魔人の鉞

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明治維新は、権力闘争そのもの

2023-08-17 16:25:55 | 日本史
私たちは明治維新は素晴らしい大改革だったと教えられてきましたが、それは官軍史観に過ぎなかったようです。

「日本を開国させた男 松平忠固」 関 良基 (せき よしき) 著、2020年、作品社。

日米和親条約につづく日米通商航海条約の締結に際し、大老井伊直弼が無勅許調印を断行したとされていますが、実は無能と言われた当時の幕閣・官僚には開明派が多く、中でも老中松平忠固 (ただかた) がその中心人物だった、という事を丹念に跡付けています。

彼らは、攘夷で一戦して負けたらアヘン戦争の清国の2の舞になるので、無傷のうちに対等な条約を結んで開国するほかないと考えていました。そして国力を培うべきと。
阿部正弘が老中首座のとき、徳川斉昭を幕府海防参与に登用しましたが、これがご存じのようにゴリゴリの水戸派攘夷論者でした。老中の一角で断固開国派だった忠固 (当時は忠優と称す) は度々斉昭と論戦し論破し、斉昭をして切歯扼腕させたという事です。(52p)
条約交渉では岩瀬忠震・井上清直たちの毅然とした交渉が近年称賛されるようになっていますが、彼らも独断でできたわけではありません。幕閣が松平忠固らを中心にしっかり開国路線で固まっていて、斉昭らの攘夷派を抑えていたからこそ、素晴らしい交渉ができたのではないでしょうか。

そして改めて日米通商航海条約 (安政5年、1858) をみると、これは不平等でもなんでもない、きわめて対等な条約になっているというので、驚きました。(151p~)
著者によれば関税率は20%でこれは先進国の標準で、アヘン戦争後の清国はたった5%でした。日本側の申し出による再交渉の権利もあり、関税自主権があったという事になります。領事裁判権は双務的で、当時の状況を考えれば許容範囲と思える。
唯一、外国貨幣の流通を許したことが金銀交換比率の違いによる金貨の流出を招いたことが失策でしたが、これは強いられたのではなくむしろハリスの忠告を無視したため (165p) で、事後的に改善せざるを得ないことになりました。

つまり、安政の日米通商航海条約は対等な条約でした。それが関税を5%に下げられ、自主権を失ったのは長州藩による外国船攻撃と下関戦争 (1864) の敗戦後という事です。長州藩など討幕のために攘夷を口実とするいわゆる攘夷派は朝廷の不平貴族とつるんで攘夷決行を幕府に宣言させ、その期日に外国船攻撃を実行したのです。そして惨敗すると、それは幕府の命令だと言って責任を転嫁したのでした。わざと負けたのではないかと思うほどの完敗でした。

その結果、敗戦側の幕府は追い込まれ、賠償金を取られた上に平等だった日米通商航海条約は不平等条約に変化させられ、関税率は5%と清国並みにさせられてしまった。これは当初幕府側の危惧した状況を攘夷派がわざと作り出した、という事になります。攘夷・討幕派にとっては、負けても幕府が困るので結果オーライだったのです。

そして明治政府は、攘夷攘夷と唱えながら討幕後はたちまち開明派に寝返った。明治維新は国のためなどではなかった。単に権力欲だったというほかはありません。
明治の元勲・伊藤博文は横浜公使館襲撃のテロリストでした。そのくせに、自分たちが敗戦したためだったものを、幕府が無能無知だったからこんな不平等条約を作ってしまったので、その改正のために維新政府が悪戦苦闘した、というストーリーをでっち上げ、国民を教育したのです。どこまでも、嘘と策略で塗り固めた、盗人猛々しい歴史と言わなければなりません。

国のためというなら、対等な条約を結び開国に転じた幕府を打倒する理由はなかった。坂本龍馬の船中八策 (これは彼の発案ではなさそうですが) に従って、幕府・諸侯・諸士の共和で開国すればよかったはず。それでは困るので、討幕を目標にした薩摩が竜馬を暗殺したという説が出て来るわけです。私はその可能性は70%ありと思います。
また攘夷派だが佐幕=幕府協調路線の孝明天皇の逝去も暗殺説があるほどです。

そして討幕の過程では、暗殺、策謀、偽綸旨、偽錦旗などなんでもありのデタラメぶり。あの西郷が江戸で騒擾を起こさせ、討幕の契機にしたのはほぼ確実。要するに権力欲むき出しです。権力を取ればこんどは汚職・横暴のしたい放題で、節度倫理などかけらもない始末。西郷は金銭に潔癖だったらしいが他はダラシがない。
勝てば官軍、結果オーライ、誤魔化せない方が無能、という無節操国家・明治日本がアジア太平洋戦争で破滅したのは、ある意味で良かったのです。

司馬遼太郎氏は、明治国家は青年のようで素晴らしかったが、日露戦争後からおかしくなった、「異胎」 の国家になったと言っていますが、とんでもない浅見です。日露戦争後の日本も明治国家の直系で、他人の子ではありません。
日清戦争前にすでに、朝鮮王宮占領で国王を虜にして戦争につながる指令を出させ、戦後はロシア寄りの朝鮮王妃を惨殺するというとんでもない事件を起こしています。その犯人は結局無罪放免。何が初々しい青年なものですか。チンピラと言っても過言ではありません。国際法を順守したと言っても、ごまかせる物は徹底的に誤魔化しているのです。

司馬氏は都合の悪いことは無かった、見なかったことにしているだけです。そんな司馬氏はあくまで作家。文学作品を書いているので、読む人=日本人を心地よくしようというのはある意味で当然ですが、歴史家だ、司馬史観だと持ち上げるのは大変な間違いです。

明治は良かった、敗戦日本は本当の日本じゃないという司馬史観は、日本人にとって心地よいものですが、それでは本当のことが見えてこない。いやなものは見たくない、というダダっ子のようです。日本国民は被害者だ、といってアジア諸国民の被害に目をふさぐのも同様です。そうした姿勢では本当の歴史と、本当に大切なものを忘れてしまうでしょう。

司馬遼太郎を徹底的に批判しなければ、本当のことは見えてこない。私は浅学ですが、この頃そう確信するようになりました。

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司馬史観など、幻想にすぎない

2022-06-16 14:29:41 | 日本史

私は以前から、明治維新というものには不思議な所が多日下ある、と感じていました。桜田門外の変とか維新前夜の京都の混乱とか、ようするにテロが横行し、薩長はテロで政権を取ったのではないか? 孝明天皇の信任篤かった会津・松平容保はなぜ朝敵とされ、恭順するというのに追討されなければならなかったのか? 明治政府は尊王攘夷を主張していながら、政権を取ったとたんになぜ攘夷などかなぐり捨てて西洋化を図ったのか? 

「明治維新という過ち」 原田伊織著、毎日ワンズ 2015年。

著者は、明治維新崇拝者で国民の歴史観に多大な影響を及ぼした作家・司馬遼太郎の史観を切って捨てます。

テロを全否定する司馬氏は、しかし「桜田門外の変だけは歴史を進展させた珍しい例外であると断じ、と高く評価します。驚くべき稚拙な詭弁だと言わざるを得ない。」(186p)  

まったくその通りです。安政の大獄といっても刑死・獄死は14人で、たいして多くありません。旧時代の弾圧としてはおとなしいと思いますし、藩主が永蟄居の処分を受けたから大老を暗殺する、というのでは話になりません。尊王攘夷派では、気に入らないから殺すということが当たり前のように行われ、数え切れないほどの暗殺がありました。どちらがひどいでしょうか。

また司馬氏は人物で言えば3つの過ちがある、として3人の名を挙げています。 ①坂本龍馬はグラバー商会のパシリに過ぎず、薩長盟約の立役者などではない。盟約ではないが提携は半年も前に内定していたということです。船中八策はどこの記録にも出てこない、出所不明のシロモノだということ。②吉田松陰は松下村塾の設立者でも何でもなかったのに、長州の山県有朋が自分の下級士族出身の経歴を飾るために吉田松陰を持ち上げ、その偉人の下で学んだという伝説を触れ回っただけの事。③ 勝海舟は自分を大物に見せたがる。江戸城無血開城は会談の前に打ち合わせができていたものを、活が西郷と談判して決まっ、たという話を拵えた。

 

私の常識はまったく否定されましたが、納得できる内容です。尊王攘夷と言いながらそれは名分だけで、中身はどうでも良かった。要するに権力が欲しかったのです。そのためにテロをしまくった人たちでした。徳川慶喜が逃げ出した鳥羽伏見の戦い、その発端は、西郷が浪士を使って江戸市中で乱暴狼藉を働かせ (西郷の指示と云うのは異説もあるようですが) 、江戸取り締まりの庄内藩が業を煮やして幕府了解のもとに薩摩藩江戸屋敷を攻撃したのが発端です。西郷も大人物ではなく、相当の悪党という面を持っているようです。

 

自国の歴史が悪党だらけ、というのは気持ちいいものではないですが、司馬遼太郎氏のように日露戦争までは良かったが、そのあとが悪かった、というのでは歴史を語ることになりません。結果オーライにすぎない。そうではなく、テロリスト体質、空虚な思想しか持っていないことが昭和の亡国につながったということをシッカリと確認することが必要です。

司馬史観などというものは幻想です。彼はあくまで作家、物書きであり、面白いように歴史的な読み物を書いただけです。史観などと呼んで奉っては間違いだ、と思いました。

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明智氏の 「本能寺家康謀殺」 仕掛け説

2021-05-03 12:07:52 | 日本史

本能寺の変について、光秀の末裔と自称する明智憲三郎氏の本、「織田信長 433年目の真実」 幻冬舎 2015年。

明智氏は信長が孫氏・呉氏をはじめとする兵法に精通した「信長脳」を持ち、余人の及ばぬ戦略家であったとします。これについては異論がありますが、本能寺の変を「歴史捜査」し、このような推論を導いています。

それは、信長が徳川家康を暗殺しようとして、わざと数十人という小勢で本能寺に宿泊した。それは家康が謀反を起こしたので逆に誅殺した、と説明するためだった。そのことは明智光秀だけに知らせ、軍勢を本能寺に向かわせるよう指示した。光秀は信長のシナ征服構想を聞いており、このままでは自分がシナ征服戦争に投入され日本に帰れず、一族の将来は破滅だと考えて、謀反を考えたが、機会がなかった。しかし家康謀殺は信長がその舞台装置を仕組んでくれたわけで、千載一遇のチャンスになった。光秀は家康が本能寺を訪問するより半日早く、早朝に本能寺を襲えばよかった。こうして首尾よく信長を殺害した。

というわけです。

明智氏は、シナ征服構想は信長脳を継承した豊臣秀吉の実例をみればわかるとして、征服したシナに送り込む予定の者は光秀や秀吉らであったろう、としています。みな先見の明、未萌に見ることのできるすぐれた戦略家で、光秀はそこまで見通したと言います。

もしそうだとすれば、私の疑問だったこと、なぜ秀吉はクビも晒されていない本能寺の第一報だけで信長が死んだと確信できたのか、ということに答えが出ます。とうぜん秀吉も信長脳であったとすれば、秀吉は光秀がいつか謀反するということを薄々感づいていた、ということです。

 

しかしまったく根拠はありません。信長が天才的軍略家だった、ということには大いに疑問があります。信長の楽市楽座はいろいろ先例があるし、長篠の鉄砲3段打ちは史実ではなさそう。もし天才軍略家なら、桶狭間で大敵今川を破ってからもなぜ四苦八苦していたのでしょうか。また妹婿・浅井長政の反逆も見抜けなかった。独断専行の超ワンマンで失敗もたくさんあった、部下は戦々恐々だったというのが実態ではないでしょうか。

信長が家康を誅殺しようと考えたことは、難敵武田氏を亡ぼした直後だからかえっていいタイミングだった、という明智氏の分析は面白い。しかし証拠がない。光秀の意図も、何ら証拠がない。そして、織田の家督継承者信忠が本能寺近くの二条城にいたのはまったく偶然で、信長だけを殺しても信忠が生き残れば織田家は盤石だというのは明智氏が自ら指摘している通りです。信忠は逃走せず急報で本能寺に向かったが、そのご二条城に籠って、結局殺された。とすると光秀の謀反はやはり、それほど計画的ではなかった、ということになるでしょうか。

いずれにせよ、小説が何本も書けるような、すばらしい明智氏の推理です。

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光秀は、まさしく土岐氏の一族だった

2021-02-18 21:19:01 | 日本史

このごろ気になっている、本能寺の変。「光秀からの遺言」 明智憲三郎著、河出書房新社 2018年。

著者は明智一族の末裔ということで、たいへんな情熱と「歴史探偵」という手法で本能寺の変の真実解明に取り組んできているとのことです。

従来は経歴不明の明智光秀について、尊卑分脈や寛永諸家系図伝などの系譜を綿密に検討したうえで、美濃守護であった名門・土岐氏の一族で、連歌で高名だった明智光高=玄宣の曽孫としています。 (121p)

そう考えると、永禄11年 (1568) 11月15日、明智光秀が上洛して間もなく、近衛前久実弟の聖護院門跡・道澄の連歌会に幕府から細川藤孝と光秀が参加したことが納得できるとします。(164p)  この会にはのちに愛宕百韻に参加した宗匠・里村紹巴も加わっています。著者は、上洛間もない光秀がこのような超一流の会に出ることができたのは、光秀が連歌界で高名だった明智光高=玄宣の曽孫という肩書のおかげだとしていますが、納得できる説明です。

著者は、光秀がなぜ謀反を決意したかについて、信長からシナ征服計画を明かされたことがその原因だとします。(212p)  光秀にとっては土岐氏の再興と子孫繁栄を願っていたのだが、シナ征服になっては幼いわが子や一族の将来がメチャメチャになってしまうと恐れたために信長弑逆を企てたとします。初めは武田氏と提携を図り (甲陽軍鑑)、武田氏滅亡後は松平家康を暗殺しようとした信長の逆手を取って松平氏と気脈を通じた、と考えます。

織田信長が家康を亡ぼそうとしたということは有りうることです。 (218p)  しかし光秀が、信長からシナ侵略計画を打ち明けられて弑逆を思いつめた (212p)、というのはちょっと無理があると感じます。シナ侵略軍に組み込まれ遠征しなければならなくなったとしても、それが直ちに明智家の滅亡になるかどうか、なんとも言えません。光秀としてはうまく立ち回ればいいわけです。いかに「未萌に知る」のが戦国武将の心得とはいえ、先走りすぎると思います。やはり信長の虐殺指向、過酷な重臣処分に対する反感・危惧があったのではないでしょうか。弑逆は世の中のため、と思ったのではないでしょうか。

そして羽柴秀吉が、なぜ信長の首も遺体も晒されていないのに、信長が死んだと確信できたのか? 確信できなければ毛利との即日の和平も、中国大返しも敢行できるはずがありません。この謎は明智氏の著書でも解明されていないと思います。

光秀のかつての上司であり娘の嫁ぎ先の父である細川藤孝が、事前に謀反を知らされたか感づいており、秀吉に内通したということなのか。あるいは軍記物のいうように明智の軍使が秀吉軍に捕らえられたのか。軍記物の作者は、秀吉が一報を得て即座に信長が死んだことを確信するには、明智の軍使が捕らえられたとでもしなければ理解できないので、そうした筋書きを創作したのではないでしょうか。しかし事実はそうではないかもしれません。

日本史最大の謎、本能寺の変。明智光秀の出自と生涯は明智憲三郎氏によってかなり明らかになりました。しかしまだまだ謎は尽きないようです。

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本能寺の変、やはり不思議な秀吉の行動

2021-01-26 17:00:38 | 日本史

久しぶりに本を、「秀吉の陰謀~本能寺の変」 井上慶雪、祥伝社 平成25年。

日本史上最大の謎、本能寺の変。真相について諸説紛々です。私は陰謀説は好きではありませんが、この本を読んでいくつか思いついたことがあります。

一つは、なぜ秀吉は信長が殺されたと確信できたのか? ということです。戦国時代の当時、情報は不確実で、主君信長の横死などということは、よほど確実なものでなければ信じられないはず。ところが秀吉は1日ほどで即座に毛利方との講和をまとめてしまった。秀吉は信長に応援出陣を要請し、まもなく着陣する予定になっていたのですから、信長が到着する前に無断で大幅譲歩した講和を結ぶなどということは、信長が存命ならクビを刎ねられかねないほどの独断専行。こんな大胆なことができたのは、信長が死んだことを確信できた、ということでしょう。

しかしなぜそんなに確信できたのか? たとえ腹心の配下の情報であっても、信長の首が晒されたわけではありません。首どころか死骸も見つからなかったはず。そういう状態で、使者はなぜ死を確信した報告が出来たのでしょうか。秀吉はなぜ疑いもせずその報告を確信できたのでしょうか? 

しかも秀吉は事変の3日後、中国大返し中の6月5日に中川清秀に宛てて「信長、信忠は無事」という書状を出しています。これは信長の首が絶対に晒されないという確信がなければできないことです。万一首がさらされでもしたら、秀吉の信用丸つぶれ、敵方に追いやることになりかねないほどのフェイク情報になってしまいます。間違っていたでは済まない。なぜそんなリスクを冒せたのか? 

著者は秀吉が信長父子を「自分の掌の内で処理した」(80p) ということだとします。さらにまた、そうした手紙で自分以外の武将が光秀追討戦に立ち上がるのを阻止するという、計略があったとします。

私は秀吉が配下の兵を動かし、信長を暗殺したという説にはいまのところ賛同できません。光秀が実行犯だった、というのは光秀の事変後の行動が証明しているように思えます。光秀は犯人を追討するという宣言も行動もしていませんし、山崎で秀吉・織田信孝連合軍と戦って敗れています。

考えられることは、秀吉は光秀の叛意をうすうす感づいていたのかもしれません。それで著者の言うように、光秀が実行しやすい環境を整えた。信長に応援出陣を要請し、本能寺茶会を仕組んだ。そして、これは私の憶測ですが、明智軍の中枢に秀吉派がいて、決行後の至急報を秀吉に伝えた、とでも考えないと、話が成り立ちません。そんなことがありうるのか・・・ 天才秀吉なら、あるいはそんなことがあったのかもしれません・・・

 

秀吉は確かに天才です。信長の敷いたレールを走っただけというのは、どうも違うようです。信長はやはり大うつけで、まぐれで今川を倒し、金ヶ崎は助かりましたが、ついに弑逆されてしまいました。秀吉は真の天才かもしれません。ほとんどすべての戦いで、負けない態勢を作って戦さをしています。小牧長久手も、局地戦では負けたが結局は総合力で家康を従わせました。総無事令、刀狩、検地、武家官位制と、信長以上のことを次々に実行しています。信長死後は天下取りを目指してまっしぐら、織田家を盛り立てようなどとは全くそぶりもありません。

本能寺の変で突然に思いついたものなのでしょうか。腹のうちに青写真があったのではないでしょうか。

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