邪馬台国の位置の推定に重要な影響を与える、古墳などの遺跡・遺物の
年代決定の新技術、年輪年代法と炭素14法。
前回、これらが一部の学者のみにより作られ、検証されないと批判しま
したが、私にすこし誤解があったようです。
「考古学はどう検証したか」 (春成秀爾、2006年、学生社) によると、国際
的には炭素14法が大いに活用され、1960年以降すでに従来の考古学的編年
を大きく塗り替えるようになっているそうです。
日本の研究では、縄文土器は紀元前1万6000年にまで遡り、世界最古級
だとのこと。西アジアやエジプトより1万年程も早いというのですから、
ちょっと信じがたいところもあります。
粘土を造形し火を使って焼き上げる、土器という創造的文物を人類で初め
て創作した縄文時代人は、古墳時代に朝鮮から還元炎による須恵器の技術
がもたらされるまで、実に1万6千年以上もたいして技術的発達を遂げな
かったもということになってしまいます。縄文人が死に絶えたわけでは
ないのですから、考えにくいことです。
炭素14の半減期も確定していないらしいし、それが世界中のあらゆる地域
のすべての木材等に均等にムラなく吸収されているというわけではない、
ことに注意が必要です。それから、適切な検体の選択、検体の数、なども
精度を上げるためには大切な要素でしょう。現段階で数10年単位で編年を
確定させるなどは無理があるのではないかと思います。
年輪年代法も、卑弥呼没年を含むあたりで100年のずれがある、という批判
があります。中心となるスギのサンプルは数百年分の欠落があるそうで、
そこにヒノキを使って穴埋めしている状況だそうです。
木の育ち方も世界一律であるはずはなく、気候風土によってかなり差異が
あるでしょうから、調査地の良好なサンプルをどのくらい多量に確保でき
るか、またそれを適切に処理できるか、によって編年がおおきく影響される
ことは想像できます。今の段階では、編年上いくつかの試料がよく整合する
という程度のようです。全面的に信頼できるとは言えないのではないか、と
思います。
どうも近年は編年の改訂を急ぎ過ぎている、という感じです。特に邪馬台国
に関連する部分では、箸墓の編年が50年早くなるだけで卑弥呼の墓だといっ
て喜ぶのです。
そうすると辻褄が合う、と考える近畿派の学者たちは、文献資料をわざと
軽視する、せざるを得ないわけです。
書記には、箸墓は第7代孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命 (ヤマトトヒモモ
ソヒメ) の墓と書いています。女王の墓ではないし、その箸墓の名前の由来
も書かれています。何らかの言い伝えがあったと思うのは不思議ではない
のに、作り話として無視するのです。
さらに魏志倭人伝の記録、日本書紀に記された九州からの神武東征も勘違
いや作りごととして軽視してしまうわけです。
後漢光武帝が漢委奴国王に授与した金印は福岡県志賀島で発見され、紀元
1世紀の北九州に有力なクニがあったことは確実です。古墳時代から近畿
地方の王権が伸長したことも確実です。仮に邪馬台国が古墳時代のヤマト
王権そのものだったとしても、その間の200~300年間はよくわかっていない
はず。
もうすこし慎重に丁寧に考えたいと思います。
(わが家で 2015年12月18日)
邪馬台国その②。
直木孝次郎氏は大阪市立大学名誉教授で、「直木孝次郎 歴史を語る」
全14巻を著すほどの古代史の大家で、自ら近畿派と称しています。
その第2巻「邪馬台国と卑弥呼」(吉川弘文館、2008)を見ると、近畿派の
主張は大きく3つと考えられます。
① 三角縁神獣鏡は仮に日本製であるにしても、近畿を中心に発掘されて
いる。それだけの青銅器を製作させるだけの財力・権力が卑弥呼の
時代に近畿にあったことの証明である。
② 古墳の製造年代が、年輪法や炭素14法により従来より50~100年古いと
されるようになり、箸墓がちようど卑弥呼の没年あたりに合致する。
前方後円墳がそのころからヤマト発で全国に広がる。
③ 魏志倭人伝の記述は数字の誇張や方位の誤解があり、あまり信用でき
ない。
① の三角縁神獣鏡は、昔は魏から貰った300枚の鏡そのものとされていま
したが、今日ではほぼ日本製で決着したようです。なぜ魏の年号を使った
鏡を日本で大量に造らせたのか、本物に見せかけようとしたのか、その
理由は確認できません。
鏡の副葬の風習はもともと北九州のもので、近畿の弥生時代にはそういう
風習はなかったといいます。
そして、三角縁神獣鏡の副葬の仕方は、すべて棺の外に建て並べるという、
現代の花輪のような感じだそうです。棺の頭部に置かれるのは、もっと
希少貴重な鏡で、例外がないそうです。
わざわざ魏の鏡を彷製して配ったとして、それがそういう扱いだという
ことの意味がよくわかりません。
② の、古墳時代の実年代の判定について。年輪法や炭素14法の問題点に
ついては、前回書いたようにいろいろと批判がされていますが、まだ
はっきりした反論や検証が見当たりません。
土器による精緻な編年は多くの学者により検証されてきています。
それを大きく覆す日本における年輪法や炭素14法では、1人だけの研究者
の編年が検証されることもなく発表され既成事実化していくので、たいへん
非科学的です。
直木氏もこのことについて一言も語っていません。
③ の、魏志倭人伝の記述はあまり信用できない、というのはどうでしょう。
直木氏は龍谷大学所蔵『混一彊理歴代国都之図』や、隋書・旧唐書などの
記述を引いて陳寿や中国人著者たちが日本の方位を大きく誤解していたと
主張します。しかし日本を正しく東西に配置した長崎県島原市本光寺の
混一彊理歴代国都地図が発見されたのは 1988年です。第2巻「邪馬台国と
卑弥呼」刊行の20年も前で、知らないはずはないのに、これも一言の
言及もないのは不可解です。
そもそも倭人伝の冒頭に、倭は楽浪の東南、と正しく明記しており、まる
きり方角違いの認識を持っていたとも思われません。
また、魏志倭人伝の著者陳寿には、魏の始祖というべき司馬懿が楽浪郡を
平定した功績を大いに讃えたいという意図があり、大げさになったのだろう
としています。
しかしそれなら、倭まで1万2千余里と書かないで、近畿地方までの実距離
に近い2万里と書くか、もっと大げさに2万5千余里とかと書いたほうが
良いはず。なぜわざわざ控えめに書いたのか、理解できません。
このあたりは、近畿派であるために、碩学も目が曇っているという感じが
否めません。
これらとはちょっと話題がずれますが、神武天皇東征伝説も直木氏による
と単なる作り話になります。しかし、伝説が史実の反映だったという例
は世界に少なくありません。奈良のヤマト朝廷の始祖がなぜわざわざ九州
の高千穂に天下り、3代も経ってから神武が東征し、奈良を平定して即位
する、などという物語をこしらえたのか。これではちっともヤマト王権の
正統性の説明になりません。誰はばかることなく征服王朝であると明記し
ているわけです。
何らかの史実がそこにある、と私はにらんでいます。が、それはそれで
大変なテーマですので、また後にしたいと思います。
(わが家で 2015年12月16日)
このところ邪馬台国に興味があって、いろいろと本を読んでいます。
ようやく自分の中でイメージがまとまってきました。
少しずつアップしたいと思います。
邪馬台国は江戸時代から九州説、近畿説があり、古代史ファンのみなら
ず幅広い関心の的になってきました。
近年、年輪年代法や炭素14法などの新しい技術を使って古墳の築造年代
が繰り上げられて古くなり、箸墓が卑弥呼の死亡年代と合致するという
ので卑弥呼の墓だということになりつつあります。邪馬台国は決った
という感じだそうです。
しかし鷲弘朋 「邪馬台国の位置と日本国家の起源」HPを見ると、
日本の年輪年代法や炭素14法の使い方に問題があるという指摘があり、
繰り上げは間違いだという主張にも説得力があります。まだまだこれ
からかもしれません。
① 大まかな方向と距離
ともかく、まずは同時代史料である魏志倭人伝から入るべきでしょう。
倭人伝による倭への旅程の表記をそのまま読むと、九州東南海上に
なってしまう。
また「当に会稽東冶の東なるべし」の東冶を旧会稽郡東冶県=現福建
省東冶県とすると、これは台湾東方海上になってしまう。
こうしたことから、倭人伝の方角や旅程の記述が間違っている、として
伊都国から先の方角を南から東に修正し、近畿地方に持ってくる説が
唱えられました。
しかし、魏志倭人伝の著者陳寿は帯方郡から女王国まで1万2千余里と
明記しています。途中の旅程の読み方はともかく、総距離がそれで、
朝鮮~対馬、対馬~壱岐がそれぞれ1千里とありますから、女王国の
所在地は北九州か、せいぜい山口県西部くらい。奈良県では2万里
ほどになり、あまりにも違いが大きすぎます。
また「会稽東冶の東」は、その前に「夏后小康の子会稽に封ぜらる」
とあり、倭と入れ墨などの習俗が似ていることを説明して、その
会稽の、とあるのですから、夏后禹が諸侯を会盟した会稽山あたり
を想定したものと思われます。
会稽山の東とすると、屋久島と奄美大島の間あたりになり、当たらず
といえども遠からず、といった感じです。仮に1万2千里を南にまっす
ぐ伸ばすとだいたい合いそうです。
まだ正確な地図のない時代で、おおまかな見当を言っているのです
から、多少の誤差はやむを得ないでしょう。
なお東冶県=現福建省内も当初会稽郡に含まれましたが、260年に
会稽郡から分割された建安郡に属しました。陳寿はそれから20-30年
後に三国志を著しており、当然そのことを知っていたはず。建安郡
は会稽山からは7~8千里ほども南です。三国志刊本には「東治」と
あり、東冶県ではないことが考えられます。
この件に関して、かつて1402年に朝鮮で世界地図として作成された
龍谷大学所蔵の『混一彊理歴代国都之図』に、日本を南北に長い列島
と配置していることを根拠として、古代中国では日本列島が朝鮮
半島から台湾近くまで南北に連なっていると誤認していた、という
説が唱えられ、魏志倭人伝の方角誤認の有力原因とされてきました。
しかし長崎県島原市本光寺の 「混一彊理歴代国都地図」 (1988発見)、
また天理図書館所蔵図、熊本県本妙寺所蔵図などが発見され、それ
らがみな日本を東西に配置していることから、誤認説は打ち消され
ています。
② 倭国内の方角の表記
船で渡ってくる官人や商人が、方角を大きく間違えるということは
考えにくい。朝鮮からは島伝いで、その島は肉眼で見えています。
上陸してからは昇る朝日の方角が季節により違うなどは当然知って
補正できることですし、南中する太陽で南は確認できます。
③ 東に海を渡ること千里、また国あり
女王国の東に海を渡ること千里、また国あり、みな倭種なり。
こう書かれている東の海は、すなおに考えれば九州の東しかあり
ません。海の先は四国です。
奈良説では海を伊勢湾だとするようですが、奈良県の東境はとり
あえず山の中です。その先の伊勢・美濃・尾張はどう考えても陸
続きです。
④ 瀬戸内海方面の記述がない
女王国が奈良なら、当然瀬戸内海航路を通るはずです。しかし魏志
倭人伝には瀬戸内海に関する記述、瀬戸内海沿岸と思われる国々に
関する記述がまったく見当たりません。
倭の情景・風俗を描写した名文があるのに、瀬戸内海がないのは
どうも不思議です。
⑤ 径百余歩の大きな塚
ただ一つ九州説に不利なのは、卑弥呼の塚です。築造年代が適合
する径百余歩の大きな塚あるいは古墳、これがなかなか見つから
ない。この点だけは近畿説が優位です。
以上のように、魏志倭人伝を素直に読むと、九州説が有力です。
倭国内の方角・距離は伊都国からの放射型が良いようです。
しかし卑弥呼の塚に代表される、考古学的遺物・埋蔵品の面から
はなんとも言えないようです。
今後も調べていきたいと思います。
(わが家で 2015年12月9日)