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魔人の鉞

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松本清張氏のヤマタイ国論 に目からウロコ!!

2020-05-26 20:27:41 | 邪馬台国

推理作家松本清張氏の、「吉野ヶ里と邪馬台国」 1993年、日本放送出版協会。

少し古い本なのでどうかと思いつつ読み進みましたが、少しも古くないのに驚きました。いくつが印象に残ったところをピックアップします。

まず、里程問題。氏は1万2千里は長安から絶遠という観念的里数だとします。漢の都護府管轄下の楼蘭、干蘭などは1万里以下。管轄外の諸国はみな1万⒉千里内外で、特にカシミールのケイヒン国とウヨクサンリ国はともに万2千2百里となっているが、ウヨクサンリ国が倍も遠い、とします。(93p) その他傍証は色々あります。それですから邪馬台国まで1万千里として、倭人伝の記事から理数を計算してもあまり意味がない、とします。(もちろん、長里や短里という話も同様です。)

「一大率」は魏・帯方郡が伊都国に置いた官職「女王国以北」の7国を監察する。「女王国以北」の7国は帯方郡の属国ではないが監督下にあり、女王国とは立場が違っていた、とします。一大率は「皆 津に臨んで捜露し」、女王の使者や郡使の文書・物品を女王や各所に差配する、強力な権限を持っています。(182-183p)  一般には一大率は卑弥呼が任命したと考えていますが、卑弥呼の一官吏が上記のような広範な権限を持つことは考えにくい。卑弥呼は共立された名目的な女王で、強力な武力を持たないはずなので、その官吏である一大率を諸国が「刺史の様に忌憚す」ることはあり得ない、というのも納得できます。

卑弥呼の塚 径百余歩。この百を実数として、巨大な墳墓を探して箸墓に比定したりしていますが、これも 「多数」 の代名詞にすぎないとします。(238p) 銅鏡百枚、百余人など皆同様と論じます。そうとすれば卑弥呼の墓はもっと小さい可能性が高い。

邪馬台国への途中の描写や都の様子が具体性に欠けるということも書いています。(185p)  侍女千人などあり得ず、陳寿の観念であろう、としています。

伊都国は 「世々王あるも、みな女王国に統属す」と読んでいますが、松本氏は伊都国が女王国を「統属」統率してきた、と読めないか、と提案しています。(189p)  「統属」は自動詞か他動詞か? (中国語としてはどちらにも読めるようです。) もし清張流なら意味は全く反対になります。世々王がいて、王墓の副葬品は素晴らしく豪華で、たいへん繁栄していたと思われる伊都国ですから、共立されただけの女王国が伊都国を統属してきたというより、ずっと分かりやすくなります。卑弥呼が立つ以前の 「女王国」 は倭を代表する大国ではなかったはず。

これまでの邪馬台国論争をばっさり切って捨てる、松本清張氏の快刀乱麻。このような議論には、原典を勝手に書き換えてはならない、という史学者の反論が浮かぶのですが、論理的に納得できる方が重要でしょう。清張氏の立論は明晰です。もう一度見直してみる必要を感じます。

 

 

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邪馬台国問題はこれで解決した?!

2020-02-16 09:08:32 | 邪馬台国

「邪馬台国の全解決」 孫栄健著、言視舎 2018年。

著者は肩書がありませんが、中国史書に関する該博な知識はただ者ではないようです。そして、魏志倭人伝は「春秋の筆法」をもって解読すべきで、具体的には陳寿と同時代の范曄の「後漢書」と魏志の後を継ぐ唐の房玄齢の「晋書」が三国志をどう解釈したかが、「春秋の筆法」を受け継ぐ「魏志の筆法」を理解する指針となるとします。これは十分に説得力があります。

晋書では、魏時代の30国の総戸数を7万としている。この7万は魏志でいう邪馬台国の戸数のはず。つまり唐の房玄齢らは「魏志を大和論者のようには読まなかった」(102p) とします。これは意外で重大な指摘であり、これまでそういう論議は見たことがありませんでした。

里程問題については、「露布の原理」で10倍表示になっているとします。「魏志十一巻国淵伝に破賊文書は旧一を以て十となす」と述べられている」そうです。国淵将軍は反乱を鎮圧したとき、反乱を国の恥と考え実数をもってするという異例の報告をしたが、曹操はそれを賞したそうです。(147p) 10倍報告は普通の慣行ですが、東夷伝では韓と倭だけに適用されているとします。そもそも郡から狗邪韓国まで 7000余里とあるわけですが、晋の里程で1里434mとすると 3000km以上になります。また女王国まで 12000里は 5200km。到底あり得ない数字です。これは一部の論者が12000里というのは遠絶の地という意味で数字ではない、というような解説をしてきましたが、それよりも孫氏の説明のほうがずっと説得力があります。

そして古田武彦氏と近い考え方ですが、総1万2千里で、里程が明記されている不弥国までの合計が1万600里、足りない1400里は 「対馬南島」 の周旋400里の縦横、壱岐の周旋300里の縦横を足すとぴったり、とします。そしてその実数は、露布の原理で10分の一の1200里、520kmほどということになります。ほぼ北九州あたりになります。

水行陸行について。陸行については魏志明帝紀景初2年条に司馬懿が遼東征伐の行程4000里を「往くに100日、還るに100日」と表現していて、1日40里。水行は、時代は下るが「唐六典」に陸行50日、河日150日とあって陸行の3倍なので、魏時代の水行を120里と推定する。すると、倭人伝の陸行1月は40×30=1200里、水行10日は120×10=1200里となり、ぴったり一致する (164p)。水行陸行は郡からの総里程を水行または陸行で単純計算したものだと考えると、なんの矛盾もない、とします。これは驚異的な説明ですが、きわめて論理的です。ただし、投馬国がなぜあの場所に書かれるのか、いまひとつ明瞭ではありません。そして

邪馬台国は北部九州30国の総称。

以北などの「以」はその場所を含む。

奴国が最南端で、女王の都する所。

伊都国王が卑弥呼を佐治する男弟で、イコール難升米である。(難升米が詔書・黄憧を直接拝仮している。)

親魏倭王に下した詔書の作者は司馬懿だったか?

司馬懿関係の文書が「露布の原理」で書かれていたら、とても直すことはできない。

などなど、たいへん刺激的な推論が続きます。しかしそれぞれに驚くほど該博な知識の根拠があり、単なるあてずっぽうではありません。そして極めつけは天孫降臨の場所。それは伊都国近郊の高祖山とします (336p)。孫氏は古田武彦氏の論を引用しておらず、「この高い山をクシフルタケと呼んだ可能性は、さて、あるか。」と書いていて、クシフルタケという地名があったという古田氏の指摘を知らないようですが。

たいへん合理的な解釈で、知的刺激を受ける本でした。

 

 

 

 

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卑弥呼の墓・径100余歩は墓域全体のサイズ?

2020-01-31 21:34:15 | 邪馬台国

卑弥呼の墓について、邪馬台国九州派の論客安本氏の新刊「卑弥呼の墓はすでに発掘されている!!」 安本美典著、勉誠出版 2017年。

安本氏は話題の箸墓が卑弥呼の墓でないことを多角的に論証しています。

まず年代が違うこと。崇神天皇の没年を古事記の没年干支・戊寅で258年とするか、318年とするかについて、日本と世界の王者の平均在位年数をみると、古代はほぼ10年、仁徳~用明の15代16年間の平均は10.67年。3代後の成務の没年・乙卯を355年とすれば、258年はあり得ない (23p)。したがって卑弥呼に擬せられる箸墓のヤマトトトヒモモソヒメとは合わない。

箸墓の遺物の放射性炭素年代では、箸墓より古いとみられるホケノ山古墳の小枝の分析では、4世紀のものである確率が70-80% だということです (131p)。

そしてなんといっても問題になっている、卑弥呼の墓のサイズ。径100余歩で直径140mの大型円墳というのが一般的な理解ですが、これについて安本氏は画期的な新解釈を施しました。「兆域」、つまり墓域全体ととらえたのです。兆域は陵そのものよりも著しく大きな場合があるとします (142p)。これは実に意外なアイディアでした。魏志倭人伝は 「大作冢」、大いに冢を作るとあって、「作大冢」 大きな冢を作る、とは言っていないわけです (143p)。箸墓は前方後円墳という特殊な形態で円墳ではなく、全体の大きさも300m級ですから、まったく当てはまりません。

安本氏は、都と墓所は別でもおかしくないとし、たとえば平原 (伊都国) 王墓を想定できる、ということのようです。同墓は全国最大46.5cmもの内行花文鏡5面のほか漢鏡など、質・量ともに圧倒的な副葬品を誇ります。断定はしていませんが、もう見つかっているのではないか、とします。

墓のサイズ、年代、副葬品、いろいろな状況から、卑弥呼の墓が北九州にあるのはほとんど確実でしょう。

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三角縁神獣鏡は 卑弥呼の鏡ではない

2020-01-18 08:32:11 | 邪馬台国

少し古い本ですが、「古代を考える 邪馬台国」平野邦雄編、吉川弘文館、1998年。

この中に三角縁神獣鏡の製作地について、笠野毅氏が「六、考古学から見た邪馬台国 (二) 三角縁神獣鏡は語る」で諸説を丁寧に分析しています。呉工人来日説もきちんと紹介されています。中国製説にも一理あるのですが、なぜ尚方=官営工房作という銘がある鏡がごく稀で陳氏の銘が多いのか、について笠野氏は、陳氏が尚方所属の工人だった、という説を唱えています (161p) 。しかしそういう例があるとしても、官営工房作なのに個人銘だらけ、というのはにわかに信じられません。

魏皇帝の下賜品ではなさそうだ、という根拠は幾つもあります。

① 品物がわりと粗末で、優品ではない。

笠野氏自身が 「通有の中国鏡と比較すれば、いたって粗製である」 (146p) というほどです。魏の天子が金印紫綬を授与する相手に下賜する品物とは思えません。到底あり得ないでしょう。水野敏典氏によると、三角縁神獣鏡は同范・同型技法を併用しており、それは 「多少のキズは度外視したうえで、鋳型の数を最小限にして最大の枚数を制作するのに適した技法である」 とのことです。大半は模造品で、いわば粗製乱造です。

 (「邪馬台国」洋泉社編集部 2015年所収、「三角縁神獣鏡を科学する」 (水野敏典、222p)

② 尚方=官営工房作という銘がある鏡がごく稀である。 (上記)

陳氏などの作者が尚方に所属していた、という説は明白な証拠がなく、やや苦し紛れで、にわかに信じがたい。個人銘は天子の下賜品にふさわしい感じがしません。

③ 中国で三角縁の鏡はまったく出土していない。

それで全くの特注だったという説があり、当時作られていない型式の鏡をわざわざ特別誂えで作ったというのです。1回限りで、その後も作られなかったわけです。しかし器物制作は技術の継承があるはずで、前後の時代に類似のものがまったくないというのはおかしい。魏は薄葬令が出ていて、石碑建立や副葬品をしなかった (154p) といいますが、その時期はたった30年間ほどです。三角縁の鏡が盛行していれば、その前後の時代で発掘されるでしょう。

④ 特別誂えの下賜品が安物だった、などということは信じられない。

⑤ 三角縁神獣鏡は100枚どころか、700枚以上知られている。

未発掘のものを考えれば数千枚も存在していたと考えられ、あまり有難味がない。一時の流行商品のようなものかもしれません。

⑥ 三角縁神獣鏡は大事に扱われていない。

葬式の花輪のような感じで、「三角縁神獣鏡はみな棺の外に置かれていて、棺の中にあるのは間違いない中国製の鏡」 だそうです。服属の証に下賜した威信財などというものではないようです。

 (「卑弥呼と神武が明かす古代」 内倉武久、ミネルヴァ書房 2007年。)

 

こうしたところから、三角縁神獣鏡が卑弥呼がもらった鏡だという説はほとんど誤りだと思います。しかし今では前方後円墳と三角縁神獣鏡がセットになって、ヤマト政権の威信を象徴するということになっています。キズがある鏡をキズがあるままに複製して、どうしてそれが威信財になるのか、ちっともわかりません。どうも学会というのは恐ろしいものです。素人の疑問にさえ答えられない説が通説になってしまうのです。

 

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邪馬台国論争に決定打? 野上氏仮説

2019-12-16 21:10:32 | 邪馬台国

「魏志倭人伝・卑弥呼・日本書紀をつなぐ糸」 野上道男著、古今書院、2012年。

著者は都立大学、日本大学教授を歴任した地理学の専門家です。歴史には門外漢と自称していますが、まさに地理学的問題となっている魏志倭人伝の解析に、専門知識がおおいに役立っていると感じます。しかし大変読みづらい本ですので、まとめを書いている 「第21章 おわりに」(289p~) から読むのがいいかもしれません。

説得力のある仮説がたくさん提示されていますが、歴史学会ではほぼ無視しているようです。しかし、真実はいつか明らかになるでしょう。仮説を立て、可能性を検証していくことが学問の神髄です。

 

◆ 来倭ルートの革命的考察

何といっても驚いたのは、陳寿が魏使の来倭ルートの帰路を往路と書き替えた、という想定です。

① 壱岐島から北部九州に渡るのに、わざわざ南南東方向の唐津 (想定の松廬) に来るのは道理に反するとします。西から東に海流が流れ、もし夏であれば南東風、それ以外の季節なら北西風が優勢なわけです。どちらにせよわざわざ南方向の唐津を目指すのは潮流と風に逆らうことで、不合理だとします。

② これは本にはありませんが、なぜわざわざ流れに逆らって西寄りの唐津に上陸して、それから 「行くに先人を見ず」 というような草深い山道を東方へ数十キロも歩いて伊都・博多方面へ行かなければならないのか? 魏の皇帝からの下賜品も大量に携えているわけですから、まったく不合理なことです。来倭には流れに乗って福岡周辺に到着すればなんの問題もないはず。これまでの諸氏は魏志倭人伝の記載を忠実に読んでいたのですが、私もどう考えていいか分かりませんでした。これを、往路も帰路も同じと考えて逆向きに書いてしまった 「海を知らない」 陳寿の誤りと考えれば理解できます。

帰りは福岡周辺からではなく、なるべく西の唐津あたりから船出するのが合理的です。そのために山道を西へたどるのは不思議ではありません。荷物も少なくなっているでしょう。豊臣秀吉が朝鮮侵攻の拠点とした名護屋城は唐津の北辺でした。

これは我田引水でしょうか? 不合理である根拠が2つあり、納得できるものですから、仮説として有力ではないでしょうか。

◆ 距離表記の短里は?

野上氏は、海路も陸路も移動中の移動距離は古代では全く測定不能なので、魏志倭人伝の距離表記は地標 (山頂など) 間の直線距離だとします。使者が自分で測定はしないでしょうから、案内する吏人に聞き取ったものでしょう。測定方法は、太陽高度または北極星高度などの天文観測によればよく、その技術は海の民にはあっただろう、としています。

魏志倭人伝の100里は、対馬と壱岐の地標間の1000里、対馬の方400里、倭地周旋5000里、魏志韓伝の方4000里など5つの数値を分析して、100里67km、1里670mとするとほとんど正確に妥当するとのことです。

これを短里説というようで、魏ではそのような単位は使われていなかったとされていますが、魏志倭人伝では実際にその単位を使って韓伝、倭人伝が記述されています。魏で使っていたかどうかではなく、他ならぬ魏志倭人伝で使っていることが確かなのですから、否定論者は、まず異論の余地のない対馬~壱岐を1000里とする魏志倭人伝の記事を否定する根拠を示すべきです。

◆ 方位は変則方位系?

野上氏は、魏志倭人伝に記載の方位は 「夏至の日の出の方角を東」 とする変則方位系が使われている、とします。証明はいろいろ専門的なのですが、仮説としては十分にあり得るでしょう。これだと東が30度ほど北に振れることになり、たとえば問題になる 「當に會稽東治之東に在り」 も北部九州を指すことになります。少なくとも、「南を東」 とする90度変換のような粗雑な論理よりもずっと説得力があります。

◆ 神武東征は2段階

氏は、神武東征は北九州 (倭国) 征服、奈良県地方征服、の2段階と考えられるとします。大胆な仮説です。そして、「日本」 からの遣隋使・遣唐使は倭国を日本の前身とは考えていなかった、と論じます。

◆ 邪馬台国は卑弥呼の出身地で、倭国の王都・伊都国に赴任したとします。これも歴史学会の異端説でしょう。

 

とにかく、たいへん刺激的な仮説が次々に提出されて、まばゆいほどです。そして、決して思い付きではなくしっかりした論拠・論理を背景にしていることがわかります。惜しいことに、随筆と言いながら専門的過ぎて読みづらい。

邪馬台国は関西ではありえないことが、距離表記の分析だけでもいっそう明確になっていると思います。関西説の皆さんは、魏志倭人伝の記事を無視して邪馬台国を論じる意味は何なのか、原点に立ち戻って考えてほしいものです。

 

 

 

 

 

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