決定版、「開戦神話 対米通告はなぜ遅れたのか」 井口武夫 (中央公論新社、2008)。
まず、通説で対米宣戦通告とされる文書は、ハーグ条約に規定する宣戦通告の文書になっていま
せんでした。それは、当時の外務省アメリカ局長山本熊一氏の12月3日付原案結語に、日本と
しては 「交渉を打ち切るの已む無きに至れること並に将来発生すべき一切の事態に付ては
合衆国政府に於てその責に任ずべきものなる旨合衆国政府に厳粛に通告するものなり。」 と
あったものを (150p)、翌日12月4日の大本営政府連絡会議で末尾を削除したことで明らかです。
これにより、外交関係断絶でも開戦通告でもない、ただの 「交渉打ち切り通知」 になってしまった
ということです (152p)。
なぜ削除したかというと、真珠湾奇襲を成功させたい軍部の意向が強く働いたわけです。
また、その通知文書の対米交付が真珠湾攻撃後になってしまった原因は、幾つもあります。
① まず在米大使館側に開戦意図を厳重に秘匿し、「戦に勝つ為に外交を犠牲的にやれ」(杉山メモ)
というくらいで、まず味方を欺くというのが基本方針であったこと (56p)。通告文を読んでも開戦
通告とは分からないというのが実態で、アメリカは、通告時間が遅れたことよりも、「通告文書に
は戦争又は武力攻撃ないしそのヒントが何も示されていない」 ことを特に非難しています。(161p)
これはルーズベルト大統領が議会に参戦を求める演説でも強調されていました。
そして、14部に分割された通告文書の遅れの問題になります。
② 交付時間が真珠湾攻撃の1時間前から30分前に繰り下げられました。次に、
③ 1~13部は東京中央電信局から7日午前0時20分までに送信終了したが、1~13部には電信中に
175字にのぼる誤字脱字が生じており、在米大使館では修正文を受領してから清書することに
した。
④ ところが修正文は15時間後の第14部の直前にしか送信されなかった。
⑤ 最後の第14部は午前1時ころに送信しワシントン時間12月6日午後3時頃には在米大使館に届く
はずだったが、なぜか日本時間7日午後4時まで15時間も発信が保留された。(167p)
⑥ 在米大使館では10数時間待って、明け方3時になってもまだ第14部が来ないので、係員を休養
のため一時帰宅させた。
⑦ ちょうどそのころ、ルーズベルト大統領からの天皇宛親電が出たとの報道がなされ、日本には
7日正午に親電が入信したが、陸軍参謀本部電信係戸村盛雄により留め置かれ、10時間も天皇へ
伝わらなかった。(この親電は解読しやすいようもっとも簡単な暗号で組まれていたという。)
⑧ この間に親電を解読し瀬島参謀らが読んだが、大統領は天皇に直接回答を求めているので、
ハルノートへの回答として作成した通告文書では不十分になると考えた。
⑨ それで最後の第14部の末尾を勝手に手直しし、午後4時に発信させた (218-219p)、
というのが井口氏の見解です。この ⑧⑨ は井口氏の新見解ですが、大変に説得力があります。
⑩ 最終的には、明け方まで待って一時帰宅させた大使館員の出勤時間を遅らせたため第14部と
訂正部分の解読開始が来信の1時間ほど後になり、解読機の破壊命令により解読機が1台しか
なかったこと、米人タイピストを使うなとの本省の指示、などが重なって、手交時間が真珠湾
攻撃時間を過ぎてしまったわけです。
しかしそもそもイギリスには宣戦通告をしようともしていませんし、なぜ秘密保持上も時間管理上
も安全確実な在日アメリカ大使に手交しなかったのか、も井口氏は疑問としています。奇襲を成功
させるためギリギリの綱渡りをさせられ、しかも在米大使館は本国の開戦意向も開戦日時すらも
知らなかったのです。在米大使館を責めるのはお門違いです。
結局、東京裁判対策のために、すべてを現地大使館の不手際として責任をかぶせ、それが神話と
なったのでした。それは今でも根強く生き残っていて、訂正は容易ではありません。
日本の指導部はなぜこんなに出鱈目だったのでしょう。このような隠蔽体質が厳然として生き残っ
ているから、福島原発事故が起きたのでしょうし、集団的自衛権も、再びアジア・太平洋戦争の
ようなことにならないとも限りません。
(わが家で 2014年5月29日)