「宗教を生み出す本能」 ニコラス・ウェイド著、依田卓巳訳、NTT出版 2011年。
宗教は進化により発生・進化してきたとする最新の学説により、宗教の生成発展を詳細に分析しています。
「ここ数年の間に、生物学者たちの研究によって、社会的動物が集団内で他のメンバーと交流するために、利己主義を抑制するルールを発達させていることが分かってきた」。(23p)
「サルや類人猿は、ヒトの道徳意識のもととなったと考えられる多くの行動 (たとえば、共感や返報) をとる。ヒトはそれらの構成要素を、類人猿に近かった祖先から受け継ぎ、道徳的本能へと発達させたのだろう。」(24p)
動物に社会的行動が見られることは知られていました。しかしそれがヒトの道徳観念の基礎になっているという考えは驚くべきことです。もしそうなら、道徳の基礎に宗教があるのではなく、宗教の基礎に道徳があると考えていいはず。宗教のない道徳は考えられない、という意見が多いと思われるのに、この見解は驚きです。
そして、宗教がなくともヒトは十分に道徳的になれる、と主張するアンドレ・コント=スポンヴィル氏に強力な援軍となります。
(「精神の自由ということ」)
ウェイドはアボリジニやアンダマン諸島民、クン・サン族などの未開諸族の宗教行動の分析から、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の形成過程を詳細に分析します。3大宗教はいずれも長い時間を掛けて形成され整理されたもので、特にイスラム教はウマイヤ朝の創立者ムアーウィヤ王がコーランを制作した、ムハンマドはいなかった、という修正主義者の見解を紹介しています。
通説に従ってイスラムがムハンマドに始まるとしても、それは最初から統治者のための宗教であり、民衆の救済は主眼になっていないのです。平和な宗教というのは仮面だと思います。
ウェイドは、宗教は生物的進化による本能だとしますが、それには少し疑問があります。世界最大の人口を持つ中国には、一神教的な、生活すべてを規制するような宗教はありません。日本にもありません。しかし道徳的な心性は備わっている。宗教が人類に一般的な本能なのではなく、対象が仲間内という狭い範囲かもしれないが、道徳性こそが本能ではないか、と愚考します。
ともかく、たいへん知的刺激に満ちた本でした。
(わが家で 2017年11月8日)