六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

車の旅・列車の旅 新春映画二題

2007-01-11 16:37:18 | 映画評論
 年が改まってから映画を二つ観た。

 ひとつは、ジョナサン・デイトン 、ヴァレリー・ファリス 監督による『リトル・ミス・サンシャイン』

      
 
 他の所用で名古屋へ出かけた折りの時間調整で観たのだが、これがなかなかの拾いものであった。

 文字で堅くいってしまうと、アメリカンドリームに翻弄され、それから脱落して行く家族のあわや崩壊かと思わせるいきさつと、ある瞬間に狐付きから目覚めるようにそれから脱却して行く再生の物語なのだが、それらが、オンボロ車で、7~8歳児のミスコンへ出かける少女に連れ添う総勢6人のロードムービーとして描かれる。

 それぞれがそのエピソードを抱え込み、その個性も明らかで、その絡み合いが実に面白い。
 事態はほとんど喜劇として展開されるが、その推移の端々に、堅くいえば批判的要素、砕けていえばクスグリがいっぱいちりばめられている。

 冒頭部分の朝食の場面の食卓が、既にしてこれぞアメリカという実態を映像としてたっぷり提示してくれる。
 しかし、とりわけ素敵なのは、全てをぶっ飛ばし、ひっくり返す再生のカーニバルとして演じられる最後のあの少女のダンスシーンである。

 それはもはやディオニソス的な饗宴と化し、リアルを装うもの全てを虚構の淵へと誘う
 あのダンスを振り付けた祖父に乾杯!
 
 こいつは春から縁起がいいぞ、という映画に出会うことが出来た。


 次いで観たのは、エルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチの三人の監督によるオムニバス映画『明日へのチケット』

       

 
 オムニバスといっても全くシチュエーションが違う三つの物語ではない。オーストリアのインスブルック発、ローマ行きの一本のインターシティ列車に乗り合わせた人々の織りなす連続と不連続のドラマである。

 それぞれの監督の特徴がよく現れているが、そのタイトルから見ても、その時間量から見ても、そして、エンディングへの結びつきから見ても、ケン・ローチによる第三話が大半を担っているようだ。

 それぞれの物語は、一見なんの繋がりもないようだが、しかしそれらを結ぶ糸のようなものがないではない。
 第一話の教授の妄想めいた恋の話のラストにある一杯のミルクのエピソードは、第三話の青年たちが対面する難民の問題に繋がるし、第二話の将軍婦人付きの青年の自立へのテイクオフは、やはり、第三話の青年たちのとまどいと思考の先の決断へと繋がる。

 そして、彼らがこの列車に乗り合わせた背景が、テロルの予告による緊張した状況であってみれば、まさにここにはヨーロッパがあるのである。

 脚本段階で、三人の監督が協議を重ねただけあって、このオムニバスには、見た目以上の有機的な繋がりがある。

 そして、最後のローマ駅。全てが清算されるかのように登場人物たちが降り立つ。しかし、第三話の青年たちはまだ、拘束されたままである。そこに意外な「サポーター」が・・。
 そう、青年たちは、セルチックの応援にわざわざイギリスからやって来たのだった。

 半世紀ほど前に観たイタリアのニューリアリズの映画、『屋根』をなぜか思い出した。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする