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魔人の鉞

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ソ連参戦こそが 終戦の直接原因

2014-07-24 17:35:06 | 第2次大戦

「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」 長谷川毅 (中央公論新社、2006)。

「太平洋戦争の終結を、アメリカ、日本、ソ連の三国間の複雑な関係を詳しく検討
して、国際的な観点から描き出すことを目的としている。」

そして① 対日戦遂行についての米ソの複雑な駆け引き、② ソ連の講和仲介を望んだ
日ソ関係のもつれ、③ 日本国内の講和派と継戦派の角逐、という3つのサブプロット
を立てています。

私が特に興味深かったのは、対日戦における原爆投下とソ連参戦の駆け引きです。
トルーマンは原爆実験が成功したとき、ソ連の参戦前に日本を降伏させるために
原爆使用を決意した。ソ連はヤルタ密約に基づき、それが保障した満州の権益と
千島などの領有を確保するために日本降伏前に参戦したかった。日本は、国体
つまり天皇の地位の確保を唯一の降伏条件としており、それが確認されないうち
に降伏することはきわめて困難だった。日本は、ポツダム宣言にスターリンが
署名していないことに注目し、日ソ中立条約の廃棄を通告してきた当のソ連の
仲介を、原爆投下後ですら藁にもすがる思いで期待した。

こうして広島原爆、ソ連参戦、長崎原爆という終戦直前の悲劇が生じました。これが
避けられた可能性は、天皇制の維持の確約がされることでした。しかしトルーマンは
無条件降伏に固執してバーンズ回答でも天皇制維持を明確にせず、またスターリンが
ポツダム宣言にもし参加するとすれば、「立憲君主制の約束は、ソ連が参戦する前に
日本が降伏を認めてしまう危険性があった。」 (501p) から、当然それに反対したと
考えられるわけです。

原爆投下とソ連参戦がなかったら、日本はオリンピック作戦 (九州上陸作戦) 開始
予定日の11月1日までに降伏したかどうか。
「アメリカ戦略爆撃調査報告」 は降伏したと結論しており、よく引用されています。
しかし著者は原爆の権威バーンシュテイン氏の分析による近衛、豊田、木戸、鈴木総理、
平沼、迫水氏らの証言から、この調査報告は信頼できず、簡単に降伏を受け入れな
かったであろう (504p)、としています。

では原爆とソ連参戦と、どちらが降伏の決定的な要因だったのか。著者は、原爆投下
がなくともソ連参戦だけで降伏を受け入れたと見ています。

ソ連の中立は日本の本土決戦計画 「決号」 作戦の前提であり、参戦のショックは甚大
だった。ソ連のほうが天皇制に対してアメリカより厳しいことは当然予想できることで、
国体護持を唯一の条件とする最高指導部にとってまさに恐るべき事態だった。
一方原爆は、「阿南が (8月9日の) 閣議で、アメリカは百発の原爆を保有し、次の標的
は東京かもしれないというショッキングな発言をしたが、この阿南発言は閣僚の意見
にまったく影響を与えなかった。」 (507p) し、「8月9日から10日の御前会議で、参加者
(鈴木、東郷、米内、豊田、阿南、迫水、保科) の回想録あるいは記録類には、天皇が
原爆に言及したということが一切記されていない。」(508p)
終戦の大詔には原爆が特筆されているが、「8月17日の『陸海軍人にたいする勅語』に
おいては、原爆には触れておらず、ソ連参戦だけが言及されている。」(508p)

著者はこう結論します。「広島と長崎に投下された二発の原爆だけでは日本を降伏
させることはなかったであろうと推測することができる。その莫大な破壊力にもかか
わらず、原爆は日本の外交に根本的な変化をもたらすことがなかった。ソ連参戦こそ
がこの変化をもたらした。」 (510p)
したがって、原爆が日本を降伏させた決定的な一撃であったというのは、「アメリカ人
の後ろめたい意識を取り除く」 神話に過ぎず、克服されなければならない、と論じま
す。(511p)
綿密な考証に基づいた、説得力のある結論です。

私の憶測では、終戦の大詔に原爆の悲惨を書いたのは、慈愛あふれる天皇を演出する
ためだったのではないでしょうか。帝都の3分の1を焼失し、10万人といわれる犠牲者
を出した3月10日の東京大空襲を視察していながら何の感想もない昭和天皇は、原爆に
対してもこころを傷めることはなかった、と思われます。
また詔書にソ連参戦を明記しなかったのは、それがポツダム宣言受諾の真実の原因で
ありながら、天皇制維持にたいへん不都合であるから講和したという印象を薄める
意図があったのではないか、と感じます。
        (わが家で  2014年4月24日)

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日本はなぜアメリカと戦ったのか?

2014-07-16 17:37:43 | 第2次大戦

『アジア・太平洋戦争』 (「戦争の日本史23」 吉田裕、森茂樹 吉川弘文館 2007年)。

あの戦争とは何だったのか、開始から終戦まで歴史事実を丹念に確認して描き出した本
です。
いろいろ教え似られるところが多いのですが、1つだけ気になるところがあります。著者
が提出する、日本の戦う相手はアジアに巨大な利権を持つイギリスと、言うことを聞か
ない蒋介石政府のはずなのに、なぜアメリカと戦うことになったのか、という疑問です。

著者は、「世界情勢の読み違いから、アメリカに経済封鎖を食らわされて」 (15p) しまった
とし、アメリカは屈服させる相手ではないが 「戦意を喪失せしむる」 必要があり、武力
を行使するのは 「自分は屈服しない、というデモンストレーションだった」。「だからこそ
東南アジアの資源地帯を占領して、米国の経済封鎖を無効にしなければ」 (16p) ならな
かった、としています。

しかし、アメリカの全面的経済封鎖の引き金となった南部仏印進駐は、その直前7月2日
の御前会議で南方進出は 「対米英戦を辞せず」 と決定した上での行動であり、日本の
論者が戦争原因とする石油全面禁輸は南部仏印進駐の後のことです。経済封鎖よりも
戦争決意が先になっていることを見落としているようです。
とすると、真の理由は何だったのか。やはり、ドイツがオランダ、フランスを蹂躙する快
進撃を見て、「バスに乗り遅れるな」 とばかりに尻馬に乗った、というのが本当のところ
ではなかったかと私には思えます。いかにも日本人的な、雰囲気に流されたのです。

天皇の統帥権を補佐する、軍事官僚の 「輔翼」 といわれるものについては、憲法上の
根拠がなく、「統帥権の発動についての責任は、天皇自身が負うほかはない。」 (100p) と
します。「昭和天皇は、『御下問』や『御言葉』を通じて作戦指導に深くかかわった。(中略)
必要と判断した場合には、積極的な意思表示を行うことによって、その内容を変更させた
のである。」 (101p)
旧海軍少将高木惣吉氏は 「参謀総長、軍令部総長の地位は、天皇の統帥命令の伝達機関
であって、国務各大臣のような責任機関ではなかった。(中略) 国務と統帥の調整は憲法上、
天皇以外にこれを裁決される地位は存在しなかった」 (101p) としているそうです。
(「私感 太平洋戦争」 文藝春秋 1969年) これは天皇の戦争責任を考える上でたいへん
重要な指摘です。

開戦時の日本の戦力・戦略について、多くの問題点を指摘しています。まず、政府、陸軍、
海軍が合同で統一的な戦略を立てることができなかったこと。
作戦思想として、陸軍ではまず
①短期決戦主義。(これは屈服させる相手ではない対米戦を考えると、無理があります)
②極端な精神主義・白兵戦偏重。自動小銃に対して三八式歩兵銃での白兵突撃です。
③装備近代化への関心の低さ 日本の戦車は豆腐のように敵戦車に打ち抜かれる始末。
  自動車化も雲泥の差。 
④アメリカ兵は惰弱という偏見 
⑤補給・衛生・情報戦の軽視 (65-76p)
これらは全体として、精神力に偏重し、兵の命を粗末にし、使い捨てて恥じない文化を
創り出しました。特攻隊はその行き着いた果てというべきです。
「旧軍人の中には、いまだに特攻作戦は、下部の隊員からの自発的な申出によっておこ
なわれたとして、上層部の責任をあいまいにする傾向がみられる。しかし、この作戦は、
軍上層部の正式の決定にもとづき実施されたものだった。」 (258p)

日本には戦前的精神主義が復活しつつある気配があります。映画 「永遠の0」 などに
みられる特攻隊の美化がその先兵です。九州の特攻隊基地は観光名所になっており、
特攻を世界遺産に推薦しようという運動まであるらしい。純真な特攻隊員は痛ましいが、
功少ない外道の作戦を命じた指導部の責任を忘れることがあってはならないと思います。

最後に、大東亜戦争は東亜解放の戦いだったという、林房雄亜流論者へ。1943年5月31日
御前会議決定の 「大東亜政略指導大綱」 に、「『マライ』『スマトラ』『ジャワ』『ボルネオ』
『セレベス』 ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給地トシテ極力コレカ開発並ヒニ民心把握
ニ努ム」 (195p) とあるのをどう説明するのですか。中国で暴れまわるのが東亜解放ですか。
台湾・朝鮮はどうですか。事実を見て論ずるべきです。
        (わが家で  2014年7月16日)

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陸軍にも早期講和派がいたが・・・

2014-07-13 17:39:21 | 第2次大戦

主戦論一枚岩だったとして評判の悪い陸軍内にも講和派がいたことを丹念に洗い出した、
『主戦か講和か-帝国陸軍の秘密終戦工作』 (山本智之、新潮社 2013年)。

陸軍も一枚岩ではなく、参謀本部戦争指導課を中心にした早期講和派や、中間派という
べき人たちがいた。早期講和派は少数だったが、中間派というべき軍中央や重臣らに
働きかけ、終戦に向けて多数派工作をすすめていきました。

著者は 「陸軍が主戦派、早期講和派、中間派と派閥が分かれたために、統一した見解
を取れず、人事的に主戦派を排除するのに多くの時間が費やされ、戦争の終結が遅れた
のである」 (228p) と総括しています。

しかし戦争指導課は数人の小所帯で早期講和派というほどの大きな勢力ではなかった
はずです。やはり最高指導部が終戦を決断し、主戦派の部下を従わせるべきだったと
思います。東京大空襲、フィリピン戦、沖縄戦と続く、民間人を巻き込んだ敗戦続き
にも拘わらず、ずるずると講和を引き延ばしたのは、主戦派のクーデターが怖かったと
一般には言われていますが、それを抑えるのが指導者でしょう。著者は梅津や阿南に
同情的ですが、私は甘すぎると思います。昭和天皇も優柔不断で、結局自分の命だけ
が惜しかったということでしょう。

また服部、辻、田中新一といった主戦派参謀がほとんど生き残っているのは実に許し
がたい。多くの若者と民間人をわざと犠牲にする作戦を主導しておいて、おめおめと
敗戦後も生き残るとは、人というべきです。そんな人たちが戦争を指導していた
し、最高指導部はそれを抑えられなかった。これでは靖国に祀られても浮かばれない
でしょう。
        (わが家で  2014年7月13日)

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お粗末きわまる 国際連盟脱退の真相

2014-07-08 17:40:35 | 第2次大戦

東京大学教授の著者が、これからの時代を担う中高生とともに戦前の歴史をたどる、
『それでも日本人は「戦争」を選んだ』 (加藤陽子、朝日出版社 2009年)。
出来事だけでなくその背景を丁寧に分析した、分かりやすい入門書という体裁です。

著者独自の視点も随所に見られ、入門書といっても読みごたえがあります。特に私が
知らなかった、国際連盟脱退の真相はこうです。

1931年9月18日に始まった満州事変で、中国国民政府は国際連盟に提訴します。この
時は連盟規約第11条に基づく理事会開催要請でした。明けて1932年1月28日には第1次
上海事変が起こり、中国は連盟規約第15条に基づいて提訴し直しました。15条による
提訴で解決に努力しているときに、さらに新たな武力行使に訴えた国は、第16条に
より総ての連盟加盟国の敵とみなされることになります。(309p)
(その後3月1日に満州国建国、日本は9月15日に満州国を国家承認しています。)

リットン調査団報告書は1932年10月2日に国際連盟に提出され、審議が始まりました。
ところが、日本軍はまだ連盟で審議中の1933年2月23日、中国熱河省に侵攻します。
この軍事行動は軍部の独断ではなく、閣議決定と参謀総長上奏を受けて2月4日に昭和
天皇が裁可していました。ところが齋藤実首相はこれが連盟規約第16条違反になると
気が付き、2月8日に大慌てで天皇に熱河作戦裁可の取り消しを奏請しました。侍従
武官奈良武次日記に天皇の言葉として、
「本日、斉藤首相の申すところによれば、熱河攻撃は連盟の関係上、実行しがたき
ことなれば、内閣としては不同意なり。(中略) 参謀総長に熱河攻略は諒解を与え置き
たるも、これを取り消したし。」(311p)
とあるそうです。
だが西園寺公や奈良武官らは天皇の権威失墜とクーデターを恐れて反対し、天皇は
撤回できないかと悩みましたが決断できず、そのまま作戦が決行されたのでした。

日本はもともと連盟脱退までは考えておらず、勧告は無視することで乗り切れると
考えていた( 303p) のに、除名や経済制裁といったきびしい勧告案が採択されそう
な場合は自ら脱退することで制裁を回避する、ということが急遽2月20日の閣議で
決定しました。この旨は連盟にいた松岡全権に訓令されます。
2月23日、日本軍が中国熱河省に侵攻、2月24日松岡全権が連盟議場を退場、連盟
脱退の詔書は3月27日でした。

私には、この経緯でまだ分からないことがあります。

その1。 なぜ熱河作戦の閣議決定の際に、連盟規約第16条違反に誰も気が付かな
     かったのか。外相もいたはずなのにどうしてなのでしょう。

その2。 なぜ脱退すれば制裁を免れると考えたのか。直前に脱退しても、制裁し
     ようと思えばできるはず。逆に、脱退しなくても制裁が実施可能かどうか
     わかりません。その辺りをどう分析したのか。

その3。 なぜいざというとすぐクーデターの恐れが出てくるのか。終戦の決断が
     もっと早くできなかったかという時も、クーデターが怖いということが
     もっともらしく語られますが、言い訳ではないでしょうか。なぜ何らかの
     方策を講じなかったのでしょうか。

いずれにせよ、天皇が裁可した4日後まで連盟規約第16条違反に誰も気が付かなかった
というのは、信じられない。我が国が世界の孤児になるという、対米通告の遅れ以上
の大失態といってもよい事件なのに、ほとんど知られていません。謎の多い事件です。
        (わが家で  2014年7月8日)

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天皇がお気に入りの開戦派・東條を選んだ?

2014-07-04 17:42:12 | 第2次大戦

1942年大連に生まれ、2002年自動車会社を定年後大学で歴史学を学んだ著者が、近衛退陣から東條総理
への政権移行の謎を解き明かす、「対米戦争開戦と官僚」 (安井 淳、芙蓉書房出版 2006年)。
多くのことを教えられる、素晴らしい本です

平和主義者といわれる昭和天皇が主戦派として知られた東條に大命を下したのは歴史のひとつの謎と
なっています。著者は昭和天皇自身が東條に任せたかったのではないかと推定します。また、近衛は
優柔ではなく避戦の決意が固かった、と見ています。いずれも通説とは異なった見方ですが、丹念な
史料の読み込みと合理性ある推理でなかなかの説得力を持っています。

まず、近衛氏の辞表ですが、そこには東條陸軍大臣の反対のために政権を維持できないとハッキリ
書かれています。当時は首相に閣僚の任免権はなく、軍部大臣現役制もあり軍の了解がなければ内閣
は瓦解するほかありませんでした。しかし辞表にこのようにはっきりと事情を書くなどは異例という
べきでしょう。
いわく、「シナ事変の未だ解決せざる現在に於て、さらに前途の透見すべからざる大戦争にするが
ごときは、支那事変勃発以来重大なる責任を痛感しつつある臣文麿の到底忍びがたき所なり。」 
「臣は衷情を披歴して、東條陸軍大臣を説得すべく努力したり、之に対し陸軍大臣は・・・時期を
失せずこの際開戦を決意すべきことを主張して已まず。懇談四度に及びたるも、ついに同意せしむる
に至らず。」 (8-9p)

懇談四度はいわゆる荻窪会談などを指し、近衛が対米交渉続行を主張しましたが、東條がこれを拒否
しました。東條氏は
「日本では、統帥は国務の圏外に在る。総理が決心しても、統帥部との意見が合わなければ不可なり。」
(55p) と当時の正論を主張し譲らなかったのです。このため近衛が退陣して次期総理の奏薦になるわけ
です。

当時奏薦権は内大臣木戸候にありました。木戸は10月17日重臣会議を招集します。近衛はなぜかこれを
欠席しました。この重臣会議に関する史料で信憑性が高いと思われる 「木戸日記」 には、
「出席者から特別意見なく、木戸が東條陸相を主張したら反対論はなく、広田、安倍、原が賛成」 (149p)
してそのまま決定した、となっています。
しかし嶋田海軍大臣が巣鴨獄中で写し取ったといわれる 「木戸候手記」 (戦史叢書収録) には、若槻
礼次郎、岡田啓介らがかなり強く反対した経緯が詳細に書かれています。(150-155p)  木戸は東條で
押し切ってしまい、特に反対なしと虚偽を日記に書いたわけです。

木戸は東條を推薦したことについて、東京裁判の宣誓供述書で、「近衛辞任後の総理は東條しかないと
考えて近衛に相談したところ、近衛は賛成した。」 と供述しています。それどころか、木戸が 「11月」
付で日記に書いている、東條推薦の理由をほぼそのまま近衛が語った、と証言したそうです。(157-158p)
これでは近衛が指名後のやり方まで考えて東條を推薦したことになるが、これはどう考えてもおかしい、
と著者は言います。(私も、あのような辞表を出しておいて、数日で東條を信用できると思うなどはあり
えないと思う。近衛はのちに東條内閣打倒運動を展開し成功しています。)

木戸が 「11月」 付で日記に書いている、東條でよいとした理由は、「陸軍を抑えられる東條」 に天皇
から2つの条件を付けることでした。

1つは、開戦をやむなしとする9月6日の御前会議決定の白紙還元の御諚です。ところが、会議のメンバー
で交代したのは交渉継続を主張した近衛と、開戦を渋った及川・豊田の海軍側だけで、東條ら主戦派だけ
が居残ってしまいました。形式的に再検討はしたものの、結論は覆えりませんでした。

2つ目は、陸海軍協調の御諚です。東條に対して、開戦に慎重な海軍のいうことをよく聞くようにして
ほしい、という意図だったようですが、協調せよと言われた海軍が逆に陸軍に譲歩することとなって開戦
に進んでしまいました。戦えない、とは言えない軍人に曖昧な言い方では逆効果だったわけです。お粗末
なやり方でした。もし天皇が本当に平和主義者なら、2つのご意向が覆されたときにもっと困惑していな
ければならないはずですが、そういう形跡は見当たりません。それどころか、開戦を決定した12月1日の
御前会議では、ご機嫌は麗しかったといわれています。

巣鴨釈放後の木戸の証言に、内大臣は「陛下の御信任さえあればその役目範囲には制限はないが、また
反対に天皇の御信任がなければ何の用事もなく、またそれでは内大臣は1日も勤まらない。」(138p) と
あるように、木戸が陛下の意に反することをしないのは絶対といっていい。また、昭和天皇独白録に、
東條をたいへん評価していることを告白しています。(165-167p)
木戸内府が独断で、強硬派として知られる東條を重臣会議に推薦して押し切ってしまう、などという
ことはありえず、東條にという天皇の内意があったと考えるのが自然であると著者は推定しています。

天皇が東條を信頼したのは、天皇自身が官僚的で几帳面な性格であり、東條が能吏でこまめに上奏したり
することが気に入ったらしい。残念ながら2人とも、チャーチルやスターリンやルーズベルトと比較すべく
もなかったということでしょう。それにしても当時の日本は各閣僚、陸軍、海軍がそれぞれ並列で天皇を
輔弼・輔翼するという体制ですから、とても天皇一人ではカバーしきれないほどのコントロールスパン
だったということです。
しかし、その仕組みに安住し、立憲制という名目に隠れて権勢をふるった天皇の責任は免れないと私は
思います。また天皇の近衛に対する、「確固たる信念と勇気とを欠いた」という評価は不当ですし、それ
が定説になっているのも残念なことで、死人に口なしという感を禁じえません。
        (わが家で  2014年7月4日)

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