魔人の鉞

時事、歴史、宗教など、社会通念を独断と偏見のマサカリでスッキリ解決!  検索は左窓から、1単語だけで。

GDP増は、ドル換算では3割減少です

2023-08-17 18:31:42 | 時事問題
2023年8月16日報道で、4-6月期GDPが年率6%増と報道されました。それは輸出やインバウンドがけん引し、個人消費はマイナスに落ち込んでいるとのことです。

一般には景気回復と報じられるわけですが、しかしここにドル換算という視点がありません。
実はコロナ禍前の2019年当時の円ドルレートは1ドル105円前後、現在は1ドル140円ほどです。ほぼ30%ほど円安になっているので、これはドル換算すると、GDPは2019年度より30%ほど目減りしていることになります。

国民生活はドル建てではありませんから問題ないようですが、実際は輸入物価、特に原油価格の高騰などで輸入物価高という大きな影響があります。また国際経済における日本の影響力は大幅に減少していることになります。

こうしたことを新聞その他で丁寧に報じないことは問題です。私は日銀の超低金利政策が日本の将来に大きな禍根を残すと見ているのですが、ドル換算、あるいは購買力平価換算といった国際的な視点を報じないと問題点が分かりません。

GDPが増えて景気回復で良かったね、というのでは報道としてはまったく不十分だと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治維新は、権力闘争そのもの

2023-08-17 16:25:55 | 日本史
私たちは明治維新は素晴らしい大改革だったと教えられてきましたが、それは官軍史観に過ぎなかったようです。

「日本を開国させた男 松平忠固」 関 良基 (せき よしき) 著、2020年、作品社。

日米和親条約につづく日米通商航海条約の締結に際し、大老井伊直弼が無勅許調印を断行したとされていますが、実は無能と言われた当時の幕閣・官僚には開明派が多く、中でも老中松平忠固 (ただかた) がその中心人物だった、という事を丹念に跡付けています。

彼らは、攘夷で一戦して負けたらアヘン戦争の清国の2の舞になるので、無傷のうちに対等な条約を結んで開国するほかないと考えていました。そして国力を培うべきと。
阿部正弘が老中首座のとき、徳川斉昭を幕府海防参与に登用しましたが、これがご存じのようにゴリゴリの水戸派攘夷論者でした。老中の一角で断固開国派だった忠固 (当時は忠優と称す) は度々斉昭と論戦し論破し、斉昭をして切歯扼腕させたという事です。(52p)
条約交渉では岩瀬忠震・井上清直たちの毅然とした交渉が近年称賛されるようになっていますが、彼らも独断でできたわけではありません。幕閣が松平忠固らを中心にしっかり開国路線で固まっていて、斉昭らの攘夷派を抑えていたからこそ、素晴らしい交渉ができたのではないでしょうか。

そして改めて日米通商航海条約 (安政5年、1858) をみると、これは不平等でもなんでもない、きわめて対等な条約になっているというので、驚きました。(151p~)
著者によれば関税率は20%でこれは先進国の標準で、アヘン戦争後の清国はたった5%でした。日本側の申し出による再交渉の権利もあり、関税自主権があったという事になります。領事裁判権は双務的で、当時の状況を考えれば許容範囲と思える。
唯一、外国貨幣の流通を許したことが金銀交換比率の違いによる金貨の流出を招いたことが失策でしたが、これは強いられたのではなくむしろハリスの忠告を無視したため (165p) で、事後的に改善せざるを得ないことになりました。

つまり、安政の日米通商航海条約は対等な条約でした。それが関税を5%に下げられ、自主権を失ったのは長州藩による外国船攻撃と下関戦争 (1864) の敗戦後という事です。長州藩など討幕のために攘夷を口実とするいわゆる攘夷派は朝廷の不平貴族とつるんで攘夷決行を幕府に宣言させ、その期日に外国船攻撃を実行したのです。そして惨敗すると、それは幕府の命令だと言って責任を転嫁したのでした。わざと負けたのではないかと思うほどの完敗でした。

その結果、敗戦側の幕府は追い込まれ、賠償金を取られた上に平等だった日米通商航海条約は不平等条約に変化させられ、関税率は5%と清国並みにさせられてしまった。これは当初幕府側の危惧した状況を攘夷派がわざと作り出した、という事になります。攘夷・討幕派にとっては、負けても幕府が困るので結果オーライだったのです。

そして明治政府は、攘夷攘夷と唱えながら討幕後はたちまち開明派に寝返った。明治維新は国のためなどではなかった。単に権力欲だったというほかはありません。
明治の元勲・伊藤博文は横浜公使館襲撃のテロリストでした。そのくせに、自分たちが敗戦したためだったものを、幕府が無能無知だったからこんな不平等条約を作ってしまったので、その改正のために維新政府が悪戦苦闘した、というストーリーをでっち上げ、国民を教育したのです。どこまでも、嘘と策略で塗り固めた、盗人猛々しい歴史と言わなければなりません。

国のためというなら、対等な条約を結び開国に転じた幕府を打倒する理由はなかった。坂本龍馬の船中八策 (これは彼の発案ではなさそうですが) に従って、幕府・諸侯・諸士の共和で開国すればよかったはず。それでは困るので、討幕を目標にした薩摩が竜馬を暗殺したという説が出て来るわけです。私はその可能性は70%ありと思います。
また攘夷派だが佐幕=幕府協調路線の孝明天皇の逝去も暗殺説があるほどです。

そして討幕の過程では、暗殺、策謀、偽綸旨、偽錦旗などなんでもありのデタラメぶり。あの西郷が江戸で騒擾を起こさせ、討幕の契機にしたのはほぼ確実。要するに権力欲むき出しです。権力を取ればこんどは汚職・横暴のしたい放題で、節度倫理などかけらもない始末。西郷は金銭に潔癖だったらしいが他はダラシがない。
勝てば官軍、結果オーライ、誤魔化せない方が無能、という無節操国家・明治日本がアジア太平洋戦争で破滅したのは、ある意味で良かったのです。

司馬遼太郎氏は、明治国家は青年のようで素晴らしかったが、日露戦争後からおかしくなった、「異胎」 の国家になったと言っていますが、とんでもない浅見です。日露戦争後の日本も明治国家の直系で、他人の子ではありません。
日清戦争前にすでに、朝鮮王宮占領で国王を虜にして戦争につながる指令を出させ、戦後はロシア寄りの朝鮮王妃を惨殺するというとんでもない事件を起こしています。その犯人は結局無罪放免。何が初々しい青年なものですか。チンピラと言っても過言ではありません。国際法を順守したと言っても、ごまかせる物は徹底的に誤魔化しているのです。

司馬氏は都合の悪いことは無かった、見なかったことにしているだけです。そんな司馬氏はあくまで作家。文学作品を書いているので、読む人=日本人を心地よくしようというのはある意味で当然ですが、歴史家だ、司馬史観だと持ち上げるのは大変な間違いです。

明治は良かった、敗戦日本は本当の日本じゃないという司馬史観は、日本人にとって心地よいものですが、それでは本当のことが見えてこない。いやなものは見たくない、というダダっ子のようです。日本国民は被害者だ、といってアジア諸国民の被害に目をふさぐのも同様です。そうした姿勢では本当の歴史と、本当に大切なものを忘れてしまうでしょう。

司馬遼太郎を徹底的に批判しなければ、本当のことは見えてこない。私は浅学ですが、この頃そう確信するようになりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦う覚悟が抑止力? バカではないか

2023-08-15 08:17:11 | 時事問題
きょう8月15日は敗戦記念日です。無謀な戦争を開始し、2000万人のアジア民衆と300万人の国民を死なせた昭和天皇 (と指導層) にあらためて怒りを覚えます。

2023年8月10日、台湾を訪問していた自民党・麻生副総裁が、戦う覚悟が抑止力になるなどと発言し、波紋が広がっています。

権力者というのは戦争が大好きですね。死ぬのは自分たちではなく兵隊さんや国民です。政治家は偉そうに命令できるし、財界は大儲けできるし、運よく勝てばさらに威張れます。負けても自分たちは死ぬことはありません。昭和天皇は自分だけは命を助けてもらい、高級軍人もほとんど生き残りました。そして責任は自分たちにはないと言い逃れたのです。

「戦う覚悟」で戦争を抑止できたことが一度でもあるでしょうか。日本はどうでしたか? 中国はどうでしたか? むしろ本当の戦争になる可能性がずっと高いではありませんか。

台湾有事は日本有事、と言いますが、何でそうなのか。台湾は一つの中国と自ら主張してきたはず。今になって別でいたいと言っても遅いのです。せめて50年前に独立していれば良かったのですが、あとの祭りです。できれば戦争をしないで済ませられればベストです。

香港の例をあげる人がいますが、香港などイギリスがアヘン戦争という非道な戦争でムリヤリ租借した土地です。100年も本土と違う形でしたが、それは不義の結果でした。中国が主権を回復しようとするのは当然のことです。
問題は、中国が欧米流の国家でない事だけです。

麻生などのアジテーションに乗れば、かえって戦争を招きます。彼は戦争が起こってもまったく困りません。困るどころか、自分の会社が大儲けできるのです。私たちは彼らの本音を見抜かなければなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加藤陽子先生に 歴史の見方を

2023-08-05 08:37:40 | 第2次大戦
明日はヒロシマ原爆記念日。
きのう、加藤陽子東大教授の「戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗」(朝日出版社 2016年) を読みました。
高校生に講義するというスタイルですが、当時の状況と、世界各国の思惑、それらを的確に把握して歴史を再構築するという、なかなか読み応えのある内容でした。

私が知らなかったことで一番驚いたことは、森山優氏の研究で日本もアメリカの暗号電信 (ハル国務長官~在日アメリカ大使館) を90%ほどは解読していた、という事です。(313p) 日本の暗号が解読されていたが日本は相手のものを解読できていなかった、というのは大変な思いこみだったのです。

そして近衛総理の対米交渉はかなり実現可能性があったようです(334p~)。アメリカも当時は対日開戦を避けたかった。「日米諒解案」は私人の作文と批判する人もいるが、決してそうではなく、米政府も暗黙に一枚かんでいたのです。関わっていても公式にはそう言わないのが外交交渉というものでしょう。足を引っ張ったのは、権力と戦争が大好きな日本軍人とその応援団です。
(天皇は交渉支持だったが、だんだんと開戦に傾いていき、ついに最強硬派の東条を総理にし、開戦に突っ込んでしまいました。何が「虎穴に入らずんば」ですか。まったくグズ、優柔不断な大元帥でした。)

また、三国同盟は対米軍事同盟とみなされていたが、じつはドイツ勝利が確実と思われた戦後の世界分割支配について、日本が「大東亜」の支配権を確保することが日本の最大の狙いだった、と加藤氏は解説します (277-278p)。各国の勢力圏を規定していますが、対米自動参戦条項はなく、日本はあくまで自分の都合で参戦すればいいという形です。

そして、井口武夫氏の研究により、真珠湾直前の対米通告の遅れは大使館員の怠慢ではなく、軍部が通告文を分割した最後の第14部の発信をぎりぎりまで遅らせるよう命令したからだという事 (411p)。おまけに軍は、「一切の責任はそちら」という最後通告の文言を発信直前に削除してしまったというのです (412p)。これでは最後通告になっていないことになります。

アメリカにも妥協派がおり、強硬派がいた。けっして一枚岩ではなかったというのも理解できる話です。

分かっているつもりでまだまだ分からないことがあります。
謙虚でないといけませんね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大元帥・昭和天皇は第1級の敗戦責任者

2023-08-04 09:00:42 | 第2次大戦
終戦の日が近づいてきました。
最近3冊の本を読んで、昭和天皇の戦争責任はまことに重大、というよりも大元帥として天皇一人が責任を負うべきではないかと考えるようになりました。

「昭和天皇の戦争~『昭和天皇実録』に残されたこと、消されたこと」 山田 朗著、岩波書店 2017年。

昭和天皇は立憲君主などではなく、大元帥として常に陸海軍・政府各部の報告や内装を受け、すべての情報を把握していました。そのうえで大元帥としての権限を完全に発揮していました。
例えば張鼓峰事件 (1938)。天皇は事件の一報を聞き激怒し、軍事行動の不拡大を厳命し、参謀総長から張鼓峰紛争不拡大の命令が現地軍に出されました。ところが現地の第19師団は張鼓峰の近くの沙草峰を自衛のためとして攻撃し、ついでに張鼓峰も占領してしまいました。
これでは厳罰必死、と誰しも思うわけですが、その報告を受けた天皇はなんと「満足」のお言葉を与えたのでした。(113-116p)
こういう事例は幾つもあり、独断専行であっても戦果があればお褒めの言葉を与えるのでは、やったもの勝ちになってしまうのは当然です。関東軍が悪いのではなく、そうさせた大元帥・昭和天皇の責任です。天皇は特攻作戦についてもお褒めの言葉を与えたので、以後は特攻全盛・無駄死にばかりになってしまいました。

「御前会議 昭和天皇一五回の聖断」 大江志乃夫著、中公新書 1991年。
ご聖断といえば終戦時のことだけが有名ですが、大江氏は15回の御前会議があったので、15のご聖断があったととらえています。
その御前会議の開催前に天皇は大元帥としてあらゆる情報を臣下から収集し、議案について事前に質し、場合によっては総長らを呼びつけて質問しています。陸海軍、政府各部などのすべての情報を持っているのは大元帥である天皇一人だけです。そして毎回御前会議において聖断を降したのです。戦後、立憲君主だったので臣下の上奏は拒否出来なかった、などとと自己弁護していますが、まったくの嘘っぱちだということは丹念に事実を積み上げれば見えてきます。

「天皇裕仁と東京大空襲」 松浦総三著、大槻書店 1994年。
1945年3月11日の東京大空襲は一夜にして10万人の一般市民を焼き殺した、人道に反する戦争犯罪でした。しかしまた、帝国日本の防空能力がほとんどゼロだということが明らかになったので、その後も空襲が続くこと、数十万の一般国民が殺されることは自明でした。
ところが天皇裕仁は1週間後の3月18日にその焼け跡を視察行幸したのに、何の感想も残さず施策も取っていません。防空責任者を叱責したり更迭したという記録さえありません。何のための行幸だったのか、まったくわかりません。(1964年に大空襲の指揮官ルメイ中将に日本国天皇から勲一等旭日大綬章を授賞したというのですから、あきれてものが言えません。戦争犯罪人として告発すべきなのに。 )

松浦氏は、この時点で終戦していれば、全国各地の空襲もヒロシマもナガサキもなく、ソ連の参戦も防ぐことができたと言っています。
私もまったくそのとおりだと思います。
国民を守る力がまったくないのに、その後5か月以上も継戦し、天皇は大元帥として何とか一撃でもして形勢を立て直せないかとあれこれ思案・指示したのですが、その間におそらく200万人ほどが死亡しました。ほんとうにハラワタが煮えくり返るような話です。無能・無責任極まる大元帥でした。そして何のために頑張ったかといえば、天皇制を守ためだったという、実にバカバカしいことでした。
特攻の創始者・大西中将など、天皇さえ生き残れば国民は全滅してもいい、と言うほど狂っていました。そしてなんと、最大の敗戦責任者・大元帥・昭和天皇だけは生き残ったのです。退位もしないで。

あれほどの惨禍を受けたのですから、天皇制は廃棄すべきだった。アメリカが占領支配の便宜のために天皇を利用したのは確かですが、それは大成功で、いまや天皇家ブームです。
しかし私たちは昭和天皇が第1級・最高の戦争責任者であったことを忘れないようにしたいものです。

そして真子氏をはじめ秋篠宮一家によって天皇制への疑問が出てきている。300年後くらいには天皇制も単なる一家元になっていることを期待しましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする