魔人の鉞

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昭和天皇実録と 「天皇の昭和史」

2014-09-09 17:04:16 | 第2次大戦

今日の朝刊で 「昭和天皇実録」 が公表されたと報道されました。大部のもので、すぐ
読むことも困難だと思いますが、毎日新聞によれば、戦前については天皇を平和志向の
立憲君主として描いているようです。

一方、昭和期を取り上げて天皇制の実態を批判的に分析した、「天皇の昭和史」。
(藤原彰ほか、新日本出版社、2007年)

この本では、昭和天皇は決して平和志向ではなく、また決して立憲君主的ではなかった
と論じています。立憲君主的とは、内閣や輔弼の官の上奏を、意に沿わなくても裁可
する、総ての法律勅令などは大臣の副署を必要とする、ということです。しかし実際は
内奏や御下問、人事への介入などを通じて天皇がコントロールしていた、として多くの
実例を挙げています(47-48p)。

たとえば1939年阿部信行組閣時には、陸軍大臣に梅津か畑を選ぶよう指示し、同8月
山下泰文と石原莞爾の親補職就任に反対、1944年8月には山下泰文のシナ派遣軍総参謀
長就任を拒否しました。
それより何より、そもそも総理大臣の指名は憲法上も天皇の権限ですが、大臣の副署も
何も不要ですから、気に入らない者は憲法に則ってたとえ元老の推薦であろうと拒否
できるわけです。いやいやながら指名するなどという必要はありません。

また輔弼・輔翼は各大臣・総長が独立して行うので、当然のように情報の天皇への独占的
集中がおこりました。(51p) 
そして天皇は陸海軍を直接統帥する大元帥で、そうとうな軍事知識を持ち、作戦にも
御下問などを通じてしばしば容喙しました。(53-54p) 

不思議なのは、軍部大臣現役制で陸軍が大臣を推薦しないという方法で組閣を妨害した
時、天皇がこれを傍観していたことです。1937年、広田内閣総辞職後に宇垣一成に組閣
の大命を下しましたが、陸軍は大臣を出さず、宇垣が天皇に優諚 (宇垣を予備役から
現役に復帰させ陸軍大臣の兼務を許す命令) をお願いしたもののこれを却下し、大命は
返上されました。
また1940年米内内閣時には、陸軍が畑俊六陸相を単独辞職させ後任を推挙しなかった
ため、内閣は崩壊しました。
天皇は、自ら指名した総理また総理候補者にたいし陸軍が公然と反旗を翻すことを容認
したわけです。軍を統帥する大元帥として、個人名を挙げずともただ大臣を出すようにと
命ずればよいのですから、なぜ手をこまねいたのでしょうか。立憲君主ならば軍の行動は
憲法違反だと考えても不思議はないはずですが。

この本にはありませんが、天皇が国政をコントロールするもう一つの手段は、勅語の存在
です。教育勅語や軍人勅諭など堅苦しいものもありますが、たとえば1932年1月に「満州
事変に際し関東軍に賜りたる勅語」というものが出されています。これは関東軍の行動を
褒めちぎり激励するもので、以後関東軍への批判は許されないという風になっていきます。

先日の平山周吉著 「昭和天皇 『よもの海』 の謎」 のページで書きましたが、仮に昭和天皇
が一見立憲君主的に振る舞ったとしても、明治憲法で 「天皇に輔弼の臣のいうことを
拒否する権限があるのは当然」 と解釈されていたということです。臣下の言うことを
そのまま聞かなければならない、などとは明治憲法もその学説も考えていません。むしろ
臣下が天皇のご意向を酌んで、裁可していただける案を提出するのが実態だったので、
「ある意味では強い御親政のようで」 (「石井秋穂大佐回想録」) あったのでした。

「昭和天皇実録」 は良く見せようという意図が働いていると思われ、注意して読まな
ければならないと思います。
        (わが家で  2014年9月9日)

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