魔人の鉞

時事、歴史、宗教など、社会通念を独断と偏見のマサカリでスッキリ解決!  検索は左窓から、1単語だけで。

対米通告の遅れは大使館の責任にあらず

2014-05-29 17:59:51 | 第2次大戦
日米開戦時の通告が遅れた原因を究明し、在米大使館の不手際だという通説を徹底的に批判した
決定版、「開戦神話 対米通告はなぜ遅れたのか」 井口武夫 (中央公論新社、2008)。

まず、通説で対米宣戦通告とされる文書は、ハーグ条約に規定する宣戦通告の文書になっていま
せんでした。それは、当時の外務省アメリカ局長山本熊一氏の12月3日付原案結語に、日本と
しては 「交渉を打ち切るの已む無きに至れること並に将来発生すべき一切の事態に付ては
合衆国政府に於てその責に任ずべきものなる旨合衆国政府に厳粛に通告するものなり。」 と
あったものを (150p)、翌日12月4日の大本営政府連絡会議で末尾を削除したことで明らかです。
これにより、外交関係断絶でも開戦通告でもない、ただの 「交渉打ち切り通知」 になってしまった
ということです (152p)。

なぜ削除したかというと、真珠湾奇襲を成功させたい軍部の意向が強く働いたわけです。
また、その通知文書の対米交付が真珠湾攻撃後になってしまった原因は、幾つもあります。

① まず在米大使館側に開戦意図を厳重に秘匿し、「戦に勝つ為に外交を犠牲的にやれ」(杉山メモ)
 というくらいで、まず味方を欺くというのが基本方針であったこと (56p)。通告文を読んでも開戦
 通告とは分からないというのが実態で、アメリカは、通告時間が遅れたことよりも、「通告文書に
 は戦争又は武力攻撃ないしそのヒントが何も示されていない」 ことを特に非難しています。(161p)
 これはルーズベルト大統領が議会に参戦を求める演説でも強調されていました。

そして、14部に分割された通告文書の遅れの問題になります。
② 交付時間が真珠湾攻撃の1時間前から30分前に繰り下げられました。次に、
③ 1~13部は東京中央電信局から7日午前0時20分までに送信終了したが、1~13部には電信中に
 175字にのぼる誤字脱字が生じており、在米大使館では修正文を受領してから清書することに
 した。
④ ところが修正文は15時間後の第14部の直前にしか送信されなかった。
⑤ 最後の第14部は午前1時ころに送信しワシントン時間12月6日午後3時頃には在米大使館に届く
 はずだったが、なぜか日本時間7日午後4時まで15時間も発信が保留された。(167p)
⑥ 在米大使館では10数時間待って、明け方3時になってもまだ第14部が来ないので、係員を休養
 のため一時帰宅させた。
⑦ ちょうどそのころ、ルーズベルト大統領からの天皇宛親電が出たとの報道がなされ、日本には
 7日正午に親電が入信したが、陸軍参謀本部電信係戸村盛雄により留め置かれ、10時間も天皇へ
 伝わらなかった。(この親電は解読しやすいようもっとも簡単な暗号で組まれていたという。)
⑧ この間に親電を解読し瀬島参謀らが読んだが、大統領は天皇に直接回答を求めているので、
 ハルノートへの回答として作成した通告文書では不十分になると考えた。
⑨ それで最後の第14部の末尾を勝手に手直しし、午後4時に発信させた (218-219p)、

というのが井口氏の見解です。この ⑧⑨ は井口氏の新見解ですが、大変に説得力があります。

⑩ 最終的には、明け方まで待って一時帰宅させた大使館員の出勤時間を遅らせたため第14部と
 訂正部分の解読開始が来信の1時間ほど後になり、解読機の破壊命令により解読機が1台しか
 なかったこと、米人タイピストを使うなとの本省の指示、などが重なって、手交時間が真珠湾
 攻撃時間を過ぎてしまったわけです。

しかしそもそもイギリスには宣戦通告をしようともしていませんし、なぜ秘密保持上も時間管理上
も安全確実な在日アメリカ大使に手交しなかったのか、も井口氏は疑問としています。奇襲を成功
させるためギリギリの綱渡りをさせられ、しかも在米大使館は本国の開戦意向も開戦日時すらも
知らなかったのです。在米大使館を責めるのはお門違いです。

結局、東京裁判対策のために、すべてを現地大使館の不手際として責任をかぶせ、それが神話と
なったのでした。それは今でも根強く生き残っていて、訂正は容易ではありません。

日本の指導部はなぜこんなに出鱈目だったのでしょう。このような隠蔽体質が厳然として生き残っ
ているから、福島原発事故が起きたのでしょうし、集団的自衛権も、再びアジア・太平洋戦争の
ようなことにならないとも限りません。
        (わが家で  2014年5月29日)
 
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保阪正康氏の考えに共鳴

2014-05-28 18:02:06 | 第2次大戦

福島原発事故と太平洋戦争敗戦、2つの失敗に共通するものを考察する、
「昭和の戦争と独立」 保阪正康 (山川出版社、2013)

保阪氏は、「日本の科学技術の敗北」、「非常時に弱い日本の組織」、「恐る
べき楽観主義」、2つともにあった「想定外」など、いろいろな視点から2つ
の失敗の原因を分析します。

私がこの本で認識を新たにしたことの第1は、「沖縄戦は本土決戦だった」 と
いう歴史認識を持つべき、という保阪氏の主張です(120p)。
確かにそうです。私たちはついつい本土決戦の前に終戦の御聖断があった、
という定式を信じていますが、それだと沖縄は本土ではなかったということに
なってしまいます。沖縄は時間稼ぎのための単なる捨石だったのか。
国民に対してきわめて冷淡な昭和天皇と戦争指導部はそう考えていただろう
けれど、私たちがそれを無批判に受け入れてはならないと思います。

もう一つ、日米安保+地位協定の不平等性です。それは防衛義務の片務性
ではなく、米国への軍事的隷属にある、という指摘です。

講和条約とともに日米安保条約に調印した時、日本からは吉田首相が他の
代表をわざわざ外してただ一人サインしました (266-267p)。
保阪氏は、その時吉田首相は日米安保条約に屈辱感を持っていた、と想像
しています。なぜかと言うと、日米安保条約は外交官だった吉田氏がよく
知っている昭和6年の 「日満議定書」 にとても似ており、付属文書の細目
もそっくり似ている。議定書には 「満州国成立前にこの地で日本が持って
いたすべての権益が保たれ、(中略) 日本が自由に満州に軍を配備できる」
とあり、秘密文書には 「その所要経費は満州国が負担する」とある (282-283p)。
これは日米安保と地位協定にほとんど同じ形で表現されています。(しかも
米軍は治外法権さえ持っていて、基地は昔でいう「租界」といえます。)
「つまり、日本がその傀儡国家である満州国に対し軍事的に従属させる
べく結んだ」 日満議定書と同じものを、逆の立場でアメリカと結ばされ
たわけです。ドイツでさえこんな屈辱的な条約は結んでいません。

今日、集団的自衛権行使で対米対等の立場になりたいというのが安倍政権
ですが、その前に日米安保+地位協定という 「不平等条約」 を改定する
というのが日本国の目標でなければなりません。
それを放置して集団的自衛権行使と言っても、所詮はアメリカの使い走り
に過ぎないことになるでしょう。
        (わが家で  2014年5月28日)

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秦郁彦氏 の歴史観を疑う

2014-05-13 18:05:41 | 第2次大戦
「開戦と終戦 太平洋戦争の国際関係」 編・五百旗頭真、北岡伸一、
情報文化研究所 1998年。

対米開戦に至る経緯から国際連盟、対中和平工作、ソ日関係、日独中関係、
真珠湾、原爆、降伏聖断、戦後の憲法制定、安保条約など多面的な国際関係
を検討する、第5回近現代史フォーラム (1997.12.13、みなとみらい21はまぎん
ホール) に登場した15人の論客の討論をもとにまとめられた書物です。

関係する相手国も多様、論者の見方も多様であり、参考になることが多いの
ですが、その中で秦郁彦氏のコメントに納得できないものを感じました。

氏は、「いずれにせよ壇上で論じていることは、いわゆる後知恵-ハインド
サイトというものです。(中略) 当事者は目隠しをしたまま手探りをしている
ようなものであって、われわれが後から見るのと全然条件が違うわけです。」 
(102p) と論評します。
しかし開戦前の日米の経済力・生産力・資源量の格差は当時すでに明白で、
しかも日本はアメリカから資源を輸入して対中国戦争を戦っていた。だから
アメリカと決定的な対決をしたくともできないのは日本の指導部にとって
自明のことだったはずです。単に目隠しをして手探りをしていたなどという
のは、国の指導者として許されないし、ありうるはずもありません。
何が分かっていて何が見えていなかったのか、情報の収集と分析に十分な
注意を払ったのかどうか、物事を判断する目に偏りがなかったのか、そう
いうことを抜きにして単なる後知恵として切り捨てるのでは、逆に本当の歴史
は見えてきません。

「なぜそんな馬鹿な手を打ったかと責めるのは楽ですが、当人にしてみると、
少しは同情してくれよということだろうと思います。」 (102p) とはいったい
誰について言っているのでしょう。いまや東條氏すらヒーロー扱いですから、
批判することは簡単なことではありません。まして天皇陛下を批判するのは
大変な覚悟がいる状態です。しかし独善と思い込みによる 「馬鹿な手」 で
200万以上の兵隊、100万といわれる国民、2000万以上の相手国軍民を死な
せた指導者に、なぜ同情しなければならないのでしょうか。徹底的に批判
しなければ死んだ者が浮かばれない、と私は思います。

「現在の道徳基準で当時のリーダーや外交政策や軍事政策を裁く人が少なく
ありません。」そういうことは歴史を研究する態度ではないというのですが、
人間としての普遍的な価値観、古代から培われた人間尊重の思想で物事を
判断するのがなぜ間違っているのでしょうか。客観性も重要ですが、そう
した価値観と情熱を持たないなら、歴史を研究する意味はないでしょう。

「明治憲法体制下では、政策実行の事後責任は問われないことになっていま
した。(中略) ところが最近は、その種の責任を問う空気になり、たとえば
厚生省の薬害エイズ事件で行政が失敗した問題で、何もしなかったという
不作為の責任を問われたというケースが出ています」(103p) として、その
ような責任追及は間違っていると言わんばかりの論理を展開しています。
氏の論理で行けば、何十万人もが無駄死にするような大失敗の作戦であれ、
全く無責任でよろしいということになってしまいます。独断・失敗の責任者
が中央に栄転することが繰り返され、日本軍の規律が退廃したというのは
今日の定説です。秦氏は、古来から知られた信賞必罰の規律は日本には不要
だとでも言いたいのでしょうか。

あまりにお粗末な論理で、とても秦氏が歴史学者だとは思えません。これが
日本の右派でいっぱしの論客だとは、なんと情けないことでしょう。
       (わが家で  2014年5月13日)
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まるで国民に冷たかった 昭和天皇

2014-05-12 18:09:45 | 第2次大戦
今回は 「昭和天皇独白録」 関係の3冊です。

「昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記」 編著・寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー、
  文芸春秋 1991年。(独白録は最初 「文藝春秋」 1990年12月号に掲載。) 

「徹底検証・昭和天皇独白録」 藤原彰・粟屋憲太郎・吉田裕・吉田朗著、大月書店 
  1991年。
「昭和天皇 二つの独白録」 東野眞著、日本放送出版協会 1998年。  

「昭和天皇独白録」は昭和天皇の御用掛だった寺崎英成氏ら5人の側近が、昭和21年
3月から4月にかけて5回にわたり昭和天皇の独白を聞き取り、まとめたもので、寺崎氏
の没後アメリカ在住の娘ミラーさんが保存していた大量の資料の中から発見され、昭和
天皇崩御後 「文藝春秋」 1990年12月号に掲載されて大きな反響を巻き起こしました。
天皇の独白などというものは前代未聞であり、その内容も日中戦争・日米開戦から終戦
に至る、天皇ご自身や重臣たちの考え方と言動、高官や重臣の人物評などが天皇の
記憶として語られています。

なぜこのような記録が作られたかについては、当初から極東軍事裁判用の弁明資料では
ないか、という見方がありました。実際のところ独白録では、責任はみな内閣や軍部の
首脳たちにかぶせ、天皇自身は自己弁護に終始し、平和を考えていたが 「立憲君主制」
の君主としては内閣の決定を断然否定することはできなかった、と再三語っています。
特に開戦に当たっては、 「もし私が開戦の決定に対して 『ベトー』 (注:否認) したと
しよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の命も保証でき
ない。それは良いとしても結局凶暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事
が行われ、はては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になったであろうと
思ふ。」 (137p) という 「結論」 になっています。よほど自分の臣下たちが信用でき
ないと決めつけると同時に、無力な自分を描いています。

だがしかし天皇は政府閣僚・陸海軍首脳・重臣たちなどから膨大な情報を得ており、また
色々な事柄に口を挟んでいたことが分かります。
「徹底検証・昭和天皇独白録」 によれば、戦況上奏という、微に入り細をうがった非常に
詳しい報告 (現在残っているのは大本営海軍部の戦況上奏の1944年10月以降と45年の
一部しかない) が、毎日なされていたということです。 (101P) 
「独白録」 では個別作戦にもいろいろ口を出していますし (例:御前会議での南部仏印
進駐承認56p、レイテ作戦への賛成100p) 、総理や閣僚・軍部高官人事の了解 (例:東條
総理指名 66p) などは至る所にあります。
天皇が明示にせよ暗黙にせよウンと言わなければ何も決定できないのが大日本帝国の
実態だったので、聖断が2.26事件と終戦の2回だけだった、というのは神話に過ぎないで
しょう。
1947年末の東京裁判で問題になった、東條被告の 「日本国民が天皇の意思に反した
行動を取ることはない。いわんや日本の高官においておや。」 という陳述は、的確です。
しかしそれでは天皇陛下に開戦責任が及ぶということで、翌年1月6日に、「天皇は東條
の進言で開戦にしぶしぶご同意になった」 と訂正の再証言をしたわけです。

「徹底検証・昭和天皇独白録」 はいろいろな資料から天皇の自画像を否定しています
が、いちばんの問題は 「書かれていない」 ことであるという指摘に賛成です。
天皇には 「朝鮮などの植民地の問題や、あるいは日本の侵略の犠牲になったアジア
諸国の問題についての関心は全く欠如」 (169P) していることが独白録を読むと見えて
きます。
そればかりか、天皇は自国の民衆についてもきわめて冷淡です。10万人が亡くなったと
いわれる1945年3月10日の東京大空襲のあとにわざわざ視察行幸を行っていたのに、
民の犠牲については一言も話していません。沖縄戦についても、陸海軍の 「作戦不一致、
まったく馬鹿馬鹿しい戦闘であった。」 (114p) と切り捨てるだけです。終戦の大詔に
ある原爆のことも一言触れる程度で、全体を通じて、民を思う言葉はほとんどありま
せん。私の儒教的王道観からは失望以外の何物でもありません。

終戦の決意については、沖縄戦の後、「雲南作戦もすでに望なしということになったので、
私は講和を申込むより外に途はなしと肚を決めた。」 (115p) もう作戦的に打つ手がない
ので講和だというわけです。それでも、国体の維持、つまり自分の命、あるいは少なくとも
天皇制の維持が講和の最大の条件で、そのためになかなかポツダム宣言受諾で合意でき
なかったのですから、終戦の大詔の、民の辛苦を思う言葉は、美辞麗句に過ぎなかった
というほかありません。

独白録が東京裁判用の弁明書ではないか、ということについては、裁判所サイドに英文
資料があるかどうか、公表されていない文書があるので断定できないようです。
しかし 「昭和天皇 二つの独白録」 によれば、NHKの取材班が、占領当時マッカーサー
の軍事秘書を務めた米陸軍准将・故ボナー・フェラーズ氏自宅の保存文書の中から1996
年に独白録の英訳文を発見しました。(15p)
日付もない文書で、誰に呈出されたものかも分かりませんが、著者は天皇を訴追しない
考えだったフェラーズ氏から、何らかの形でその内容がマッカーサーに伝えられたもの
であろうと推定しています。
自己弁護に終始する独白録の内容から、私もその可能性が高いと考えます。アメリカで
すべての関係文書が公開される日が来れば、本当の事が明らかになるでしょう。
       (わが家で  2014年5月12日)
 
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陣中日誌に書かれた慰安所と毒ガス

2014-05-12 18:08:23 | 日本古代史

「陣中日誌に書かれた慰安所と毒ガス」 高崎隆治著、梨の木舎 1993年。

1938年1月8日から39年9月23日まで、歩兵第65連隊第13中隊 (のち第11中隊に編成替え
となる) の陣中日誌6冊の内容を紹介したもの。同中隊が南京攻略戦の終結後、徐州戦、
漢口戦、襄東会戦を戦っている間の陣中日誌で、記録者は内藤曹長という下士官です。
陣中日誌は軍上部に提出する戦闘詳報の元になる記録で、通常は焼却され世に出ること
はないといわれており、きわめて珍しい資料です。

この陣中日誌には、慰安所の記述がたくさんあり、たいへん注目されます。下士官が
慰安所を自ら設営・運営したという記述も出てきます。

中隊が単独で林山河という寒村に移動した後の1939年2月5日にはこうあります。

大隊本部のあった 「新州より慰安婦3名来たり (慰安所を) 開設す。池田軍曹設備を
行う。大室伍長会計を行う。浅子、照子、和子、3名。」(100p)

わずか150名ほどの1中隊だけのために慰安婦が送られ、慰安所が設営されたわけです。
「この3名の従軍慰安婦は日本名だが、必ずしも日本人とは限らない。」
「少なくともこれは民間業者の経営する慰安所ではない。民間慰安所なら、設備や会計を
下士官が担当するはずはないからである。もちろん、下士官は中隊命令によって行ったわけで」 
ある。(102p)

また毒ガスを使用したらしい記述がいくつもあり、日本軍が実戦で毒ガス弾を使用していた
ことが分かります。一般民衆からの徴発も何度も行われています。

慰安婦の実態、日中戦争の実態を知る貴重な資料です。
       (わが家で   2014年5月12日)

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