また哲学の本を。「心という難問」野矢茂樹著、講談社2016年。
心身因果という哲学的難問にとりくみ、ヒトの常識的な感覚である 「素朴実在論」 に回帰する 「眺望」「相貌」 論を展開。哲学の行き詰まりを打開するかもしれない注目の理論のようです。
私のような素人にもある程度わかりやすい。物質と意識・心はどういう関係になるのか。現代哲学的には精神の一元論になって、意識ある者が見ていないときには物体は存在しない、という極論に至ります。しかし、月が群雲に隠れたからといって月が無くなり、晴れると満月が生まれる、などと言うことは正気の沙汰ではありません。量子物理学では観察者がいると素粒子の挙動が変化する、ということですが、存在しなくなるわけではない、と思います。確定的にどこにどれだけある、というのではなく、確率的に存在する、ということでしょう。
野矢氏は、ものを見るときの 「眺望」 とは物体と観察者の位置関係だとします。誰かが自分と同じ位置に立ては同じスカイツリーという眺望が得られる。ということで、聴覚や味覚などについても、この考えを敷衍していきます。そして、視力や聴力、体調といった身体的条件で、見え方は異なるわけです。私は目が悪いので、眼鏡がなければスカイツリーはボケボケになりますが、スカイツリー自体がぐにゃぐにゃになっているとは思いません。
すごいのは 「相貌」 です。同じものを見ても人それぞれに感じ方が違うのは、そこにどのような 「物語」 を描くかが違うからだ、とします。秋田犬を知らない人は、それを見ても秋田犬と感じることはできない。なるほど! 風車を知らないドン・キホーテは、それを怪物と見た。気がふれていなくても、錯覚でなくても、そういうことは十分に起こり得ます。そういう、個々人によって同じものが違うように感じられることを見事に理論づけています。
と書いてみましたが、そんな理解で良いのかどうか、少し不安ですが・・・
(わが家で 2017年5月30日)