魔人の鉞

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イスラームは救いようがない

2019-08-29 07:53:13 | 宗教

「イスラーム思想を読み解く」 松山洋平著、筑摩書房 2017年。

近年イスラーム解説本がだいぶ出ていますが、信者である方が多く、大方は護教的な解説です。この本はまずまず客観的な立場で書かれており、分かりやすい。
「ムスリムはなぜ過激派を破門しないのか」 イスラームには教会組織がないので、破門はできないそうです。また、心にアラーを信じるならムスリムであり、行いが間違っていたとしても、ムスリムに変わりはない、というのがイスラーム世界の共通認識だそうです。21p  したがって、原理主義のテロリスト過激派に対する批判も及び腰に見えてしまいます。86-88p 私もなぜ彼らに地獄に落ちるといわないのか不思議でしたが、そういうことはしてはならないのだそうです。

救済するかどうかはアラーの専権事項ですから、アラーの奴隷に過ぎない人間が他人を地獄に落とすよう祈るなど、怪しからんことなのでしょう。
スンナ派内の学派に穏健なアシュアリーとマートリーディの思弁神学派と、伝承主義とも呼ばれる「ハディーズの徒」の2つの陣営があり、「ハディーズの徒」からサラフ (教友) 主義、そこからさらにジハード主義が派生したそうです。この「ハディーズの徒」の潮流はイスラームの創成時代を理想とするもので、原理主義的な考え方です。
そして過激なジハード主義の考え方もすべて聖典に典拠を持つもので、解釈の違いに過ぎないということです。アメリカをイスラームへの侵略勢力とみなせば、その成人男性はすべて殺してもよい敵であり、非戦闘員という区分はイスラームには存在しません。女・子供・老人も、戦闘のためにやむを得ない場合は巻き添えにして構わない、ということが明記されています。また、ムハンマド在世中に行われたクライザ族の虐殺では、成人男性は皆殺し、女子供は奴隷にされたので、奴隷制も聖典上は公認のことです。

もっと悪いことには、著者は書いていませんが、多神教徒・無神論者は皆殺しにせよ、とも書かれています。それは当時の情勢に合わせて指示したものという解釈をする学者もいますが、1字1句改変が許されない聖典に書いてあるというのは、恐ろしいことです。ユダヤ教、キリスト教は経典の民と呼ばれてそれなりの扱いを受けるそうですが、あくまでも2級市民です。多神教の日本人など、イスラームの世の中になったら、何をされるかわかりません。

それに、この本では書いていませんが、イスラーム寄りの人たちは何かというと十字軍の蛮行を持ち出しますが、それは日本人が今になって蒙古襲来を声高に言い募ったら奇異であるとのと同じようなことです。日本は蒙古襲来の300年後に朝鮮出兵を行い、たいへんな惨禍を与えました。イスラーム帝国オスマン・トルコは千年王国といわれたキリスト教のビザンチン帝国を滅ぼし、バルカン半島を併呑し、ウィーンをも攻略する寸前まで行きました。その歴史をすっかり忘れて、ビザンチン帝国を滅ぼすより400年も前の十字軍をいまだに恨んでいる。馬鹿々々しいにもほどがあります。

イスラームでは、教義の根本的見直し=イジュディハード の動きがあるそうです。何人かの識者が論じているそうですが、どこまで変えられるでしょうか。誰がその権限なり権威をもっているのかさえ、意見は一致しません。アラブの春は無残に砕けました。トルコもイスラム教国に回帰しました。改革は簡単ではありません。アラーの奴隷から人間を解放する改革の殉教者が100人、200人と出てこなければ、難しいのではないでしょうか。

イスラームが団結することはまずありそうもない。仮に教義が一致しても各国の利害がバラバラです。イスラームの興隆時のような武力統一以外にまとまることはなく、武力統一はあり得ないでしょう。

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ギリシャ正教の 「多一神教」 論

2019-08-11 08:04:07 | 宗教

「ギリシャ正教 無限の神」 落合仁司著、 講談社 2001年。

著者は同支社大学経済学部教授ですが、専門は宗教学、数理神学です。
長谷川先生の、キリスト教と仏教の同質性とよく似た主張を展開していますが、論じ方はだいぶ違います。

「ギリシャ正教は、アジアの宗教であるイスラームや仏教に特徴的な考え方をも共有している。すなわち人間の救いは、人間が修行など自らの力によって自らを超え出て神や仏と一つになる、人間の神化あるいは成仏による外はないという考え方である。(中略) これはカトリックやプロテスタントには見られない特質である。ギリシャ正教はヨーロッパの宗教であると同時にアジアの宗教の特質をあわせ持っている。」12p
著者は、ギリシャ正教では三位一体ではなく、「神の一つの本質、異なる3つの位格 (実存)」 として 「三一論」 と呼んで、世界を超越する神がキリストや聖霊としてこの世に内在する矛盾を解決しているとします。さらに、聖霊は一人一人に固有な仕方で臨在するのですから、多数とも考えられる。つまり、「多一新教」 と呼ぶことができる。著者は、すべての宗教は多一神的であらざるを得ない、と論じます。 一神教と多神教の対立など問題にならないと論じます。90-91p

私はこれにちょっと疑問があります。ユダヤ教やイスラム教が、多一神教的であるとはどうも思えません。イスラムのスーフィズムはよく知りませんが、神と一体となることができるなどという教義がイスラムで一般的に支持されているとはとても思えない。ユダヤの神も絶対神ですが、どちらも一方的に人間に命令する神であり、人が神と一体となるなどという事を主張したら死罪でしょう。

そして、カントールの集合論の、「無限集合においては、部分は全体と一致する」という第一定理を神の活動に適用して 130p、人が「神の働き」と一致することができることを証明します。そしてその第二定理である、「無限集合の部分であるベキ集合の全体はもとの無限集合を超える」 を適用して、神の本質は「無限集合である神の働き」を超越する、と論じます 131p。

このカントールの第二定理は、私にはどうしても理解できない。全体 Aを部分 a,b,cに分けて、それを再集結して A’ (=a,b,c) にすると、A’ > A となるというわけです。それが数学的に証明され 177-178p、現代数学の基礎となっているというのですが・・・  
仮にそうなるとして、そのとき A’に増えた要素はどういう性質のものなのか、なに故に増えたのか、まったく説明がなく、理解できりません。イエスが 5000人の民衆に5つのパンと2匹の魚を分け与えて食べさせ、残りクズを集めるとカゴがいくつもいっぱいになった、という奇跡が4福音書に揃って書かれていますが、それは信仰の話です。こちらは数学。何が何ゆえに増えたのか、数式だけでなくだれか解説してくれたのでしょうか。

このように、内容に若干の不満があるものの、ギリシャ正教と仏教に共通する 「多一神教」 という考え方はたいへん興味深いものです。ちょうどお盆。宗教書をもっと読んでみます。

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「キリスト教と仏教の同質性」

2019-08-07 08:05:34 | 宗教

「キリスト教と仏教の同質性」 長谷川洋三 著、早稲田大学出版部 2000年。

著者は早稲田大学名誉教授で仏教・良寛研究者です。「イエスはユダヤ教より仏教に近い」を読んで、その元の本を取り寄せて読ませていただきました。

まったく新しいキリスト教学です。
まず、処女懐胎、十字架上の死、復活は事実ではなかった、という説の紹介。シドニー大学のバーバラ・スィーリング教授が死海文書をベシェルの技術によって解読した結論だそうです。
まず、当時は婚約期間中に妊娠した場合は処女懐胎として扱われたということ。(18p) マリアの場合はこれに当たります。(イエスの系図を載せている福音書もあり、このように理解したほうが納得しやすい。)
イエスは十字架上では死ななかった。刑ののち約40年間、イエスは指導者であり続けた。エフェソで最後に姿を見せたのはAD70年、イエスは76歳になっていた。(19p)
こうであれば「贖罪」も成立しなくなってしまいます。
しかし著者は、そのような前提がなくても、三位一体を新しく解釈しなおすことによって、救済の道を示すことができる、と言います。

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ伝 五・ 48)
この言葉によれば、イエスだけが神のひとり子ではないことになります。「すべての人間が天の父と同じほどに完全な者になりうることを意味します。それは天の父と一つになる三位一体方法以外にあり得ないはずです。」(22P)

ではこの天の父とはどんな神なのか。イエスはこう言っています。「人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし精霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。」(マタイ伝 十二・ 31) ここでは神と聖霊が別扱いになっていて、汚してもよい神とは聖霊を持たない神であり、聖霊と一体である「父なる神」とは違う神であることになります。

キリスト教はユダヤ教から生まれ、天地創造の唯一神は同一で、神はイスラエル民族を選んで契約を結び、のちにイエスを通じて新しい契約を結んだ、それで福音書などを新約聖書、ユダヤ教の聖典は旧約聖書として第二聖典として扱ってきたのがキリスト教の公式見解です。「旧約は、神による天地創造の話しから始まっていますが、人類全体についての話であって、イスラエル民族に関する記述ではありません。ところがアブラムの世代に入りますと、神は次第にイスラエル人を中心に据え、結局はイスラエル人とのみ契約を結びます。」(27p)
「天地創造神が果して本当にイスラエル民族だけの守護神になるということがあり得るのだろうかという素朴な疑問が浮かびます。」(28p)
天地創造神話は BC3000年ころのバビロニアの叙事詩「エヌマ・エリシュ」から拝借したものと言われ (28p)、そうであれば天地創造神とユダヤのヤハウェ神が別神である可能性が高くなる。ヤハウェという名は BC1230年ころのモーセの時代に初めて登場するそうです。

イエスの故郷「ガリラヤ地区は諸民族が住む地で」「ヘレニズムやオリエント宗教や仏教などが浸透していたインターナショナルな地区であったと考えられます。イエスは、そのようなガリラヤで自由な信仰者として成長し、エルサレムのパリサイ派などの競技に対して批判的であり、たとえば神についての別の概念を説くためにエルサレムに行かれたのかもしれないのです。」(35p)

「イエスはユダヤ教を必ずしも全面的に肯定する人物ではなく、異教の影響を多分に受けた人物であったように思われます。」(37p)
アショーカ王はBC3世紀には仏教の伝道師を中近東に派遣していたと言われ、イエスが属していたというエッセネ派の習慣や態度の多くが仏教徒と共通しているという見解があります。(38p)

著者はイエスが純粋ユダヤ教徒ではなかった証拠を上げています。
⓵ 安息日に病人を癒した。安息日に働くのはユダヤ教では厳禁されている。
⓶ イエスは自分を神の子とみなして神を「父なる神」と呼んだ。またチリから造られた被造物である人間に対して、前述の「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」などという、神人合一の考えを述べた。このようなことはユダヤ教では絶対にありえない。(39-40p)
⓷ そして、ここには上げてありませんが、これも前述の「人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。」などという事は、ユダヤ教の冒涜に他なりません。
⓸ 同じく、イエスはエルサレムの神殿に入っていって、商売をしている店などをメチャメチャに打ち壊しました。これも、敬虔なユダヤ教徒ならありえない所業です。

「すべての人間は聖霊が宿る神殿であるから、自分をあだやおろそかにしてはならない」「神は自分を離れてある存在ではなく、すべての人間に内在する存在である」というのがイエスの立場だ考えられる。(40p)
その見解に即して、三位一体を「仏の三身」的解釈で理解することで、「優れたアントロポロギー (人間学) への変換が可能となり、理性ある者ならだれであろうと肯定しうる三位一体論が成立すると考えるのです。」と著者は主張します。(41p)
イエスはヨセフとマリアから生まれた一人の人間ですが、「宇宙声明に内在する宇宙英知と高次元で一体化 (それを仏教では「入我我入」という) し得たとき、神仏にたとえ得るほどに優れた人となると考えられますが、それはすべての人間に可能性として与えられているとみます。」(42p)
イエスの言う、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉は、大乗仏教経典 (法華経・涅槃経など)に見られる 「一切衆生悉有仏性」 という見方と、たいへん近いものがあると思います。


この本からはまだまだいろいろと教えられました。福音書のなかではヨハネ伝がイエスの教えをもっとも詳細に論理的に書き表している、というのは意外でした。仏教ももっと勉強してみたいと思います。

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