魔人の鉞

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「戦陣訓の呪縛」 は必読の書

2014-04-27 18:15:26 | 第2次大戦

「戦陣訓の呪縛-捕虜たちの太平洋戦争」 ウルリック・ストラウス著、吹浦忠正監訳、
中央公論新社 2005年。

戦陣訓の有名な一節、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。」 
について、それがどれほど日本軍の行動を呪縛していたか、多くの日本兵捕虜たちの
証言や回想録に基づいて解説しています。

ほとんどの者が、捕虜となったことを許されない汚辱と感じ、もはや祖国から見捨てられ
た、親兄弟郷友に顔向けできないと深く悩み苦しんだそうです。

「自分が捕虜になれば家族に直接的に深刻な影響が及ぶと日本兵たちは信じていた。
自分の恥辱のために家族や近親者が村八分にされる。それは集団志向の社会において
最悪の運命である。」(81p)  そして
「すぐに捕えられるというわけでもないのに、集団ヒステリーによって自決する日本兵も」
(81p) 少なくなかった。
「大半の日本人捕虜にとって、捕虜となった事実は、家族に知られたくないことの最たる
ものであった。中には、自分が捕虜の身分であることを家族に知らせないと約束すること
を条件に、尋問官の問いに何でも進んで答える者さえいた。」 (168-169p) 

戦陣訓は法令でも勅語でもなかったのですが、軍隊にとっては重要な意味を持っていま
した。司馬遼太郎は、『戦陣訓』 が自分の部隊では一顧だにされなかったと個人的体験
を述べ、マスコミが煽っていただけであると主張したそうですが、ストラウス氏は丹念な
取材により、戦陣訓の言葉がいかに日本兵の思考と行動を束縛していたかを明らかに
しました。

日本が捕虜に関するジュネーブ条約に調印しながら批准しなかった最大の理由は、日本兵
は投降しないが欧米の兵は捕虜となるので、捕虜を丁重に扱うことは日本にとって一方的
な負担になる、損であるということでした。(45p) 
戦陣訓で捕虜となることをこの上ない恥辱として許さず、捕虜となった場合の権利や振舞い
方も教えず、足手まといの負傷兵は捕虜とならないよう自決させ、敵に被害を与えること
すらできない集団自決やバンザイ突撃が当然視され多発する結果となりました。人倫の
限度を超えた特攻や全員玉砕はその究極の形に過ぎないのでした。
また敵方の捕虜を虐待し侮蔑的に扱ったことは、それと表裏の関係になるわけです。

不運にも捕虜になった兵の詳細情報を、ジュネーブ条約を守る連合軍から通知されていた
のに、大日本帝国は家族に知らせることなくこれを無視し、一方で靖国神社には除外して
お祀りしませんでした。真珠湾に突入した特殊潜航艇の乗組員10名のうち9名だけが軍神と
讃えられたのは、1名が太平洋戦争の第1号の捕虜になったことを通知されたからでしょう。
(実際にはその9名がどう戦ったかについても、今でも全く分かっていないのですが)。

こうした日本のやり方は、司馬氏のように個人として戦陣訓を知っているかどうかではなく、
大日本帝国が国策として捕虜となることを禁じ、捕虜蔑視を推進したということを意味し
ます。そのことによって兵隊の人命を軽視し、赤紙で招集した人命を消耗品のように扱った
ということこそが問題なのです。

戦後70年を来年に控える今日にあって、戦陣訓を再評価し、戦陣訓は良いことを言って
いる、というような文言の解釈や、東條氏を有罪にするために戦陣訓に関する東條個人
の役割を過大評価している、といった東條擁護のための論陣を張る人たちは、ストラウス
氏の著作に学んでほしい。氏は、戦陣訓は 「国家主義が高揚する当時の風潮にぴたりと
合い、その内容は確実に受け入れられた。国民に国家への限りない奉仕と、美化された
死を要求した」。(346p) と結論します。

制作過程は確かに東條陸軍大臣個人の創作・強制ではありませんでしたが、戦陣訓
は日本人の古くからの観念に明確な形を与え、日本軍の行動を呪縛したのです。国に
命を捧げた兵士たちのために靖国神社にお詣りすると主張する人たちは、こうした
歴史的経緯を知りたくない、目をつぶっていたいと思っているのではないでしょうか。
愚劣な戦争指導を行った者たちを根底から批判し神々の座から追放しなければ、兵隊
さんは安心して眠れないと私は思います。

また天皇陛下との関係性についても、日本兵で絶命の際に 『天皇陛下万歳』 と叫ぶ
というのは 『1万人に一人』、あるいは 『2万人に一人でも多すぎる』 と複数の捕虜
が供述したとあります。(80p)
「数十年を経て戦争や捕虜の体験を語る際に、元日本兵たちは、当時もっぱら考えて
いたのは自分の住んでいた場所や肉親、特に母親のことだったと回想している。」
そうです。
 
戦争の実態を知る上で、教えられることの多い、貴重な書物です。
       (わが家で  2014年4月27日)

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「天皇と特攻隊」 批判

2014-04-22 22:45:17 | 第2次大戦

またまた特攻隊関連で、「天皇と特攻隊」 太田尚樹 (講談社、2009)。

冒頭から特攻隊についての昭和天皇の関わりを解き明かします。天皇は
特攻に批判的だったとしています。

昭和19年10月26日、及川軍令部総長のレイテ作戦結果奏上の第5項目で、
神風特攻隊敷島隊の戦果が報告されるまで、天皇は特攻作戦については
ご存じなかったようです。
陛下は 「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」
(20p) と仰せになり、そのお言葉は軍令部から全軍に発信され、セブ島で
中島正中佐 (「神風特別攻撃隊」を猪口力平と共著) が電文を読み上げた
ということです。

その後、10月30日の米内海相上奏のさいに天皇が 「かくまでせねばならぬ
とは、まことに遺憾である。」 「神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏
には哀惜の情にたえぬ。」 と仰せたことを参照して、「まことに遺憾である。」
の言葉が及川総長のときにも出ているのではないか、電文はそれを省略
したのではないか、と推測しています (21p)。
しかし日本語としては最後に言われることが最も重要で、最後に 「よくやった」
といえばお褒めの言葉と受け取るのは当然です。もし陛下が非道な作戦と
考えたなら、これきりで止めよと言えば良かったのです。

実際に米内上奏の前に、陛下には及川総長上奏の補足資料として10月28日に
「神風特攻隊御説明資料」 が提出されており、そこには
「本特攻隊が帝国海軍従来の特別攻撃隊または決死隊と異なります点は、
計画的に敵艦に突入致します関係上、生還の算絶無の点で御座います。
本計画は最初第一航空艦隊の戦闘機のみにて編成いたしておりましたが、
現在では各隊、各機種に及ぼしつつある模様で御座います。」 (25p、原文
カナまじり) と書いて、特攻が生還絶無の極めて特殊な作戦であることと
その拡大を示唆しているのですから、これをそのままにしたということは
特攻作戦の継続拡大を了承したということに他ならないでしょう。

保阪正康氏が著書 『特攻と日本人』に引いた、陸軍侍従武官吉橋戒三の日記
(未発表、1945年1月7日) に、陛下が特攻の戦果をたいへんお喜びになった、
とあるのは本当らしいと思えます。

では太田氏自身は作戦としての特攻を批判しているのかというと、どうも
そうではないようで、なんとか大西中将を弁護したい気持ちがあるようです。
「舞台作りから実行までをやってのけた大西を、ただの暴将、狂気の軍人と
いう評価で固定できないのは当然だろう。それは死んだ隊員の、苦悩の極地
を超えて達した崇高な決意を冒涜するばかりか、特攻の本質を語ったことに
ならないからである。」 (232p)
作戦指導者の独善を批判することがなぜ特攻隊員を冒涜することになるので
しょうか。そんなことを言えば、戦争指導者や作戦指揮者に一切何の批判も
許されなくなってしまいかねないでしょう。

大西中将が毎日新聞記者・戸川幸夫に語った、
「いったん敗北して、そこから新生日本を作り出す。それには特攻を出す
ことによって、国民にその旺盛な士気と自信を自覚させる。その力が戦後
のたてなおしに不可欠なのだ。」
という言葉を引いて、「彼 (大西) の思考を支配していたのは、あくまで
戦後の新しい日本の復活であった。」 (225p) と評価します。
しかし大西中将は終戦のご聖断の前後でさえ戦争続行・2000万特攻を主張
しており、「最後には天皇までも道連れにしようと考えて」(241p) いたほど
で、それでは日本を再建すべき日本人が誰もいなくなってしまいかねま
せん。特攻を新生日本の自信にしようなどいうのは取ってつけた理屈に
過ぎず、自分の作戦をあくまでも推進したいという我執以外の何物がある
でしょうか。
切腹時の遺書も、すでに散華し神となった (はずの) 隊員に対して敬語を
使うわけでもなく、生き残った者には命令口調でいかにも偉そうであり、
同情するに値しません。遺書に、特攻隊の英霊に対し、
「最後の勝利を信じつつ 肉弾として散華せり
 然れどもその信念はついに達成し得ざるに至れり」
とあるけれども、特攻の戦果はほとんど得られなくなっていたことは
大西氏自身よく知っていたはずで、終戦の大詔ではじめて 「達成し得ざる
こと」が分かったというのでしょうか。唾棄すべき傲岸不遜・我利独善の
狂人と断定して差支えないでしょう。

そもそも、アメリカがまさかと思った初期の戦果はともかく、後は鈍足の
飛行機なのに援護もなくほとんど撃墜されるばかりの特攻で死ぬことが、
どうして国民の自信になるのか、私にはまったく分かりません。

太田氏は、「特攻隊員たちの飛行時間はせいぜい二百時間であり、それを
どう活用するかは、経済学理論に通じる側面を持っていた。(234p)」 と
書いています。これほど無神経な議論もないでしょう。特攻隊員たちの
飛行技術が十分でなかったのは、訓練もままならず飛べるようになった
側から次々と特攻させたせいであり、指揮官や戦争指導部の責任でなくて
何でしょうか。それなのに、未熟だからと若人の命を経済的砲弾として
数えるなどは、死者を冒涜すること極まりないと思います。日本は人を
大切にしない精神主義でこそ敗北した、と私は思います。

「あえて無理をやってのけた事実は、好悪は別にして、日本人の自信に
つながっていることも認めざるをえない。」(254p) と太田氏は結論します
が、私にはそんなことで自信を持つとは考えられません。そうした論理
が大西中将だけでなく特攻を承認し終戦時まで継続させた戦争指導部の
責任を免罪することになるならば、まったく許されないことです。

特攻隊員たちの精神はまことに崇高です。しかしそれを悪用した、人命
を軽視するお偉方の精神主義では絶対に勝てない、ということを日本人
が確信したのは確かでしょう。
ところがこの頃そうした精神主義を賛美する傾向があるようです。太田氏
のこの本も、好意的評価に傾いているのは残念です。
       (わが家で  2014年4月22日)

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左右両極からの、戦争と天皇に関する本

2014-04-20 18:03:05 | 第2次大戦

左右両極からの、戦争と天皇に関する本2冊、
「総点検 日本の戦争はなんだったのか」 吉岡吉典 (新日本出版社、2007)
と、非常識発言で話題の、NHK経営委員になる前の長谷川三千子女史の本、
「神やぶれたまはず」  (中央公論新社 2013年)。

「明治のはじめから1945年まで、戦争に次ぐ戦争を繰り返した」 日本。
吉岡氏によると、明治以来最初の対外出兵 (戦争) は1874年の台湾出兵でした
が、これについてインドの元首相で歴史家のネルーが、明治政府成立のわずか
6年後、日米修好条約による 「開国以来20年もたたないうちに、日本は中国に
対して侵略的態度を取り始めた。(中略) 日本は産業の方式においてばかりで
なく、帝国主義的攻撃のしかたについても、ヨーロッパのあとを追った。日本
人はヨーロッパ列強の忠実な弟子以上のものであり、しばしばその上を行きさえ
したのだ。」 (「父が子に語る世界歴史」4 169p) 
として、大いに驚いていると書いています。

大東亜戦争について右派の人たちのいう 「自衛戦争」 論について吉岡氏は、
「明治のはじめから1945年までの間に、(1945年の) 沖縄戦以外は外国から武力
攻撃を受けての地上戦は一度もありません。(中略) 侵略されたことがない国
の自存自衛の戦争というものがあるでしょうか。」 (19p) として否定しています。
戦中の1940年に反軍演説で衆議院を除名された民政党の斉藤隆夫代議士は、
「日本の大陸発展を以て帝国生存に絶対必要なる条件なりと言わんも、自国の
生存の為には他国を侵略することは可なりとする理屈は立たない。若し之を正義
とするならば切取強盗は悉く正義である。」 (「斉藤隆夫政治論集」 233-234p) 
と書いているそうです。
まったくその通りで、誰でも分かるまともな感覚だと思います。

これを今日においてなお、当時は帝国主義時代だから植民地獲得は当然だ、と
大きな声で主張する人たちがいて、安倍総理を応援しているのですから、どう
しようもありません。
安倍総理は、「侵略の定義は定まっていない」 と発言して問題になりましたが、
本当にそう思っているのでしょう。そんな人が集団的 「自衛権」 の行使に向け
て解釈改憲に熱心なのですから、危なっかしいと思うのは当然です。
「自衛の定義は定まっていない」 というのが正しい理解ではないでしょうか。

また右派の好きなアジア解放の戦争という見方も、朝鮮・台湾・満州を見れば
わかる通り、お題目に過ぎなかったことは明白です。私も林房雄の 「大東亜
戦争肯定論」 (中央公論、1963-65) を学生の頃読んで、そういう見方もある
と感激したものでした。しかしよくよく研究してみればそれは単なる結果論で
あって、そのために日本が戦ったわけでは全然ないのでした。

吉岡氏は日本の度重なる外征と、第一次世界大戦後の 「戦争を違法とする」
国際的な動向について明晰な分析をしていますが、一つだけ満州事変について
書き漏らしていると思われることがあります。
それは、山中恒著「 アジア・太平洋戦争史-同時代人はどう見ていたか」
知った、昭和天皇が満州事変の翌年1932年1月8日に関東軍に賜った勅語です。
昭和天皇は関東軍の活動を大いに称賛し、引き続き天皇の信頼に応えるよう
訓示しています。これは関東軍の独断専行への事後承認でありお墨付きでした。
天皇の戦争責任をきびしく問う共産党理論派の吉岡氏が、この勅語を見落とした
のは惜しいことです。

もう一つ気づいたことは、宣戦布告なき開戦は真珠湾だけではなかったという
ことです。真珠湾の「1時間10分前の午前2時15分にマレー半島 (英領) への
奇襲攻撃・上陸作戦を始めた」のです (188p) が、英国に対する宣戦の遅れに
ついて問題にする人はいません。しかし対米の真珠湾と対英のマレーと、いず
れも宣戦布告前であったことはわが国が最初から奇襲作戦を狙った証明と
いわなければなりません。


一方の長谷川女史は哲学者ということで、多少史実に甘いのは我慢するとして
も、戦争についての認識があまりに綺麗ごと過ぎるのではないでしょうか。

最初に折口信夫の詩 「神やぶれたまふ」 をこう批評します。
「神々に助けを請ひ、ともに戦ってもらひながら、信うすくして神々のもつ
力を存分に発揮してもらうことができなかったわれわれが、戦いに敗れたから
とて、そのまま神々を忘れ去ってしまふとしたら、それはさらに二重の背信
行為ではないか。」 (18P) 折口氏は戦後このような反省と覚悟を基にして、
あたらしい神学の構築への努力を進めていったはず、とします。

しかし、女史が 「神やぶれたまふ」 の核心部とするこの一節、
   日高見の国びとゆゑ、
   おのづからに神は守ると 
   奇蹟(マシルシ)を憑む 空しさ。
   信なくて何の奇蹟―。

この、当然に神が守ってくれると恃んでいたという説に女史は猛反論します。
「『靖国のこえに耳を澄ませて』 という本の中に登場する 「若き軍人たちは、
みな、しっかりと自らの目で自らの死を見つめ、まさに 『覚悟』 という
言葉の本来の意味での覚悟をつかみ取って、あるいは特攻機に、あるいは
回天に乗り込み、またあるいは危険な偵察の任務のうちに命を散らしていった
人々である。」 (22P) 「それがどうして、敗れたとたんに、『神風が吹くと
他力本願のことばっかり言って、自分の裡からの信仰心を全然持ってない』 と
いうことになってしまうのか。」 (19P)
こう批判して、タイトルを反語の 「神やぶれたまはず」 にしたわけです。

どうも彼女は、現人神である天皇のために戦った日本人は、ある種の 「絶対的
宗教経験」 を得たのだ、と言いたいらしい。
「大東亜戦争はけっして単なる、他の手段をもってする政治などではなく、
ある絶対的な戦争だったのだといふこと、そしてもし 『日本の神学』 といふ
ものが構築されうるとすれば、その基はこの絶対的な戦争の経験以外のところ
には見いだされえない、といふことである。」
 それは 「いはゆる 『聖戦』 -崇高なる目的のために遂行される戦争- のこと
ではないし、かと言ってもちろん、『侵略戦争』 『悪い戦争』 といったものでも
ない。しかし、(中略) 大東亜戦争のうちには、確かに、さうした 『絶対的なもの』
が含まれていたのである。」 (29p)
 
「絶対的なもの」 とは、明記はされていませんが、どうも特攻や玉砕に散った
人たちの、神としての天皇陛下を思う心情を指すらしい。あの悲惨な戦争を賛美
し、「宗教体験」 として意味づけようというのですから、哲学者というより教祖
がお似合いでしょう。しかし 仮に 「日本の神学」 が成り立つとしても、決して
大東亜戦争を基にして構築されてはならない、と私は思います。

そして昭和天皇の御歌、
   身はいかになるともいくさとどめり ただたふれゆく民をおもひて

など4首を解説して、民を思う天皇の大御心を賛美しています (272p~) 。
しかし、「もう一勝負してから」 と何度も講和の機会を見送り、東京大空襲
でも沖縄戦でも国民を思いやった形跡のないのが実際の昭和天皇でした。
講和の最後の決心は沖縄戦のあとに自分で考えた雲南作戦が不可能になった
から (昭和天皇独白録) というのですから、あきれるような話で、大御心も
底が割れています。講和後、自分が安全になってからこのような歌を詠んだ
からといって、とても鵜呑みにできるはずがありません。
最後の最後まで国体の維持を唯一の講和条件にした昭和天皇は、自己満足
的な思い込みで 「身はいかになるとも」 などと詠ったのでしょう。理想の
王でも神でもない、ただの凡人だと私は思います。
しかも「国体護持の思想」 を長谷川女史は、日本政府が国民に敗戦を受け
入れさせるために 「どうしても必要な詐術であった」 (259p) と強弁するの
です。長谷川女史は真実に迫ろうとしていないし、時系列の事実関係を全く
考慮していません。神を崇めるのに、客観的事実が邪魔物であるのは確か
ですが。

まさか天皇をふたたび神として崇める時代は来ないと思いますが、長谷川
女史のような人たちが安倍総理のお友だちとして各界で活躍しているのです
から、油断はできません。付和雷同する日本人の性格は、残念ながらそれほど
変わっていないのではないかと思います。
        (わが家で  2014年4月20日)

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特攻は志願ではなく、軍の公式な作戦だった 

2014-04-18 18:16:32 | 第2次大戦

「神なき神風―特攻・五十年目の鎮魂」 三村文男著 (MBC21、

平成8年=1996)。

三村氏は、神風特別攻撃隊のいわゆる創設者とされる大西海軍中将を、
本当は 「神を信じない」 俗物と評し、「神なき」 というタイトルを
つけたようです。

1945年東京帝大卒業の三村氏は特攻で死んだ多くの友を持ち、本書中
にも登場します。
「憂国の思いもだしがたく、志願して特攻出撃する若人たちが輩出した
ことは、帝国陸海軍最大の栄光として、万世に記憶さるべきことである
と私は信じていた。そういう称賛の言葉は、戦中のみならず、今も多い。
(中略) だが特攻が命令でなされたとすると、全てが裏返しになってし
まう。(中略) 帝国陸海軍の行為は、人間の尊厳を冒涜する犯罪だった
ということになるのだ。」 (23-24p)

特攻は命令だったのか、純粋な志願だったのか、ということについて
は本書にも記載がありますが、実際には関大尉率いる神風特別
攻撃隊敷島隊の特攻が実施されたレイテ沖海戦 (1944.10.25) より
半年も前に特攻作戦が検討され、特攻専用兵器の開発までが進めら
れていたのでした。

「史伝:真珠湾攻撃-ミッドウェイ海戦-特攻」 によれば、海軍では
「S19.4.4にすでに軍令部第二部長 (軍備担当) 黒島亀人が第一部長
(作戦担当) の中沢佑に作戦上急速実現を要する兵力として特攻兵器
『体当り戦闘機』 『人間魚雷回天』 などを提示し、これを受けて同年
6.27日、海軍特攻兵器推進掛 (後に特攻部になる) が設置されている。」
そうです。 
また Wikipedia によれば、日本陸軍の特攻兵器開発はもっと早く、
1944年春に陸軍中央で航空関係者が特攻の必要に関して意見が一致し、
四式重爆撃機と99式双発軽爆撃機を改修して特攻兵器にすることに
決定、さらに同年5月には体当たり爆弾 (桜花) の開発のため第三陸軍
航空技術研究所に特別研究班を設けています。

また大西中将が命名したという神風攻撃隊、敷島隊、朝日隊の名称は、
中将が昭和19年10月17日にマニラに赴任し特攻隊を創設するより前
の13日に、海軍軍令部の源田実中佐の大西中将宛て電報案の中にあっ
たことが指摘されています。(柳田邦男 「零戦燃ゆ」 1985、文藝春秋より)
海軍では大西中将が創案したという伝説が流布され、その 「サディスト」
的性格 (三村氏) により特攻作戦を最後まで推進したことは確かです
が、事実はあらかじめ軍中央部が計画した作戦だったことは明白です。

特攻を行った人たちの手記は、どれも涙なしに読むことはできません。
なぜこのような非人間的な作戦、しかも戦果の期待できないことが分か
っている作戦を実施したのでしょうか。多くの、純粋な精神が悲運に
斃れなければならなかったことに怒りがこみ上げてきます。最後は
国民全員の 「1億特攻」 などということが冗談ではなくマジメに呼号
されたのでした。

特攻は志願制という建前でしたが、「戦闘集団の中にいて、特攻に
志願するかしないかと問われれば、殆ど踏み絵検査を掛けられたに
等しく、反対をすることはまず不可能であったであろう。組織する
側もそのことを見越していたに違いなく、したがって、志願制という
名目ではあったが本質は命令であった。」 というのは慧眼であると
思います。(前掲 「史伝:真珠湾攻撃-ミッドウェイ海戦-特攻」) 

三村氏の舌鋒は鋭い。「人間を砲弾代わりにすることは、人格の尊厳
を否定することである。動機の崇高な志願といえども、人間を道具と
する特攻は、志願すべきではなかった。志願を許すべきものでもなか
った。」 (59p)
「結論として私は特攻命令者を殺人罪で告発する。」(67p)
  
そしてさらに、戦後になって特攻作戦を弁護する秦郁彦氏 (「昭和
天皇5つの決断」) に対し、「レイテ戦のような戦勢不利な局面に
立ちいたれば司令官は誰でも殺人鬼になるというのが特攻必然的
帰結論で、(中略) そう考えておられるなら、特攻殺人の事後従犯
というべきだ。」 (75p) として告発し、また大西中将をある程度
評価する草柳大蔵氏 (「特攻の思想」) を否定します。

三村氏は本書後半で大西氏の遺書や切腹したことを通じた性格分析、
果ては山本五十六大将は凡将だったとか、いろいろと書き連ねてい
ますが、これらはすこし蛇足の感があります。また特攻作戦に反対
だった将校が意見をしたことを無視した軍上層部を批判しています
が、本当の責任者は誰だったのか、その分析が弱いと思います。

真の責任者は誰だったのでしょうか。陸海軍を一手に統帥する
大元帥であった昭和天皇は、作戦としての特攻を否定されたので
しょうか。

「昭和天皇の作戦容喙 (関与) と戦争責任を考える」 によると、
1944年10月25日のレイテ戦における敷島隊による戦果は翌26日に
及川 (海軍) 軍令部総長から上奏され、昭和天皇から 「そのよう
にまでせねばならないのか、しかしよくやった」 とのお言葉が
あったとされています。
同様の言葉は10月30日の米内海相に対するものという説もありま
す。この言葉はさっそく前線に布告されたといわれます。(原典未確認)

これについては、無理な作戦をしなければならないことに対する
叱責とする見解や、そもそもそう言ったかどうかについて否定的な
見解があります。しかし大西中将の部下であった猪口力平の 「神風
特別攻撃隊 (中島正と共著) 111~112p」 でも語られているほか、
戦史研究家の保阪正康氏は、著書 『特攻と日本人』 の中で陸軍侍従
武官吉橋戒三の日記 (未発表、1945年1月7日) として、
「夕刻、右戦況其ノ他ニ関シ上奏ス 体当リ機ノコト申上ゲタル所
御上ハ思ハス最敬礼ヲ遊ハサレ 電気ニ打タレタル如キ感激ヲ覚ユ
尚戦果ヲ申上ゲタルニ 『ヨクヤツタナア』 ト御嘉賞遊サル 日々
宏大無辺ノ御聖徳ヲ拝シ忠誠心愈々募ル」
と記しており、お褒めの言葉があり、それが布告されたと考える
のが妥当のようです。

いずれにせよ報告を受けたはずの天皇は 「そんな馬鹿げた戦い方
はやめよ」 とは言っていないわけで、特攻戦死は特別に2階級特進
という措置が終戦まで続いていることもあり、陛下も承知された
価値ある作戦として推進されていたものと思わざるを得ません。

三村氏の怒りが軍上層部の一部の将官個人に向いているらしいの
は惜しいことです。氏は「特攻は日本人の伝統的価値観からも、
決して許容できない異端のパラダイムであった。」 (217p) と言い
ながら、歴史をひもといて 「特攻精神は日本だけのものではなかっ
たのである。普遍性があったということである。区別すべきは
特攻を作戦に組み込んだ帝国陸海軍の上級指導者たちの外道こそ
が、戦争末期の日本だけに特異なものであって、普遍性のないもの
であったということだ。」 (231p) と結論します。

しかしもっと戦争全般に目を向け、日本の戦争指導者の一部だけ
でなく、天皇を含む指導部全体に、また戦争そのものの狂気に目を
向けたならば、「作戦としての特攻」 の犯罪性を追及するこの書
の意義はさらに高まったであろうと惜しまれます。
       (わが家で  2014年4月18日)

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日本植民地時代の朝鮮を

2014-04-17 18:23:20 | 第2次大戦

「近現代史の中の日本と朝鮮」(山田昭次ほか著、東京書籍 1991年)。
日本と韓国の教科書の比較から、日本と朝鮮の関係を解説する分かりやすい
本です。朝鮮が日本国だった30数年間、どのような統治がかの地で行われた
のか、が分かります。

日本の植民地であった朝鮮には朝鮮総督府が置かれ、天皇直属の朝鮮総督が
統治するという特殊地域で、大日本帝国憲法は基本的に適用されませんでした。

土地調査事業ということで 「所有権の不明確なことや届け出が無いことを理由
に 100余万町歩の田畑と 1120余万町歩の山林を官有地とした。」そうです。(122p)
これは日本の教科書に書かれていることで、私も初めて知りました。 
わが国の全国の農地面積が 2011年現在で 456万ha=約 460万町歩ですから、官有
地とした100余万町歩の田畑というのはそれのほぼ4分の1にもあたる面積で、どれ
ほど膨大なものかが分かります。些細な手続きの不備を理由に強制的に没収し、
それを日本人に払い下げたりしているのですから、韓国でこれを 「積極的な
土地収奪」 と非難するのも当然です。

また皇民化政策で、朝鮮語教育の禁止や悪名高い 「創氏改名」 が強制されま
した。(166p) 要するに朝鮮の民族文化を強制的に根絶やしにしようという
政策で、世界の植民地支配政策としてもかなり珍しい、嫌われるに決まって
いるやり方です。そんなことを大日本帝国は行っていたのです。

こうした政策は朝鮮人の激しい抵抗運動を引き起こしました。安重根による
初代韓国統監伊藤博文の暗殺もその一つです。中国が記念館を設立したことに、
官房長官が 「安重根はわが国では犯罪者だ」 と抗議しましたが、いったい
何のために抗議しているのか意味が分かりません。安は逃亡犯ではなく、日本
の手で死刑となりました。もう一度処刑するわけにはいかないし、いま抗議して
どうなるの? 菅氏はどうしたいのでしょう。

いま右派の人達は、朝鮮は先方が望んだので併合してやった、とか、朝鮮人を
日本人と同様に平等に扱った、日本への協力者もいた、とか、日本の統治にも
良いところがあった、とかの擁護論が多いのです。
しかし事実を見て少しでも相手の立場になってみれば、独立後にそうした意見
が容易に受け入れられないのは当然です。

朝鮮が日本の植民地だったことを私も体験としては知りません。今の若い人たちは
従軍慰安婦や竹島問題などで反感を持つだけではなく、やはり歴史を知ることが
大切ではないかと思います。
       (わが家で  2014年4月7日)

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