魔人の鉞

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既存宗教は 幼児の歩行器

2015-07-20 16:48:33 | 宗教

なぜ人は、全知全能の人格神などというものを信仰するのか、
ということで読んだ3冊目、
「人類は 『宗教』 に勝てるか~ 一神教文明の終焉」 町田宗鳳
NHK出版、2007年。

著者は無神論者ではなく、一神教が終焉する必然と 「無神教」 の誕生を説いています。
「宗教は愛と許しを説くが、人を幸せにしない。人類社会を平和にもしない。なぜか。宗教とは人間の勝手な思惑で作り上げられたフィクションに過ぎないからである」 (9p)  著者はそれが自身の長い宗教経験の結論だといいます。
「江戸時代、人の移動には籠が欠かせなかったが、現代のわれわれに欠かせないのは、立派なエンジンがついた自動車である。しかもそのエンジンたるや、日進月歩である。」
「われわれが大切にしている宗教は、霊的に幼い人類に与えられた歩行器のようなものである。人類が自分の足、つまり自分の判断力でしっかりと歩けるようになれば、宗教という歩行器はお蔵入りになる。」 (150p)
しかし今は、宗教は物心もつかない幼児の時から刷り込まれ、なかなか脱皮することができないどころか、イスラームでは棄教は死刑に値する犯罪です。ドーキンスが幼児虐待と批判する所以です。

「では、次世代の宗教とはどういうものか。それはまず、人類の精神的自立を抑圧するのではなく、それを促進するものでなくてはならない。またそれは、地域文化の歴史や民族性を超える普遍性を持つ宗教であるべきだ。」

著者はそれを 「無神教」 と呼び、「それは神仏を礼拝したり、論じたりすることもなく、神仏とともに生きていく生き方のことである。」 (151p) とします。私たち人類には、そのために仏性や霊性と呼ばれる、素質が備わっているのです。
「無神教の段階に至るためには、自分の外側に依存すべき存在を認めないというわけだから、自己がよほどしっかりと確立していなければならない。それはある意味で、既存の宗教が要求する戒律や苦行よりも、よほど難しいことである。」 (152p) 

その真理はインドヴェーダ哲学でいう梵我一如、華厳経でいう四種法界の最高の 「時事無碍法界」 などですでに解き明かされているということです。しかし確かに凡夫にはむずかしいことです。
著者は無神論ではなく、自身を宗教的であるとしています。一神教の世界では、無神論者は人でなしという扱いを受けるようですから、言いにくいのかもしれません。しかし無神教の神は外部ではなく自らの内にある、神とともに生きる、というその神の実体は必ずしも明らかではありません。突き詰めれば、無神教はその人が理想とする行動と考え方を教義とする理神論になるのかもしれません。

ともあれ、仏教を含む既存宗教への批判は大いに納得できるものでした。宗教が自己否定し生まれ変わることができるか。私には1000年かかってもそれが実現するとは思えません。無神論で否定し去るほうが早いのではと思います。
     (わが家で  2015年7月20日)

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あの 小林よしのり氏 が安保法制批判

2015-07-16 16:49:22 | 時事問題

小林よしのり氏が阿部政権の安保法制について、「弁護士ドットコム」 のインタビューに答えてまっとうな批判を加えています (7月14日掲載)。右翼のゴリゴリかと思っていましたが、意外にまともなのに驚きました。そして立憲主義を守ることが大切だと訴えています。

以下に要約します。

~ (今の安保法案に反対するのは) あの法案がひとえに 「アメリカ」 を向いているから。政府があの法案を通したい理由は、「夏までにこの法案を通す」 ってアメリカに約束したからで、「従米法案」 だからダメだと言っている。こんな法案に賛成するやつのどこが保守ですか。屈辱ですよ。
集団的自衛権をやりたいなら、憲法を改正して、自衛隊を軍隊にするしかない。絶対にそれしかない。いま、立憲主義を守るのか、国際関係の逼迫感なのか、この2つが天秤にかかっている。国際安全保障環境がものすごいきびしいというが、冷戦時代のほうがすごかった。ワシが問題視しているのは、「立憲主義の危機」 なんですよ。憲法9条の危機ではない。

日本が近代国家として、「法の支配」 を守ろうという前提があるのなら、立憲主義を大事にしないと何にもならない。立憲主義を壊してでも、対処しなければならない危機があるというけど、それは 「権力に暴走を許せ」 ということ。それが自称 「保守」 の論理なんだ。
ワシは違う。権力が暴走して国を滅ぼすことは、現実にあった。権力はやはり縛らないといけない。必ずしも軍人だけが暴走するのではなくて、シビリアン・コントロールをしても、シビリアンだって暴走する可能性があります。権力をしばる立憲主義の原則は絶対に崩してはならない。 ~

現法案は 「従米法案」 で、シビリアンも暴走する、とはよく言ったと思います。こういう意見を知って、自民党執行部が勉強会への講師依頼をキャンセルさせたのでしょうか。議員として人間として信念を問われる問題なのに、自民党議員は今やうっかり物もいえないし、マスコミには出るなと指示される始末。まったく独裁政治と変わらなくなってしまいました。

閣議決定で憲法を実質的に改変してしまうということは国の将来を危うくする事で、それが安全保障のためだというのはブラックジョークです。数の横暴で法案は成立するかもしれないが、今後は自民党にきついお灸をすえて、独裁をやめさせる以外にないでしょう。
     (わが家で  20015年7月16日)

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宗教心は進化論的な本能か??

2015-07-14 16:50:37 | 宗教

なぜ人は、全知全能の人格神などというものを信仰するのか、ということで読んだ2冊目、「宗教を生み出す本能」 リチャード・ウェイド著、 NTT出版、2011年。


著者は 「本書の目的は進化論の観点から宗教行動を理解することである。」 (1P)、 「宗教行動をする本能は、たしかに人間の本性として進化してきたものである。」 (2p) としています。
著者は進化論と宗教の折り合いを付けようとしているように思われます。宗教のあり方は狩猟採集時代から進化論的に変化してきた、というのは一つの考え方ですが、宗教性は人間の本能だというのは説明不足です。道徳性や宗教性は進化する遺伝的素質というよりも、幼児時代からの社会的宗教的教育が作り出す性向と考えるのが妥当でしょう。オオカミに育てられた少年は社会性や宗教性など持ち合わせていなかったという事例が劇的にそれを証明しています。ドーキンス氏は、ものを考える力のない幼児への宗教教育は虐待に等しいと非難しています。

また、宗教が社会を形成する強い力を持っていることは否定しませんが、「宗教なしで長期にわたって存続した社会はない」 (214p) という断定は性急で、東アジア諸国 (特にわが日本) が顕著な例外ではないかと思います。日本人は無宗教と言われて久しいですが、それで1500年以上続いてきました。儒教は祖先崇拝を基としていますが倫理学的であり、仏教は魂の救済を目指しますが本質は哲学的であり、どちらも超自然的絶対神への帰依ということではなく、西洋的な意味での宗教ではないとも考えられます。東アジア諸国でそれらの教説がなければ社会が統一できなかった、統一を維持できなかったというほどのことはないと思います。

それよりもこの本で採用しているアブラハム系3宗教の成立に関する分析が実に興味深いものがありました。

まずユダヤ教について。
ユダヤ教は前640-630年頃にユダ王国のヨシュア王が、その昔アッシリアに滅ぼされたイスラエル王国領土を統合しようとしたさい、ユダヤ全体の民心を掌握するために作り出されたと考えられるとします。(173p) それは出エジプト、モーセの十戒に続くダビデ、ソロモンの栄華の時代を再建するという、王の政治的メッセージをバックアップするためのものでした。
しかし歴史的には、出エジプトはあったとしても少数の者の経験でしかなかったし、モーセは存在しなかったし、ヨシュアの凄惨なカナン征服もなかった。征服を示す廃墟などの歴史的遺物はまったく見つからず、結論としては、もともとユダヤ人はそこに住んでいた、と考えるのが妥当で、それをわざわざ征服したと表現した、と考えられるそうです。
ノアの箱舟やエジプトでの苦難などいろいろな説話がすでに先行して存在しており、それらを巧みにアレンジした面も多いようです。本当だとするなら、王の政略のためになんとすごい創作をしたことか。しかし宗教にはそうした、権力者に奉仕するという面が確かに強いと思います。

キリスト教についてはかなり知られていますが、新約聖書といわれる経典類は、真正なパウロの手紙が紀元70年以降、4福音書はそれ以後に書かれたもので、イエスと同時代のものは一つもなく、4世紀になっても編纂作業が続いていたらしいといわれます。367年にアレクサンドリア総主教アタナシオスが書いた手紙の中にようやく、現在の新約聖書に収められている文書のリストが出てくる (185p) のだそうです。
マリアが処女でイエスを懐妊したという教義は、「七十人訳聖書」 でヘブライ語をギリシャ語に訳すときに、 「若い娘」 という語を 「処女」 を意味する語で訳してしまったのが発端だそうです (この本には書いてありません) から、聖書もよほど注意して読まなければならないわけです。
ローマの国教となって発展したこと、最重要の三位一体説が325年にニケーア公会議でローマ皇帝コンスタンティヌスの裁断によって正統と認められたことを見れば、キリスト教もまた権力者と手を組んで自らの地位を確保したといって差し支えないでしょう。

もっと驚くのがイスラームです。聖典クルアーンは神が天使を通じてムハンマドに下した口唱そのものと言われていますが、先行する2つの宗教と同じ経緯があって不思議ではないようです。そもそも正典を定めるよう命じた第3代カリフ、ウスマーン(在位644~656)は、「正典と異なるすべての書、写本を焼き払うよう命令した」 といわれていますから、異本があったと考えるのが当然でしょう。しかも、ムハンマドはクルアーンにたった4か所しか登場していないそうです。モーセの136、イエスの24に比べて圧倒的に少ない。またムハンマドに言及した最も古い歴史的記録は691年にダマスカスで鋳造されたアラブ・ササーンの硬貨だそうですが、これでもアラブ歴元年 (西暦622年) から70年もたっています。(198p) しかも、クルアーンのムハンマドも硬貨のムハンマドも、文法的に人名であると断定できないmuhammadun rasul allah (下記参照) という表記だそうです。そしてイスラーム (神への服従) という言葉が史上初めて登場するのは692年完成の 「岩のドーム」 の碑文で、その硬貨の翌年になります。イスラム暦が始まって71年目でようやく 「イスラーム」 という言葉が使われたというのですから、実に不思議な話です。

ムハンマドは最後にして最大の預言者なのにその名前と存在感があまりに希薄、というのには理由がある、として著者は修正主義者の論理を紹介します。
それによると、最初のアラブの支配者はウマイヤ朝 (661~) 初代ムアーウィヤと考えられるそうで、なぜなら非イスラム史料にはそれ以前の支配者の記録がまったくない。さらにムアーウィヤは処女懐胎を認めないシリア系キリスト教徒だったらしい。領内の宗教はネストリウス派キリスト教とキリスト単性論などに分かれていたので、2代目アブド・アルマリクは、すべての教派を従わせる統一信条を必要とした。アルマリクがエルサレムに建てた692年完成の 「岩のドーム」 (イスラーム第3の聖地) の碑文には、「マリアの息子イエスに祝福を」 などの言葉があり、イエスを神ではなく人間であり預言者とするシリアの伝統に戻り、三位一体を否定したとされる。(204p) また同じドームにアラビア語で muhammadun rasul allah 「ムハンマダン ラスール アラー」 とあり、「神の使者を讃えよ」 という意味だが、それは碑文の文脈上イエスを神の使者とするものと考えられる。ところがイスラム教徒はその文を 「ムハンマドは神の使者なり」 と読むのだそうで、どちらとも読めるのだそうです。

そして750年、アッバース朝がウマイヤ朝を倒したのち、おそらく第7代カリフ・マームーン (在位 813~833) の時代に、 ウマイヤ朝のキリスト教色が払拭され、身内というべきアラブの預言者とその啓示を前面に打ち出した。(207p) そのさい、アラブ世界がビザンチン帝国から独立した622年にヒジュラがあったとしてイスラム元年とし、ウマイヤ朝の前にムハンマドのイスラム創唱期と正統カリフの時代が置かれた、と推定します。これはつまり、イスラム紀元200年前後に、今日的な意味のイスラム教が権力者の意向に沿って創られた、ということになります。一つの理論としてはよく筋が通っています。
しかし、ムハンマドとその一族の正統カリフ時代が書き加えられたものとすれば、そこにシーア派分裂のもととなった骨肉の争いなどを盛り込んでいるのはなぜでしょう。もっと美しい歴史にしておけばよさそうな気もします。指導権をめぐる骨肉の死闘で宗派が分裂するなどとは情けない話ですが、人間社会ではいかにもありそうな事で、美化していないところが逆に信用できる気もします。そしてこれも権力者が宗教を利用した形と言えるでしょう。ムハンマド一族のお家騒動を千数百年も後生大事に守っているのもご苦労なことだと思います。

人間ムハンマドが実在したかについても疑問が示されます。ムハンマドについては非イスラム文献や物的証拠がほとんどないようで、硬貨や岩のドームの件は上述した通りです。当初ムハンマドが迫害されたというメッカは農業に適さない地であり、当時は辺鄙なところで商業的繁栄とも程遠かったということで、クアルーンの記述とずいぶん食い違いがあるようです。(195p)
イエスの実在も、1世紀の非キリスト教徒によるイエスへの言及がない、ローマ側文献に磔になったイエスという記録がない、ことなどから疑問視する論議が少なくありませんが、ムハンマドはそれより600年も新しいのに、さらに曖昧です。
いずれにせよ、イスラームはもっとその成立過程について研究が進められる必要があります。


宗教は道徳の基準だという考え方があり、著者もそう主張しています。しかしいろいろな聖典には遠い昔の人たちの、その当時の感覚に基づいた道徳基準が記されており、今日ではとても受け入れられない内容をたくさん含んでいます。ユダヤの旧約聖書では神が嫉妬深くて民を滅ぼすことやヨシュアの大虐殺、キリスト教では親兄弟と争ってでも神に従うことを要求すること、イスラムでは棄教への死刑や女性を人と認めないほどの差別。そして何よりも唯一神信仰からくる自己絶対化と異教・他宗派の極端な否定・排除の考え方が問題です。
私は、どれかの宗教の聖典にある道徳内容を丸ごと規範にすることはできないと感じています。難しくはあってもやはり自分自身で考え、取捨選択する以外にありません。儒教・仏教を含め、納得できるよいところを選び取る。それはつまり、道徳の規準は神にではなく人間としての自分たち自身にある、ということです。
     (わが家で 2015年7月14日)

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「神は妄想である」

2015-07-10 16:51:44 | 宗教

リチャード・ドーキンス 「神は妄想である」 The God Delusion。

なぜ人は、全知全能の人格神などというものを信仰するのか、このごろ不思議でなりません。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という3宗教は何れも旧約聖書を聖典 (の一部) とし、全知全能の人格神を信仰するアブラハム系の宗教です。旧約聖書の神はとても嫉妬深く、自分以外の神を認めず、人が少しでも迷ったら皆殺しにするほど残忍な、トンデモない神なのに、なぜ多くの人が信じてしまうのでしょう。
なぜなのか、と思いつつ幾つかの本を読んでいます。この本は以前にも読んだのですが、よく頭に入っていなかったので、あらためて読み直しました。

著者は有名な 「利己的な遺伝子」 の著者で、著名な生物学者です。その本を読んだときは斬新なアイディアだと思いましたが、全面的に共感するところまで行きませんでした。
この本では神の存在を全面的に否定し、無神論者であると宣言します。私はドーキンス氏を支持します。

神の存在を証明したという現代までのすべての論証は論破されます。

① 世界的に知られている聖トマス・アクィナスの5つの証明 
  1.不動の動者、2.原因なき原因、3.宇宙論的論証
これらはすべて、世界には始まりがあり、初めが存在するためには始原の原因者が必要で、それが神である、とする論です。

←仮に原因を求める無限の遡行を停止させる=最初の始まりのために何かが必要だとしても、それが全知全能の人格神でなけれぱならない理由がない。また神自身は遡行を免れる (原因者がいなくてよい) という根拠のない仮定に基づいている。(それなら最初の始まりにも原因者がいなくてよいことになる。)

  4.度合いからの論証
事物には違いがあるが、それをわれわれは最大のものとの比較によって判断する。完全さの基準を定める最大者を神と呼ぶ。

←とても論証といえない。それならたとえば、「うさん臭さ」 の最大の基準も 「神」 と呼ばれるのか?

  5.神学的論証、あるいはデザイン論を持ち出す目的論的論証
世界の事物、ことに生物は、目的をもって設計されたように見える。目的をもって設計されないのにそのように見えるものはない。したがって設計者がいるはずで、それを神と呼ぶ。

←ダーウィンの進化論で完全に粉砕された論理。

② 存在論的論証 (先験的)  聖アンセルムスの論証
「それより偉大なものを思いつくことができないような存在」 を思い浮かべることができる。しかし現実世界に存在しないものは、まさにその事実のゆえに完全ではない。「それより偉大なものを思いつくことができないような存在」 は、現実に存在すると考えることができ、存在するほうがより偉大である。だから神は存在する。

←宇宙に関する重大な真理が単なる言葉遊びから引き出されるなんて、話ができすぎていないか? 哲学者カントは、存在は非存在よりも完全である、という狡猾な仮定こそ、インチキカードであることを突き止めた。オーストラリアの哲学者ガスキングはこう言っている。「存在しないのに宇宙を創造する神を思い浮かべることができ、それは存在してすべてを創造する神よりも偉大である。したがって神は存在しない。」

③ 美を根拠にした論証
ベートーベンの晩期の四重奏曲は荘厳である。シェイクスピアのソネットもそうである。しかしそうした作品は神がいても荘厳だし、神がいなくても荘厳である。
ある偉大な指揮者はこんなことを言ったそうだ。「モーツァルトを聴くことができるのに、なぜ神が必要なのか?」

④ 個人的な体験による論証
人間の脳は、第1級のシミュレーションソフトを走らせている。この精巧なソフトウエアには究極の迫真性をもった 「幻視」 や聖母の 「出現」 現象を引き起こす力がある。同じ働きは聴覚にもある。幻視や神の声といった顕現現象は、幽霊や天使、神、聖母マリアが実際にいると信じるに足る根拠になりえない。

⑤ 聖書に基づく論証
  19世紀以来、学術的な神学研究者たちは、「福音書は現実世界の歴史で起こったことについての信頼できる記述ではない」 という決定的な論証を行ってきた。イエスの死後に書かれたパウロの手紙にはイエスの生涯についてほとんど何も書かれていないし、福音書はそれよりさらに後になって、宗教的大義のために潤色されたものである。

⑥ 宗教的科学者を持ち出しての論証
ネイチャー誌に載ったラーソンとウィザムの1998年の研究では、米国科学アカデミーに選出されるほどに優れているとみなされているアメリカの科学者の内で、人格神を信じているのはわずかに7%でしかない。英連邦ロイヤルアカデミーの会員 (フェロー) に対するコーンウェルとステアラットの調査では、(計算すると) 信心者は同様に5%弱に過ぎない。(154p)

⑦ 大数学者パスカルの賭け
「神を信じたほうがいい。信じることが正しければ永遠の幸福という利得を得るが、間違っていたとしても失うものはない。信じないで、それが間違っていたら永遠の苦しみを受けることになるが、正しかったとしても何の利得もない。悩む必要がないのは明らかだ。」

←これは神を信じているふりをするための論証にすぎない。
しかし、もしそうするなら、信じる神は全知というたぐいの存在ではないほうがいいだろう。神はその偽装を見抜いてしまうだろうから。思うにパスカルはおそらく、冗談半分だったのだろう。

著者は、「なぜ私たちは、『神を喜ばせたいならば、しなければならないことは彼を信じることだ』 という考えを、そんなに簡単に受け入れてしまうのだろう。」 と自問します。(157p)
しかし私は、アブラハム系の全知全能の神はなぜ絶対無条件の盲目的排他的信心を要求するのか、ということが不思議です。それが神の第1番の要求で、戒律に比較的寛容なキリスト教でもそうなのです。
仏教では逆で、阿弥陀仏自身が衆生を救済するという願をかけ、私たちはその本願にすがることで救われるのです。排他的信心などを要求しません。旧約聖書の神は偏執狂のような横暴執拗で異様な神だと思いますが、実在しないからこそ強制的に信じさせようとするのではないかと感じます。

⑧ ベイズ流の論証
スティーブン・アンウィンは神の存在・不存在をベイズの定理の応用による数値的可能性で判定する。まず、存在可能性を50/50とし、それに6つの項目を数値化して定理に投入する。その結果、存在確率が67%でしかなかったので、最後に 「信仰」 という項目を投入して95%となったという。

←項目の選択も、数値の設定もまったくアンウィンの個人的な感覚に頼っているもので、論じるに値しない。


こうして存在証明をことごとく撃破し、不存在証明も行っています。

また宗教の存在理由の大きな要素と一般に考えられているる 「道徳の根源」 についての考察も肯けます。
道徳は宗教ではなく、ダーウィン主義によって進化してきたと考えることができ、「神がいなかったら、どうして善人でいられるのか」 という人は、神がいなければ 「泥棒・強姦・殺人」 を犯す不道徳な人だとみずから暴露していることになると著者は主張します。
「宗教を信じようと信じまいと、私たちの道徳心は聖書とは別の源泉からやってくるのであり、その源泉というのは、宗教の違いや宗教をもたないことにかかわりなく、私たちの誰もが手にすることができる。」 (372p)

確かにそうです。無宗教と言われる日本人が、東日本大震災やその他の大災害時に、世界が驚嘆するほど道徳的にふるまうのです。道徳心は宗教心とは別のものだと考えるよい研究材料ではないでしょうか。

むしろ宗教が道徳心を曇らせることさえあるようです。
アメリカの進化人類学者ジョン・ハートゥングによる、イスラエルの心理学者ジョージ・タマリンの研究紹介があります。タマリン氏はイスラエルの8~14歳の生徒1000人以上に質問します。旧約聖書ヨシュア記の、ユダヤ人によるエリコの征服の場面、

「(預言者) ヨシュアは民に命じた。主はあなたたちにこの街を与えられた。町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ。・・・彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、ヒツジ、ロバに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。」

を読み聞かせ、これについて、ヨシュアとイスラエルの人々は正しい振る舞いをしたと思いますか?
A 全面的是認 66% 、  B 一部是認 8% 、  C 全面的不同意26%
これは大虐殺ではなく、神に従ったのだからまったく正しい、というのが大勢です。(372-374p)

こんどは168人の、別のイスラエルの子供の集団に、ヨシュアをリン将軍、イスラエルを3000年前の中国の王国に置き換えたテキストを与えて、同じ質問をしました。結果は正反対で、
A 全面的是認 7%  C 全面的不同意 75% となったそうです。(375P)
これは大部分の現代人が共有する道徳上の判断と一致します。宗教のメガネは、なんと歪んでいることでしょうか。

道徳には 「時代精神」 というものがあると著者は説きます。道徳の基準は数十年程度で大きく様変わりすることがある。今日、私たちが正しい、あるいは間違っているとみなすものについて、驚くほどひろく行き渡った見解の一致が存在し、それはタリバンやキリスト教原理主義者など一部の例外を除いて、いろいろな信仰を持つ人たちまで及んでいる。たとえば人種差別については、1850年代のリンカーンでさえ今日的な基準でいえば人種差別主義者だった。しかし100年もたたずに大きく意識は変わった。男性より劣ったものとされていた婦人への参政権付与は1893年のニュージーランドを皮切りに数十年で世界に広まりました。イスラム圏では女性蔑視が根強く、宗教がそれを当然のこととしてバックアップしているのですが、2006年にはクウェートも婦人に参政権を付与したそうです。(386-387p)
伝統や社会の成り立ちの違いなどは不合理の言い訳に過ぎず、イスラム圏でもやがて必ず宗教と道徳観の変革が起こると思います。時代は全く違いますが、前記のイスラエル民族によるエリコの征服は現代では大虐殺とみなされ、今日このようなことを行なったなら世界中から非難を浴びることになるでしょう。
道徳観は人間の自由・平等・尊厳・互恵を目指す方向へと一貫して進んでいるといって差支えないわけですが、宗教は停滞しています。むしろ逆に桎梏、足かせになっている宗教が多いといわなければなりません。

では 「宗教の根源」 について。
神を求める心、宗教は人類の本能的なものである、ということの究極的な説明は、「群淘汰」と言われる考え方によるものが多いということです。人類のほとんどすべての社会に宗教があるのは、宗教心が強く犠牲心や忠誠心が旺盛な集団が他を征服して生き残る、という論理らしい。そうして本能として人類に刷り込まれたとします。
しかしそういう人は死ぬ確率が高く、忠実でない個人が生き残りやすいから、群として生き残っても犠牲心や忠誠心が旺盛でない人が増えるのではないか、という反論があります。また私感では、「群淘汰」 は日本や中国のような、宗教心が希薄だったり、唯一絶対神を持たない社会について十分な検討がされていないと感じます。


著者の結論は多分これです。
「信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。」 (451p)

これは子供に宗教を教え込む害悪を指摘した第8章にあるのですが、大人にとってもまったく当てはまります。人間の自由を許さない絶対神、差別観念を固定し強化する宗教は、害悪そのものです。宗教は政治権力を後ろ盾として普及した面が強い。キリスト教もイスラムもヒンズー教も、当初は存在意義があったと思いますが、ひとたび確立されると支配層の権益保護と差別抑圧の道具になってしまい、人々の心の救済とは正反対になってしまうのです。人間は一度固定された言葉・思想になぜこんなにも強く拘束されるのでしょう。

キリスト教は宗教に寛容な多神教のローマ帝国の中で育ち、何度かの弾圧を生き延び、のちに国教化されると唯一絶対神の本性から異教を弾圧するようになり、さらには異端・異論・分派までも徹底的に排除しました。今日では江戸幕府が全国で行なった徹底したキリシタン弾圧は評判が悪いですが、私は徹底的だったがゆえに日本を唯一絶対神の迷妄から救うことができたのではないかと思います。
     (わが家で  2015年7月10日)

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百田尚樹 はデタラメ人間だ

2015-07-02 16:52:58 | 時事問題

どうも百田尚樹氏にはあきれました。
「永遠の0」 では特攻を非道な作戦とし、特攻そのものを必ずしも
賛美しているとは思わなかったのですが、いろいろ発言を見てみる
とひどいものです。

特に自民党若手・阿部総理支持派の勉強会での発言は何でしょうか。
沖縄の2紙はつぶさなければいかん、とか、沖縄の米軍普天間基地は
もとは何もない田んぼの中で、儲けるために人が集まってきたとか。
実際にはそこに宜野湾村集落があり、沖縄住民が収容所に入っている
間に勝手に強制収用されたというではありませんか。

放送作家出身でありながら、ろくに調べもせずいい加減なことを
わめき散らし、新聞社をつぶそうなどと自民党議員の言論弾圧を
応援するような物言い。底なしのバカ者です。

「永遠の0」 の結末に実は少し不満がありました。主人公が特攻の
際に採った飛行方法は、実は最初に特攻作戦を計画した参謀たちが
研究していたものなのです。技術的にはたいへん高度で、新米には
とても出来ないそうです。百田氏は主人公宮部の独創のように描いて
いますが、違うのです。
フィクションだからと思っていましたが、百田氏のいい加減さが
ここに出ていた、のかもしれません。

やしきたかじん氏の最後の妻との日々を描いた 「純愛」 も、氏の
親族はじめ事情を知る人から非難ごうごう。ノンフィクションなら
大嘘、フィクションとしても実在の人物を描く作法ができていない
ようです。

それでいて偉そうに、人に教えてやる、というスタンス。
百田氏は全く信頼できない!!  顔も見たくない!!

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