魔人の鉞

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イスラームの負け惜しみ

2019-02-10 08:23:15 | 宗教

「イスラーム文明と国家の形成」 小杉 泰著、京都大学学術出版会 2011年。

著者は京都大学大学院教授。イスラム勃興期であるアッバース朝時代を中心として、イスラーム国家の形成と文化の発展をたどる本です。私は唯我独尊のイスラームは嫌いなので、どうしても裏読みをしてしまいます。昔は知らず、今やイスラームに学ぶものはないかも。しかしイスラームの方では、何としても自分たちの文明が優れていたと言いたいようです。

第7章 「アラビア語の成長と諸科学の形成」 ではグーテンベルクの活版印刷術 (1445まで) について、ジョナサン・ブルームを引いてこう書いています。「15世紀の印刷革命は、イスラーム世界から 11-12世紀に紙が伝播したからこそ起きたのである」 (255p)。
こんな考え方ができるとは実に驚きです。紙はもともと中国で発明されたのは彼らも知っている。中国も紙を多用したが、漢字は10万字以上もあるといわれ、木版でしか対応できなかったのです。しかしアラビア文字は28文字、文章上変形して使われるものも含めても 70-80字程度。アッバース朝で出版文化が大いに発展し紙を多用したというならば、なぜ自分たちで活版印刷術を発明できなかったのでしょうか。それなのに、その基本技術を生み出したわけでもなく、自分たちが単に 「紙」 を紹介したお蔭だなどというのはこじつけにすぎません。負け惜しみもいいところではないでしょうか。

また、コペルニクスの「地動説の再発見」(1543) についてはこうです。モンゴルのフラグ・ハーンがペルシアやイラクを征服したとき、トゥースィーがフラグに勧めて1259年に世界最大のマラーガ天文台を建設し、諸学の中心となった。ジョージ・サリバの研究によるとコペルニクスがトゥースィーらの書を見たのは確実だから、コペルニクスは 「最後のマラーガ天文学者」、だというのです (439p)。しかしなぜコペルニクスの 「再発見」 と言われるかというと、紀元前3世紀ギリシアのアリスタルコスが明確に地動説を唱えており、1800年後にそれを科学的に捉えなおす学説を提出したからです。ギリシアをはじめ各地の文明を取り入れたイスラムの科学者も当然アリスタルコスのことは知っていたはずで、「地動説」 を観測で確認していたなら、栄誉はその人に与えられるでしょう。しかしそのような業績は発表されませんでした。マラーガ天文台の完成はコペルニクスに先立つことほぼ 284年です。イスラームには十分な時間があったが、地動説を再発見することはできなかった。ポーランドのキリスト教司祭コペルニクスは我々の弟子だ、などというのは、手柄の横取りというものです。
それに、コペルニクスの説は発表当時は話題にもならず、数十年後にケプラーやガリレオ・ガリレイが地動説の根拠や証拠を発表して、100年ほどかかって定着したと言われます。コペルニクスの発表当時はスレイマン大帝による第一次ウィーン包囲 (1529) の直後でオスマントルコ帝国の絶頂期に当たるはず。イスラームの科学者はそのころどんな貢献をしたのでしょう?
おそらくイスラームの天文学の関心は、お祈りのためのメッカの方角の測定方法や、お祈りの時間の決定方法、また純粋太陰暦で季節と月が一致しないイスラーム暦 (ヒジュラ暦) と、実際の季節との調整 (農耕や税収の期間にかかわる) にあったのではないでしょうか。ウマル=ハイヤームが作った太陽暦・ジャラーリー暦 (1079 制定) は後のグレゴリオ暦より正確だと言われますが、月を重視し太陰暦の好きなイスラームでは結局実用されませんでした。地球が動こうが太陽が動こうが、あまり関心がなかったということかもしれません。

イスラームは 9-12世紀頃は世界最高水準の科学と文化を誇っていました。それがなぜ西洋に追い抜かれ、もはや追いつくこともできないほどに離されてしまったのか。日本や中国やインドにさえ抜き去られ、追いつけないのはなぜなのか。
オイルショックであぶく銭を手にし、イスラムの復権などと言っていますが、いつまで続くでしょうか。迷った時は基本に帰れ、と言いますが、イスラームの基本はクルアーンです。クルアーンは絶対で最終の啓示です。だから現実社会では、クルアーンに書かれていない個別の問題ごとにウラマー個人が解釈や類推で対応するしかない、ということになります。それで、対立しないですむでしょうか。クルアーンにいくら、ムスリム同士は対立してはならないと書かれていても、人間のことですから、意見・見解が相違するのは当然です。そしてすぐに武器を取る。なにしろムハンマドの没後、身内同士で血で血を洗った争いの伝統があるのですから、基本に帰ったら殺し合いになりかねない。今日実際に原理主義者たちが各地で武装闘争を行っています。

基本に返るなら、ムスリムは争わない、人類は平等、女性も対等であること、という基本をクルアーンに基づいてムスリムみんなが確認しあうことです。そして、人は神の 「奴隷」 ではない、ということを理解することです。それができなければ、イスラームは立ち直ることはできないでしょう。
   (わが家で  2019年2月10日)

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正統カリフの呪い、ウマイヤの呪い

2019-02-07 08:25:42 | 宗教
引き続き、イスラム世界について。

再び「失われた歴史」~イスラームの科学・思想・芸術が近代文明を作った~ マイケル・ハミルトン・モーガン著、北沢方邦訳、平凡社 2010年。
「西アジア史」Ⅰ~アラブ  佐藤次高編、山川出版社 2002年。
「アラブの人々の歴史」 アルバート・ホーラーニー著、阿久津正幸編訳、第三書館2003年。

いくらイスラーム史を読んでも、血沸き肉躍るドラマが見られないと感じます。ムハンマドは622年にイスラム教を創始したのち、メッカで一時迫害を受けメディナに聖遷しましたが、それはイエス・キリストのそれとはまるでケタ違いです。メディナに聖遷してわずか8年、630年にメッカを屈服させ、以後は最後の預言者・支配者として君臨します。そのためイスラムは社会全体を支配し、単なる宗教ではなく社会そのものだと言われることになったのです。
支配者ムハンマドは632年に死没し正統カリフ時代になりますが、これが近親者による血で血を洗う権力争い。普通に死んだのは4人のうち1人だけで、3人は反逆や暗殺です。イスラムの教えは何なのか? なぜムスリムが親しいムスリムを殺戮するのか。なぜウラマーなどの指導的ムスリムはこれを疑問に思わないのでしょうか。信仰とは盲目である、ということでしょうか。

ようやくムハンマドの遠い親戚であるウマイヤ朝がイベリアからイランに至る広大なイスラム世界を統一しますが、わずか90年で崩壊。その親類筋でムハンマドの叔父の系統に当たるアッバース朝がウマイヤ朝を滅ぼしたわけですが、イスラム成立の頃からの因縁があったらしく、前王家を皆殺し。天下分け目のザーブ河畔の戦い (750) でウマイヤ軍を破ったアッバース軍はダマスクスに侵攻し、和解の宴と称してウマイヤ家の王宮にウマイヤ王族や宮廷関係者全員を招きます。ところが、集まった和解の希望を持った同じムスリムの一族と宮廷人を全員虐殺してしまいました。(「失われた歴史」72-73p) なんと卑怯卑劣、天人ともに許さないとはこのことです。
イスラム史で唯一ドラマティックな物語は、この大虐殺を逃れた王子アブド・アル・ラーマンがシリアからパレスチナ、マグリブと逃げ、ついにイベリア半島に渡って後ウマイヤ朝 (アンダルシアのウマイヤ朝) を創始した物語しかありません。

アッバース朝はイスラムの歴史で最も華やかな時代、文化の花開いた時代と言われていますが、そのアッバース朝にしてこの所業です。その後イスラムは分裂しますが、再統一したのがオスマン朝でした。イベリア、マグリブを除くイスラム世界をほぼ統一し、ビザンチン帝国を滅ぼしヨーロッパに進出して富強を誇りました。しかしそのオスマン帝国がこれまた非道。スルタン (皇帝にあたる) は、即位すると自分の地位を安定させるため兄弟や近親の皇位継承権者をほとんど皆殺しにする、というのが慣例になったほどです。
まさか兄弟殺しや親族の殺し合いがイスラムの教義ではないはず。 ほとんどのムスリムは、そんなことは信じられないというのではないでしょうか。そうならば、彼らはイスラムの歴史と真実を知らないのです。

クルアーンが絶対で、批判することだけでも死罪ですが、一方で教義の解釈はかなり人それぞれで、学派がいくらでもできる。またちょっと武力を持つと、すぐ俺がカリフだ、スルタンだ、アミールだと言い出す輩がごまんといる。ある意味でまったく人間的ですが、倫理観はどうなっているのでしょう? とても統一することのできる世界ではないと思います。中国で言えば五胡十六国のような、マイナーな権力闘争をいつまでも続けている救いのない世界。ロマンも夢もありません。(偏見ですかね?) アッバース朝時代に花開いた科学も12世紀ころまでに立ち止まってしまい、西洋が受け継いで発展させました。

人はアラーの奴隷で、人ではなくただ神だけが偉大だ (アッラー アクバル!) というのですから、こころ躍る物語が生まれないのも道理です。しかし神の奴隷同士はみな平等、というのではなく、権利や立場に宗教や性別での明確な差別を認めていて、ムスリムならば誰でも死後神の国に入ることができる、というだけです。開創当時は諸民族平等でたいへん進んだ教義でしたが、今日では当たり前となり、女性問題などではむしろたいへん遅れています。

今日ムスリム同士の争いで生まれた大量の難民は、イスラム諸国を選ばず寛容な西欧キリスト教国を目指すというありさまです。イスラムの低迷は、正統カリフ時代やアッバース朝、オスマン朝の悪行の祟りではないでしょうか。
   (わが家で  2019年2月7日)
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イスラムの 「失われた歴史」 の誤謬

2019-02-02 08:27:31 | 宗教

「失われた歴史」~イスラームの科学・思想・芸術が近代文明を作った~ マイケル・ハミルトン・モーガン著、北沢方邦訳、平凡社 2010年。

イスラムの科学技術が西洋近代の科学に大きな影響を与えたことを論証する大作です。しかしイスラム学術の発展はイスラム開闢からほぼ500年ほどの期間に集中しているようです。問題は、世界最先端の文化・文明を持っていたイスラーム社会が、なぜ西洋に置いてきぼりを食ったのか、ということです。

同書の年表から学術系の主なものを書き出してみます。

アッバース朝カリフ アル・マムーン  786-833
  智慧の館を建設し、学者たちにギリシアなど各地の古典を
  アラビア語に翻訳させる。
フワーリズミー 780/800?~845/850?  
  9世紀前半、アッバース朝の都バグダードで活躍したアラビア
  数学の大家で、インド数字を採用。「代数の父」 と呼ばれる。
アルメン・フィルマン  852年 コルドバの塔からパラシュート風に降下。
アッバース・イブン・フィルナス 875年  史上初のグライダー飛行。
アル・ラーズィー  865-925 天然痘とマシンについて正確なカルテと
  治療法を記述。
イブン・アル・ハイターム ~1040  暗箱カメラ、微積分、引力作用
  の記述。
イブン・シーナー  980~1037 近代医学の父。
アル・ビルーニー 973~1048 地球の自転を議論、重力測定法を考案。
アル・ジャザーリ 1200年ころ 機械時計を発明。
アル・トゥシー  1201~1274  三角法を開発。世界最大の天文台の建設
  を計画し1262年完成。
アル・ナーフィス 1213-1288 血液の肺循環を記述。

錚々たる文化の歴史がありますが、1200年代でほぼ止まってしまいます。この大著にして1299年のオスマン帝国建国以降の年表には、学術系の項目は見当たりません。先日 「イスラム世界はさらに没落する」 に書いたように、領土=イスラム圏を着々と拡大するオスマン帝国が、腐敗堕落した西洋に学ぶものはない、と思ったせいではないか、と考えるのです。

著者は自問します。「中国やインドやムスリム世界 (中略) が探検や征服の大航海の支援にとすればどうなったか。 (中略) トルコ人や中国人が植民地を創始し、彼らの経済や社会を改革し、新しい大洋間諸帝国の要求に応じた知的風土を作り上げていたらどうなるか?
ルネッサンスや啓蒙思想はいたるところで花開くことになったのか? 著者はそうなりえたと信じている。」(412p)
しかしそれは無理だったでしょう。ちょうどオスマン帝国の勃興期に中国・明の鄭和は1405年から1433年まで南海への7度の大航海を行いましたが、中国は十分満ち足りているということで航海政策は廃止されてしまいました。オスマン帝国では世界のあらゆる富は陸路イスタンブルに集まるので、レパントの海戦 (1571) に敗れても特に海洋政策を発展させる必要はありませんでした。満ち足りた大帝国に進取の気風が乏しくなるのは歴史の必然ではないでしょうか。著者の言っていることは 「死んだ子の年を数える」 というもので、虚しい願望にすぎません。イスラムの衰退の原因は、イスラーム自体にあります。イスラームの「最高で最後の啓示」とか、「すべてのことがクルアーンに書かれている」などという唯我独尊を改革しなければ、立ち直ることはできないでしょう。

近年の 「イスラムの復権」 といわれるものは、1973年のオイルショックに象徴されるような、石油利権を西欧資本から取り返したことによる一時的な好景気にすぎません。石油の富はいったい何に使われているのでしょうか。王族などが西欧資本に投資する財源になっているにすぎません。文化的にも社会的にも、復権の条件は整ってはいないどころか、相対的にはますます衰退しているのではないでしょうか。

ここでイスラムの3大差別といわれるものを考えてみます。

◆奴隷  これは解放される望みがあった、と言います。現代ではほとんど廃止されましたが、それは西洋特にイギリスの強い圧力の結果と考えられるそうです。奴隷制はクルアーンとシャリーアで公認されており、原理主義組織が時々女性を拉致して性奴隷にしたと報じられますが、聖典で認められているのですから不思議なことではありません。なにしろクルアーンは最高・最後の啓示で書き換えることは許されません。

◆不信心者  イスラムに改宗すれば逃れられるという理屈です。イスラムは他宗教に寛容だったと言われ、7世紀当時では画期的だったとされますが、それは非寛容なキリスト教との対比であって、多神教の世界からすれば当たり前のことにすぎません。それもイスラムを最高位とし、他宗教を一段・二段下に見て、存在を許容するという意味の寛容ということです。今日では寛容とはとても言えないことです。無信心・無宗教者は生きている価値がないとさえ言われます。日本人や中国人の多くはそれに入れられるのかもしれませんが、経済的にも文化的にもムスリムに負けません。

◆女性   女性だけは上の2つと違って超えることができない壁があります。聖典では女性を対等に扱っているところもある、と言いますが、イスラムは単なる宗教ではなく社会全体を律するものとムスリムは一致して主張しますから、女性差別の撤廃には大変な社会改革が必要で、容易なことではありません。マララ・ユスフザイさんのような闘士が何人も出てきて、数百年後に今日の私たちのような社会になるのかどうか。少なくとも、女性問題で現代においてイスラムに学ぶことはありません。

◆これだけは進んでいた人種差別否定。  7世紀において人種差別を否定したイスラムの教義はたいへん先進的でした。社会の発展、科学の発展は人種にこだわらないイスラムの考え方が大いに寄与したと思われます。しかしそれは当時の世界との対比です。現代においてイスラムに学ぶところがあるとすれば、差別撤廃の実践にあるでしょう。残念ながら、民族や宗派の争いは激しくなる一方です。イスラムは平和な宗教だ、というのは 「支配者の寛容」 というべきもので、文字通りには受け取れません。


生まれによる差別は今日でも生きています。サウジアラビアの王制は何でしょうか。石油利権を独占し、外国投資に熱心で、王子が50人もいるというのですから、話になりません。
   (わが家で  12019年2月2日)

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