魔人の鉞

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信長、秀吉 歴史の常識を覆す2冊

2016-04-07 16:33:21 | 日本史

「消された秀吉の真実」~徳川史観を越えて~ 山本博文・堀新・曽根勇二編、
柏書房 2011年。

豊臣秀吉について、常識を覆してくれる一冊です。
まず、家康が勝ち秀吉が負けたと喧伝され、家康が秀吉に対し特別な地位を獲得したとされる、長久手の戦い。じつは、この戦いの焦点である岩崎城の攻防では秀吉が勝ち、最後の長久手でかなりの兵力を失った、という事だそうです。全体では秀吉の勝利で、家康が人質を差し出して和睦しているのですから間違いありません。(172p) 
また、家康は秀吉から文禄3年に羽柴姓を下賜されており、本性も豊臣姓に改姓していたことがほぼ確実だそうです。(168-169p) ところが日光東照宮などに残る家康の叙任文書はすべて源姓になっています。これは3代家光が書き換えさせたものである、ということを古文書の分析により明らかにしています。(284-285p)
要するに、家光は祖父・神君家康を貴ぶために歴史を書き換え、学者たちもそれに追従して300年、私たちもそうした徳川史観にすっかり洗脳されている、というわけです。

もう1冊、こんどは織田信長の常識に挑戦する、「信長は本当に天才だったのか」 
工藤健策著、草思社 2007年。

桶狭間 (1560年) は2000人もの織田軍が身を隠して奇襲できるような地形ではなかった。たまたま折からの豪雨が信長に味方した。情報収集も決してうまくなく、薄氷の勝利だった。
その後すぐに美濃攻略に手を出したが、舅である斎藤道三を放逐した義龍と何度戦っても負けてばかりで、義龍の死後に幼君龍興が立ってもまだ美濃平定は出来なかった。調略により有力者を手なづけ、美濃を手に入れる (1567年) のに7年もかかっている。とても軍略の天才とは言えない。
という具合で、私たちの 「信長天才信仰」 はコテンパン。丁寧に史料を分析しているので、たいへん説得力があります。たしかに、アレクサンダー大王やチンギスハーンといった軍事の天才とは比べ物になりません。この本にはありませんが、楽市楽座などの政策も信長の独創では全然ありません。

今日の歴史の常識というものは実際の史実でなく、後の権力者や伝記作者、御用学者たちが、都合のよいように書き上げた創作によるものが多く、ある種の文学的レトリックが含まれていることに気を付けなければなりません。講談本や小説などエンターテイメント物になればなおさらで、人徳があり天才だから勝った、奢ったり愚劣だから負けた、となるのです。信長天才説は昔からあり、作家津本陽氏なども熱心に説いているようですが、私は以前から虐殺が多く横暴な信長を大嫌いなので、天才説に抵抗がありました。この本はとてもうれしい一冊です。

ついでに言うと、関ヶ原の西軍の仕掛け人石田三成。この人はずいぶん悪く言われていますが、私はすばらしい人物だと思います。その領国では名君の誉れ高いと聞きます。石高で家康の15分の1の小大名でありながら、全日本の半分をまとめて 「簒奪者」 家康に一世の戦いを挑んだその智謀は、日本史上並ぶものがありません。真の盟友・親友が多く、関が原で彼とともに戦い、小早川の裏切りさえなければ勝っていた可能性が高いほどです。茶々は誤解していたようですが、幼君を守り抜こうとした忠義の人、ともいえる。家康は、どうみても豊臣の政権を簒奪したと言わざるをえません。
まして小早川をはじめ福島正則、加藤清正など、豊臣恩顧でありながら徳川に附いてのちに改易されたような情けない人たちは、問題外でしょう。

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