綿密な史料批判で、従来の通説を次々と覆した、安井淳 「太平洋戦争
開戦過程の研究」。 (芙蓉書房出版、2013年)
通説に反するためか所蔵館も少ないようで、埼玉県では県立熊谷図書館
にしかないようですが、前大戦を考えるためにはぜひ熟読玩味すべき著作
です。
◆北進論の虚妄
何といっても目からウロコなのが、満州事変が対ソ国防の危機を招いた、
ということです。これは今日でも防衛関係に当てはまることで、留意す
べきです。
満州を確保して対ソの防壁としたはずが、かえって極東ソ連軍の増強を
招き、1937年日中戦争開始当時には満州方面の対ソ戦力はなんと3分の1
以下で近代化も遅れており、戦力を均衡させることができずに推移して
いたということです。(「戦史叢書」1 400p~安井 「開戦過程の研究」
201p、207p)。
このことは極秘でほとんど知るものがなく、満州事変を指揮した石原
莞爾でさえ1935年に参謀本部作戦課長に就任して初めて知って、愕然
としたそうです。(「戦史叢書」1 370-371p~安井 「開戦過程の研究」
216p) そして1939年にノモンハンで大敗します。これではとても対ソ
侵攻など考えられません。
日中戦争が泥沼化する一方、1940年5月にドイツが西部戦線を開始し
オランダ政府は亡命、フランスは降伏するに至って、南方に権力の空白
が生じます。陸軍は同年7月頃、対ソ戦を延期し、英米の蒋介石支援を
断ち切るとともに資源確保の一石二鳥をねらって南方進出に切り替え
ます。(『杉山メモ』14p 大本営陸海軍部「所要事項の説明」~安井
「開戦過程の研究」 239p)
この陸軍の方針は、海軍伝統の 「北守南進」 と一致し、7月27日に
「南方問題解決に好機を捕捉し武力を行使す」とした『世界情勢の
推移に伴ふ時局処理要綱』 が決定されます。
この時の質疑、天皇 「好機とは如何。」
澤田参本次長 「例えばドイツの対英攻撃成功の場合の如き」
(『澤田茂回想録』118p ~安井 「開戦過程の研究」 242p)
などのやり取りは、まさに日本がドイツの勝利に遅れまいとしたこと
を示しています。天皇もそれを了解しました。安井氏はここに日本の
国策が南進に定まったとしています。
その後1941年6月22日、ドイツがソ連に侵攻し独ソ戦が始まると、軍事
機密であるため兵力劣勢を知らない松岡外相など外部勢力が、対ソ開戦
の好機だと騒ぎ立てます。そして7月2日の御前会議で、
「南方進出を強化し、対英米戦を辞せず、機をみて北方も」 とする
『情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱』 を決定します。これは南北二兎を
追うものではなく、事実上北進を先送りしたものでした。
(安井 「開戦過程の研究」 285p)
しかし陸軍はこれを利用して関東軍特殊演習を実施し、とりあえず
最低限の守備固めを行うことに成功します。
関特演は対ソ侵攻の準備だというのが通説ですが、もともと東京裁判
でソ連が唱えたもので、まったく史料に即していないということです。
◆ハル・ノート開戦論の誤り
もう一つ、いわゆるハル・ノートが開戦決意の引き金だったとする
ハル・ノート開戦論も誤りだと安井氏は論証しています。ノートは米
ワシントン時間の11月26日16時45分~18時45分の野村・来栖・ハル
会談で手交され、その要約が同夜日本に向け発電されました。14時間の
時差があるので、日本着電は早くても翌27日正午以降、解読・清書等
を考えるとさらに数時間かかるものと考えられます。外務省は午後3時
に日米交渉案乙案の英文を修正する訓電を発しています (「日本外交
文書」下184p~安井 「開戦過程の研究」 134p) から、この時点で
はまだ解読されていないと考えられます。ノート全文の発信は27日
午前、到着は時差のためどう早くても午後2時以降です。
ところが、27日午後2時からの大本営政府連絡会議で、対米交渉不成立
とする意見が大勢を制し、「重臣の御前会議出席の件」を総理の説明会
とすると決定し、
「開戦に関する事務手続順序に付て」、
「戦争遂行に伴う国論指導要綱」 の2件を決定、
「開戦詔勅案」を継続審議にしました。
(安井 「開戦過程の研究」 113p、128p)
つまり、ハル・ノートの内容をよく吟味することなく、あるいはその
全文を見ないままに開戦手続きや国論指導方針を決定しているわけで、
ノート以前に開戦を決意していたわけです。
東郷外相の有名な科白、ハル・ノートを見て 「自分は眼も眩むばかり
失望に撃たれた」 というのは戦後の回想です。ハル・ノート開戦論
の定説 (「太平洋戦争への道」) は東條の東京裁判供述書と東郷の回想
録を基礎としており、いずれも戦後の2次史料に基づくもので信頼でき
ないとしています。 (安井 「開戦過程の研究」 36p)
◆アメリカ全面禁輸は意外ではない
関連して、南部仏印進駐でアメリカが全面禁輸を発動したのは予想外
だ、という言説がありますが、これも安井氏は明確に否定します。
6月25日に 「仏印に対し日仏印軍事的結合関係を設定す。仏国政府
又は仏印当局者にして我要求に応ぜざる場合は武力を以て目的を貫徹
す」 とする 『南方施策促進に関する件』を列立上奏し天皇の裁可を
得ました。
杉山参謀総長曰く、「対日全面禁輸或は英米が戦略体制を強化して参り
ましたる場合これをおさえる為に早くやる必要があります」、
天皇は 「国際信義上どうかと思うがまあ宜い」 と応じました。
(『杉山メモ』上229-231p~安井 「開戦過程の研究」 384p)
また参謀本部田中作戦部長は6月18日の日誌に、
「シナ事変を解決を促進せんとせば、対支完全封鎖、租界接収、ビルマ
封鎖、仏印・泰の確保の措置を必要とし、必然に米の全面禁輸ないしは
挑戦を促す」 (『田中新一中将業務日誌』8分冊の5、543-544p~安井
「開戦過程の研究」 412p) と記しています。
陸軍上層部は全面禁輸を予期していました。
7月2日の 『情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱』 では
「南方進出を強化し、対英米戦を辞せず」 とあるように、英米との対決
を招くことを覚悟の上で南方進出を決定し推進してきている。禁輸で
締め上げられたから自衛のために開戦した、というのは順序が逆です。
◆東條組閣の謎
また近衛内閣が総辞職した後に東條氏に組閣大命を降下しました。
これについて木戸内府は、非戦となった時に軍を抑えられるのは東條
しかいない、として、「10月上旬までに対米英蘭戦を決意」 とする
9月6日御前会議決定の 「白紙撤回の御諚」 と「陸海軍協力の御諚」
の2つで開戦を回避させる考えだった、としています。
しかし東條氏は、組閣にあたって東郷重徳に入閣を打診たとき、
「強硬意見を持した自分に大命が降下したのであるから、駐兵問題に
ついては何処迄も強硬なる態度を持続していい筈と思ふ」(「東郷
重徳外交手記」160-161p ~安井 「開戦過程の研究」 40p)
と発言しています。
中国撤兵の如何が対米交渉の核心であり、東條が撤兵を不可とした
ために近衛が総辞職せざるを得なかったのですから、これでは開戦
以外に進みようがありません。
案の定、「白紙撤回」 は単なる 「再検討」 となり、戦えないとは
言えない海軍が2年は戦えるめどがある、と言ったので11月5日御前
会議で開戦決意の 「再確認」 をすることになります。
これでは、結果的に和平派の近衛を開戦派の東條にすげ替えたことに
しかなっていません。非戦のために東條を首相にしたのなら、どうし
て天皇は 「ご機嫌麗しく」 開戦決意を裁可したのでしょうか。
私が思うに、天皇は東條をお気に入りだったから総理にしたので、
けっして非戦のためではなかった。「昭和天皇独白録」 でも東條を
かばっていますが、近衛内閣の陸相時代から、マメに報告に上がる、
言いつけを良く聞く能吏タイプの東條を気に入ったのではないか。
そして、近衛の後に木戸が東條を推薦したのは、天皇のその気分を
察したからではないか、と思うのです。
これは残念ながら史料の裏付けがありませんから、単なる憶測ですが、
東條総理誕生から開戦に至る経緯をよく説明できるような気がします。
(辞職した東條個人に陛下がねぎらいの勅語を下したと安井氏の本に
ありました。異例のことで、天皇の東條好きが分かります。しかし
もう返してしまって詳細が確認できません。)
「陸海軍協力の御諚」 は、海軍のいうことを良く聞いて判断せよ、
という意図だったそうで、安井氏は (通説も) 海軍がそれを逆にして
陸軍に協力したとしています。しかし私は、御諚自体が誤解され
やすいものだったと感じます。陛下が東條陸相を総理にした上で、
「陸海軍はよく協力せよ」 と話されたら、海軍は陸軍の総理に協力
せよ、という意味に取るのがむしろ普通でしょう。逆の意味なら、
そのように明示するべきだったと思います。
◆近衛氏の再評価を
近衛氏は最後まで対米和平を追求し、東條陸相と4度にわたり会談し
説得しました。しかし東條陸相は頑として突っぱねました。
東條 「人間、たまには清水の舞台から目をつぶって下りることは
必要だ」。
近衛 「個人としてはさういふ場合も一生に一度や二度はあるかも
しれないが、責任の地位にあるものとしてできることではない」
(近衛文麿『最後の御前会議』48p~安井 「開戦過程の研究」 502p)。
このやり取りはどう考えても近衛に理があります。東條氏は8月23日
大本営政府連絡会議での岩畔豪雄大佐の日米国力比較に興味を示し
たものの、翌日 「お前は近衛歩兵第3連隊長に転出することになっ
たから昨日命じた筆記の提出はしなくてよい」(『岩畔豪雄氏談話
速記録』320p~安井 「開戦過程の研究」 360-361p) と大佐を
左遷し国力比較を無視したそうです。
東條氏は冷徹な分析を放棄し、日本を背負って 「清水の舞台から
目をつぶって」 飛び降りて、日本を破滅させたわけです。
近衛氏は、三国同盟締結や蒋介石を対手とせず声明など政策の
過誤はあったものの、ルーズベルトとの首脳会談開催努力など
最後まで和平を追求したことは確かです。いまその評価は、優柔
不断とかすぐ逃げるとか、はなはだ芳しくないが、適切ではない
と思います。
(わが家で 2014年8月16日)
きのうはヒロシマ原爆の日。
非人道的な原爆を終戦を早めるためという理由で使用したアメリカ、また原爆だけでは降伏を
しようとしなかった日本の指導者たち。いろいろなことを考えさせられます。
『特攻隊振武寮 証言・帰還兵は地獄を見た』 (大貫健一郎、渡辺孝 講談社 2009年)。
飛行士を促成する特別操縦見習士官 (特操) 制度に応募し訓練を経て少尉に任官、特攻隊員と
なり沖縄へ出撃するも迎撃されて徳之島に不時着、福岡の第6航空軍振武寮に移送・収容され、
その後本土特攻隊員として終戦を迎えた大貫健一郎氏の回想と、特攻全体の経緯などについて
NHK渡辺孝氏の研究を交えて、真実の特攻の姿を描いています。
映画 「永遠の0」 を見た人は、ぜひこの本も併せて読んでみて欲しいと思います。
特攻は軍の公式作戦であったこと、志願は建前で、実質的には命令で特攻隊が編成されたこと、
技能の劣る若年の兵が中心になったこと、などがよく分かります。
また「永遠の0」 で主人公が特攻した戦法である、海面すれすれから敵艦に近づき、急上昇して
上空から突っ込むのは 「跳飛爆撃」 という戦法で、特攻開始前1944年10月ころから倉澤清忠少佐
らが研究していたものだったこと (55p) を初めて知りました。
大貫氏は出撃前に2発の玉が入った拳銃を渡されます。不時着の時は1発で飛行機を撃って燃やし、
もう1発で自決せよということでした。(141p)
しかし大貫氏は援護も付けず敵情も分からずただやみくもに出撃を命じる参謀に不信を抱きます。
「大分海軍航空基地で急降下の訓練を受けていたときから、我々の技術では敵艦にぶつかることが
できないのではないかという不安感をずっと抱いてきました。けれど、できる限りの準備をした
うえでの特攻ならやむをえないと、自分で自分を納得させてきました。しかし、援護も情報も何も
なしの状況で出発せよというのは、どうしても納得できません。」 (159-160p)
案の定、氏は途中でグラマンに迎撃され徳之島に不時着します。そこには不時着仲間が何人もいま
した。自決は無駄死だ、生きて帰ってもう一度特攻したいと考えた彼らは、紆余曲折の末に福岡の
第6航空軍振武寮に移送されます。そこは死んだはずの軍神が生き残っていることを世間から隠す
ための、ある意味の収容所でした。(大貫氏は戦死として戸籍が抹消されていたことを戦後知りま
した。) 振武寮の責任参謀が、なんと倉澤少佐だったのです。
「なんで貴様ら、帰ってきたんだ。貴様らは人間のクズだ。」「そんなに命が惜しいのか。いかなる理由
があろうと、突入の意思がなかったのは明白である。死んだ仲間に恥ずかしくないのか。」 (206-207p)
と連日罵倒され、「まさに生き地獄でした」 と大貫氏は語っています。
私は大貫氏の感想に深く共感します。上官たちは 「いまだに旧軍の幻の栄光にしがみつき、慰霊祭
の場や出版物などで武勇談を発表していますが、心からお詫びをしている事例にはとんとぶつかりま
せん。第一線で敢闘し、一命を投げ出し戦った兵士たちに、いったいなんと答え得るのでしょう。」 (256p)
大貫氏の上官、第6航空軍司令官菅原道大中将は自決もせず、特攻は命令ではなく自発的行為だった
という言い訳をしているそうです。(279p、菅原道大「特攻作戦の指揮に任じたる軍司令官としての回想」
原稿、昭和44、防衛研究所蔵)
倉澤参謀もおめおめと生き延び、戦後会社社長まで務めましたが、旧部下や遺族の恨みを恐れ、護身
用の拳銃と日本刀を手放せなかったそうです。(282p)
特攻を日本精神の精華などと美化する論者は、史実を両方の眼でよくよく見るべきです。
(わが家で 2014年8月7日)
非人道的な原爆を終戦を早めるためという理由で使用したアメリカ、また原爆だけでは降伏を
しようとしなかった日本の指導者たち。いろいろなことを考えさせられます。
『特攻隊振武寮 証言・帰還兵は地獄を見た』 (大貫健一郎、渡辺孝 講談社 2009年)。
飛行士を促成する特別操縦見習士官 (特操) 制度に応募し訓練を経て少尉に任官、特攻隊員と
なり沖縄へ出撃するも迎撃されて徳之島に不時着、福岡の第6航空軍振武寮に移送・収容され、
その後本土特攻隊員として終戦を迎えた大貫健一郎氏の回想と、特攻全体の経緯などについて
NHK渡辺孝氏の研究を交えて、真実の特攻の姿を描いています。
映画 「永遠の0」 を見た人は、ぜひこの本も併せて読んでみて欲しいと思います。
特攻は軍の公式作戦であったこと、志願は建前で、実質的には命令で特攻隊が編成されたこと、
技能の劣る若年の兵が中心になったこと、などがよく分かります。
また「永遠の0」 で主人公が特攻した戦法である、海面すれすれから敵艦に近づき、急上昇して
上空から突っ込むのは 「跳飛爆撃」 という戦法で、特攻開始前1944年10月ころから倉澤清忠少佐
らが研究していたものだったこと (55p) を初めて知りました。
大貫氏は出撃前に2発の玉が入った拳銃を渡されます。不時着の時は1発で飛行機を撃って燃やし、
もう1発で自決せよということでした。(141p)
しかし大貫氏は援護も付けず敵情も分からずただやみくもに出撃を命じる参謀に不信を抱きます。
「大分海軍航空基地で急降下の訓練を受けていたときから、我々の技術では敵艦にぶつかることが
できないのではないかという不安感をずっと抱いてきました。けれど、できる限りの準備をした
うえでの特攻ならやむをえないと、自分で自分を納得させてきました。しかし、援護も情報も何も
なしの状況で出発せよというのは、どうしても納得できません。」 (159-160p)
案の定、氏は途中でグラマンに迎撃され徳之島に不時着します。そこには不時着仲間が何人もいま
した。自決は無駄死だ、生きて帰ってもう一度特攻したいと考えた彼らは、紆余曲折の末に福岡の
第6航空軍振武寮に移送されます。そこは死んだはずの軍神が生き残っていることを世間から隠す
ための、ある意味の収容所でした。(大貫氏は戦死として戸籍が抹消されていたことを戦後知りま
した。) 振武寮の責任参謀が、なんと倉澤少佐だったのです。
「なんで貴様ら、帰ってきたんだ。貴様らは人間のクズだ。」「そんなに命が惜しいのか。いかなる理由
があろうと、突入の意思がなかったのは明白である。死んだ仲間に恥ずかしくないのか。」 (206-207p)
と連日罵倒され、「まさに生き地獄でした」 と大貫氏は語っています。
私は大貫氏の感想に深く共感します。上官たちは 「いまだに旧軍の幻の栄光にしがみつき、慰霊祭
の場や出版物などで武勇談を発表していますが、心からお詫びをしている事例にはとんとぶつかりま
せん。第一線で敢闘し、一命を投げ出し戦った兵士たちに、いったいなんと答え得るのでしょう。」 (256p)
大貫氏の上官、第6航空軍司令官菅原道大中将は自決もせず、特攻は命令ではなく自発的行為だった
という言い訳をしているそうです。(279p、菅原道大「特攻作戦の指揮に任じたる軍司令官としての回想」
原稿、昭和44、防衛研究所蔵)
倉澤参謀もおめおめと生き延び、戦後会社社長まで務めましたが、旧部下や遺族の恨みを恐れ、護身
用の拳銃と日本刀を手放せなかったそうです。(282p)
特攻を日本精神の精華などと美化する論者は、史実を両方の眼でよくよく見るべきです。
(わが家で 2014年8月7日)