に終始するとはいっていません。そうした試みこそ、相対主義を生ききる実存のありようだといっているように思います。

     

Eさん より
 我々のいる大地は物凄い速度で移動していますが、地球軌道の中心にある太陽は更に猛スピードで銀河系を移動しています。
 その銀河系も近くの銀河系と一緒に「島宇宙」を形成し、その島宇宙がまた移動しています。
 座標としての絶対的なものは無いことが分かっています。

 論理学は難しいですね。数学では記号論理学なのですが、前世紀の初めにゲーデルという人が(記号論理学での)論理体系について「不完全性定理」というものが成り立つことを証明しました。

 記号論理での論理体系では有限個の「定義」と「公理」から出発して記号列を構成します。得られた記号列が「定理」となり「真」であり、得られないことが分かったり、それまでに得られた記号列と矛盾する記号列は「偽」となります。
ゲーデルが示したのはある記号列及びその否定の意味がある記号列の両方共に得られないものが必ず存在することです。

 数学は哲学の多くの困難から離脱するために形式化をしましたが、それでもなお新たな困難があることが分かりました。
形式化の一例として数学の基本的概念である「自然数」を例に申し上げます。
「自然数」という概念は歴史的には個数の概念と順序の概念の両方を包含した数ですが、現代数学においては次のようなものとします。

 まずある集合Zで次の「ペアノの公理」を満たすものとします。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%81%AE%E5%85%AC%E7%90%86

 このペアノの公理を満たす集合Zを「自然数全体」とします。
 この「自然数全体」に含まれる要素を「自然数」と言います。
 通常の考え方とは逆ですね(笑)
 この手法はよく使います。

 ウィキペディアには「0」も自然数になってしまいますが、通常は「0」の代わりに「1」から始めます。
 この定義では実は「自然数全体」というのは一つではありません。
 「ペアノの公理」を満たす集合なら何でも「自然数全体」にして構わないのです。
 ただ一つの集合を固定したら、別の『自然数全体』があっても同じものと見做します。

 ある意味、「相対的」な概念とも言えます。

 話はかなり逸れたとは思いますが、私は相対的なものしかないと思っていますm(__)m

Eさんへの私の返事
 私のような文系人間には不得手な分野ですが、お触れになっているゲーデルの不確定性定理や、トーマス・クーンのパラダイム論など、記号論理学や科学史論などの分野でも論議は盛んなようですね。
 最近読んだ本に空集合の話が載っていて、それによれば以下のような展開がなされていました。
 ? ={  }=0  考えていることが何もない。
{? }={{ }}=1  考えていることが何もないことを考えている。
 そしてこの過程は無限に続き、2、3、4、5 ・・・と続きます。

 ここで面白かったのは、最初の? (考えていることが何もない)が始源に見えながら、実は{? }(考えていることが何もないと考えている)に論理的には先立たれている、{? }なくしては?自身が成立不能だという転倒です。

 その先は私には分かりません。
 ただし、始源があって後続があるのではなく、始源そのものが常に後続に巻き込まれてのみ可能であるというパラドックスは、相対主義の論理と深く関わっていると思います。

     

Fさん より
 難しいことは解りませんが、相対論もいつしか絶対論として崇められてしまう傾向はありませんか?
 マルクスの理論がいつしかドグマとなってしまったように。
 フロイトが精神科医を逆縛りするように。

 逆に今ある宗教も当初は相対的に説かれて様な気もします。

 人には絶対を求める弱さがあるのかも。

Fさんへの私の返事
 マルクスの絶対主義的受容がスターリニズムに他なりません。マルクス自身は、形而上学的固定化を忌避していたようですが(「私はマルクス主義者ではない」というマルクスの言明)、ただし、それが十分であったかどうかは問題があるところです。
 フロイトに関しては、「無意識」を実体化(無意識というものがある)してしまったこと、その教義を守る集団を固定化したことなどによって絶対化の非難は免れがたいのですが、19世紀末から20世紀初頭にかけて展開された形而上学批判やそれに伴う「人間」という概念の批判については今なお有効だと思っています。
 ようするに、「人間とは、自分とはかくかくしかじかのものであると思っているような者ではない」ということです。

 

Gさん より
 会話の生産性重視という点一つを取り上げても、ロ?テイは、面白い哲学者ですね。
 私が知ったのは割合最近で、『偶然性・アイロニ?・連帯』から『哲学と自然の鏡』へと遡り、デュ?イ、鶴見俊輔さんまで行き着きました!
 連想ゲ?ム的に、何事も関連して行くので、なかなかキリがつきませんが、楽しくもあります…。

Gさんへの私の返事
 ローティ関連では、ご存じかも知れませんが、『脱構築とプラグマティズム?来たるべき民主主義 』(叢書ウニベルシタス・法大出版)も面白いですよ。
 これは文字通り論争の書で、ローティVSデリダをはじめとする脱構築派の主張が交互に交わされていて、けっこう刺激的でした。
 話が噛み合わなくて幾分いらつくところもあるのですが、全体を読み終わってみると、実践的には両者は思ったほど距離がないのではと思えるから不思議です。
 なお、何かひとつを知ると、その周辺に知らないことがいっぱいあることに気づかされるという面白さはありますね。

     

とりあえずのまとめ
 最初に申し上げたように、こんな記事にこんなに中身の濃いコメントがつくとは思ってもいませんでした。とても驚き、そして刺激されました。
 
 それにしても皆さんよく勉強されていて鋭いですね。
 皆さんへのご返事のコメント、古いノートなどひっくり返して懸命に書きました。おかげで、私が勉強してきたことや考えてきたことの復習が出来ました。
 たぶんこれは、ボケの崖っぷちまでいっていた私を幾分引き戻してくれたのではないかと思います。

 おのれの浅薄さは隠しおおせようもないのですが、これらは私にとっては客観的な論理ゲームではなく、おのれの前半生の総括に関わる問題なのです。
 また、時折、一般的、抽象的、かつ無内容と思われる事柄を書くかも知れません。その折りには、またお付き合い下さい。
 



コメント
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