魔人の鉞

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ブッダは改革と慈悲の人だった

2019-09-15 07:50:15 | 宗教

「反骨のブッダ」 高山龍智著、コスモ21 2018年。

原始ではなく原語から仏教を捉えなおし、ブッダの教えは社会矛盾に対する改革であるとします。目からウロコとはこのことで、私も諦観やペシミスティックといった仏教に対する見方がまったく変わりました。

まずは「無常」について。永遠なるものは虚構である、ということを意味します。ブッダの時代のインドは (今でも) バラモン教の厳格なカースト制度です。永遠・恒常 (ニティヤ) ということはカースト制度を固定化し、永遠に身分が変わらないことを意味します。つまり侵略して支配階級となったアーリア人にとって、支配体制を永遠に確保するためのものだということです。ブッダは、それを否定してアニティヤ (ニティヤに否定の冠詞をつけた)と呼んだわけです。(30-31p) これを漢訳するときに、無常と訳し、中国的なニュアンスを含んだ。それが日本に入ると、変事・凶事に対する情緒的な詠嘆や無情というニュアンスでとらえられることになります。
ブッダはまた、叔母で寡婦のプラジャーバディの、「人間は平等だ」というなら私たちも導くのが当然だとの訴えを聞いて、尼僧集団を許したそうです。(38p) 女性も人間だという、当時としてはありえないほど革新的な立場でした。

自由自在とはもともとブッダの言葉で、ブッダ臨終の床で弟子たちが今後誰に教えを乞うたらいいか嘆いていると、ブッダが、「他者によるのでなく、自らを拠りどころとしなさい。ダルマ (道理) を拠り所とし、他に拠ってはならない。」といったそうです。自らに由り、自からに在る。すなわち自由自在である。(51p)
「無我」はアイデンティティの放棄ではない。ヒンドゥー教では、人にアートマン (霊我) という概念を設定した。人には霊我があって輪廻転生するが、下層民は霊我が穢れていて転生できず、永遠に下層民のままだということです。そこでブッダはアートマンを否定し、無我を主張した。すべての物事はそれを成立させる因と縁とが仮に集合しただけで、固定的な実体は存在しない、としたのです。(57p)

「いきなり100点満点の悟りはできない。世間では、ある日鳥籠の扉を開けて自由な空へ飛び出すかのように、突然100点満点の答え (=悟り) を得られるという幻想が、まことしやかに語られている。 この幻想に取り込まれてしまうと、新たな支配に騙されてしまう。(中略) 100点を目指して歩いていく、それこそが英知に近づいていく道である。(中略) 諸悪を一網打尽にはできないが、まず町内のゴミを拾うところから始めれば、すこしずつ理想には近づく。それがブッダの教えではなかろうか。」(81p)

改革と慈悲のブッダ。これまで聞いたこともない、新しい仏教の教えです。

インドではアンベードカル博士の指導により、仏教が再興され、信者が増えているそうです。このような仏教なら、私もその信者に加わりたいと思ったりします。
   (わが家で  2019年9月15日)

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イスラムは危険なカルト

2019-09-06 07:51:36 | 宗教

「一神教 Vs. 多神教」 岸田 秀著、新書館 2002年。

9.11後の世界で一神教についてたくさんの本が書かれましたが、これもその一つです。氏はセム的一神教をひとくくりにしています。キリスト教は愛の宗教ではないとか、多神教は一神教に負ける、とか独自の見解はなかなか参考になります。

しかし、イスラムのほうがキリスト教よりも、いつそう高度というか純粋だった…エリアーデによると、「ムハンマドの教えは、絶対一神教のもっとも純粋な表現を示している」(223p) ということに賛同しています。しかし私は、「イスラムは純粋だ」とかいう言い方は間違っていると思う。純粋なのではなく、極論に過ぎない。一神教としては、というが、いわば狂気的な極論に過ぎない。

「イスラム教にはいわゆる因果関係がない」「イスラム教は、世界がその一瞬一瞬、神によって作られていくという発想」なんだといいます (224p)。エリアーデによれば、「アッラーの行為はすべて自由なもの、究極的には恣意的なものである。アッラーは自己矛盾を犯す自由さえ持っている。」(223p) これでは科学的な因果関係や科学的法則など研究しても無駄なことです。イスラム世界で科学が停滞してしまったのは当然のことにすぎません。こうしたイスラム教が、どうして純粋なのか、高度なのか。純粋なるがゆえに誤ったのか? 因果関係すら存在しないのでは、狂気の教えというべきでしょう。

また偶像否定の極致として、絵画さえほぼ根絶状態です。デザインは優れているとか言い訳しますが、それはそれです。2万年前のラスコー壁画は人類が人類らしい精神文化を初めて発露させたものと考えられていますが、イスラムはもともと人間に備わった精神性・芸術性を否定してしまった。アッラーにとっては人間の精神性などどうでも良いので、ただ自分に絶対服従させることだけがお望み、というわけです。人間はそんなアッラーの奴隷に過ぎない。なんと情けないことでしょう。人情の自然に反する教えです。

人が救済されるかどうかはアッラーの胸先3寸、どんな善行を行っても、どんな悪行を重ねても、すべてはインシャラー、神の思うままだというのがイスラムです。原理主義はムハンマドの教えに忠実にしようというだけのこと、もともとの教えが狂気であり、捕虜の虐殺、奴隷として売り払い、多神教徒の皆殺し、などは聖典に公認されています。その教えは今となっては古臭く、人間精神の抑圧装置になっている。神の姿を描くことは死罪。ムスリムに生まれたら否応なくムスリムで、しかも、棄教や改宗の勧めは死罪に値するというイスラムはカルトそのものです。

真のムスリムは原理主義と戦うべきです。原理主義を克服しなければなりません。原理主義に反対する行動を起こし、被害者の救済に励むとか、やり方はいろいろあるはず。そうでなければ彼らと同じとみられても仕方ありません。ムスリムは危険だ、と言われても反論できないはずです。これは偏見でしょうか。そうではなく、論理的結論です。

ご意見があればお寄せ下さい。

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