在野の古代史家で九州王朝説を唱える、古田武彦氏。最近 氏の説に触れて、真摯な研究に感銘を受け、図書館で市の本を見つけたので借りてきました。
「君が代を深く考える」 古田武彦著、五月書房 2000年。
この本は君が代の国歌制定 (1999) について語るとともに、氏のいろいろな研究を自伝的に紹介した、ちょっとおもしろい構成の本です。そして、これまでの自分の常識が次々と覆されるので、ブログをまとめるまでに時間がかかりました。
まず「君が代」について。これは古今和歌集の巻7「賀哥 (歌)」の冒頭にその元歌がある。「君が代は」のかわりに「わがきみは」とあるところだけが違う。しかも、天皇に対する賀歌のはずなのに対象とする天皇名も詠み人も不明になっており、これはわざとそのようにしているのではないか、という疑問から始まって、著者は金印出土地 志賀島の志賀海神社の「山ほめ祭」にたどり着く。祭りの末尾に「君が代」とそっくり同じセリフが、祢宜によって歌われるのではなく地の語りとして「述べ」られるのだそうです。
そして「千代」は太宰府前の浜の名前で地名にも残っており (17p)、「さざれ石」は糸島郡にある古社には小石を集めて奉納した境内社があり、「いわほ」(岩穂) とは水無鍾乳洞の鍾乳石であり、「こけのむす」は糸島郡の桜谷 (若宮) 神社の祭神・苔牟須売神 (こけむすめのかみ) に当たる、とする (18-19p)。つまり九州王朝の筑紫の君を讃える歌である、とします。君が代が大和王朝ではなく九州王朝の王への賛歌だとすれば、相手の名も詠み人の名も書けないのは当然だと論じます。
一時は、岐阜県揖斐郡あたりに産するさざれ石が君が代の 「いわほ」 だとして喧伝され、川口グリーンセンターにも展示されていますが、古田氏はそれは現場の教師がいかに君が代の解説に苦労してきたか、その反映であるとしています (31p)。(氏自身も高校教師でした。) それがさざれ石でないことは、① とがった形状 (穂) をなしていない ② 細石とは当て字であり、細かい石ではなく神聖な石、ということである ③ 君が代は博多沿岸の人が歌ったものであり、岐阜県の堆積岩によって歌のイメージを形成したことはあり得ない とします。(30p) 古代の歌詠み人が、細石が長年の堆積作用で岩穂となる、などということをイメージできるものか、私も疑問です。
君が代が九州王朝の賀歌とは、本当ならとんでもないことです。世が世なら不敬罪で死罪になりかねないほどでしょう。しかしきちんと根拠を明示していますから、侮りがたいものがあります。君が代を歌っても天皇家を讃えるわけでないというなら、素晴らしいですね。
それから、古代行政区画名の「評」について論じた項では、701年をもって「評」が廃止され「郡」となったが、初期にもそのことの記事はなく、正倉院文書にも「評」はなく、万葉集にも「評」はない。きれいさっぱり消去されている。(114p) 古田氏は、「評」は南朝に冊封された倭国の制度名であり、白村江の敗戦後、唐に公認された国としてはその南朝の名称を忌んで消去した、と考えざるを得ないとします。倭の五王も同様です。(倭の五王は外国からの冊封を嫌って書かなかったという説がありますが、かの有名な「日出処天子」も書記には記事がありません。古田氏の言う九州王朝からの国書説も無視できません。)
さらに、日本書紀は北魏の正史「魏書」(陳寿の魏書ではない) に構成がたいへん似ているとします。「魏書」は ① 北魏の系譜を「黄帝」に始まるとして叙述 ② 鮮卑族の酋長時代から歴代をすべて〇〇皇帝という形で記載 ③ 太祖紀以降を 「人皇の巻」 に当てている とし、あまりにも酷似しているのに驚く、としています。(143p) 古田氏はこれを、北朝である大国・唐におもねる態度、「曲史阿世」の表れとし、それが書記全編のテーマだとまで言っています。
日本書紀にも手本があった、とすれば、奇想天外と思える構成・内容もなるほどです。お手本にいろいろな伝承や歴史の記憶を盛り込んで構成し、脚色し、邪魔なものは切り捨てたわけです。古田氏は本当に真摯な学究という感じの方です。まさに古田学というニックネームもなるほどという感じで、真実はいつか明らかになると思います。