魔人の鉞

時事、歴史、宗教など、社会通念を独断と偏見のマサカリでスッキリ解決!  検索は左窓から、1単語だけで。

私もシャルリー

2015-01-31 16:55:19 | 時事問題

イスラーム過激派によるフランスの週刊誌シャルリー・エブド誌襲撃事件に続いて、イスラム国による日本人人質事件が起こり、日本人人質2人目の後藤氏も殺害されたらしいという報道がありました。イスラーム過激派のやり方はほんとうにひどい。しかしシャルリー・エブド誌の風刺画はやりすぎではないか、とか、過激派と穏健なイスラームを同一視すべきではないといった意見が出てきています。しかし私はシャルリー誌を支持します。イスラームに限らず宗教を批判したり風刺したりすること自体が、冒涜になるのでしょうか。それでは真の信仰の自由さえも失われてしまいます。

思えばキリスト教の創始者イエスは、その当時のユダヤ教の律法絶対主義を否定し、神の愛による救済を提唱しました。それから約600年後、イスラームの創唱者ムハンマドはイエスを神の子とするキリスト教の教義を排撃し、神の像や絵画を偶像崇拝だとして否定し、また厳格な律法を復活させました。日本の鎌倉末期の宗教者たち、とくに親鸞は悪人正機説を唱え、苦行や金銭的施しで救済されるとする旧仏教を否定しました。16世紀に至ってルターは、教会の権威を否定し直接に神への信仰のみによって救済されると主張しました。こうしたことは相手からすれば冒涜そのものでしょうが、それは人間の信仰の自由、人として生きる自由を賭けた闘いでもあったはずです。

イスラームはけっして戦闘的ではない、過激な人はごく一部だといいますが、それは穏健な解釈をする人たちが王や多数派として権力を握っている時と場所においての話です。私は反イスラーム主義者ではありませんが、一般的にイスラーム社会は高度に全体主義的であり、個人よりも社会の安定を最重要視していると思います。政教一致のため権力者批判が困難であり、厳格に律法を重んじ、教会がないかわりに社会的束縛が厳しいので自由な信仰とはほど遠く、異教への改宗を公言すれば社会の安定を破壊するものとして死刑になりかねません。ムスリムから生まれた子は自動的にムスリムとされ、改宗が許されないので、個人として信仰を選択する自由はありません。多くの地域では女性には非イスラームとの結婚の自由はなく、つい20年ほど前に、イスラームを批判したイスラーム学者が背教者として妻との離婚を強要されたといいます。逆に男性は非イスラーム女性との結婚可能というのですからとても不平等です。女性は顔や肌を隠すことを強制され、マララ・ユスフザイさんが訴えるように教育も満足に受けられないイスラーム社会がたくさんあります。
イスラームには世界人類は平等だという教義があり、紀元600年ころとしてはたいへん優れている考え方ですが、今はイスラームに限らず人類平等は当然のこととされています。ただしイスラームにとっては神を信仰するかどうかが重要で、多神教などは軽蔑の対象です。もっともそれは宗教であれば仕方がないことかもしれません。それでも男女の平等は難しい課題です。イスラームでは前述の差別のほか、一夫多妻を許容し、殉教者は30人の処女にかしづかれる、などというのですから、男女平等など夢のまた夢。その処女たちの人権はどうなっているのか???
 
しかもムハンマドは最後の預言者で後に来るものはおらず、クルアーンは絶対で一字一句改変してはならないそうです。正式には翻訳もしてはいけないのです。シーア派、スンニ派の対立はどちらがムハンマドの跡を継ぐ正統かという、いわば跡目争いに過ぎません。ムハンマド死してすでに1,383年、それほど長い期間に大きな改革が行われたということを聞きませんから、イスラームの教義もそうとう硬直しているのかがわかります。外に対してはきわめて唯我独尊意識が強く、批判を許さない体質なので、自己改革が出来にくいのでしょう。しかしクルアーンの内容に相互矛盾する表現があるそうですし、現実社会に合わない面もいろいろ出て来るので、高位の宗教指導者たちが各自で適宜の解釈で良い悪いを判定しファトワ (宗教指令) を出すというのですから、まるで綱渡りです。いつまでそれでやっていけるのでしょう? そろそろ宗教改革が起きていい年数です。イスラームに限らず、宗教は人間性を厳しく束縛することが多いですが、もし現在のイスラームのあり方が必ずしもムハンマドが伝えた神の言葉に適合するものでないとすれば、ムスリム自身が改革を起こさなければなりません。教義を整理し、真理を明らかにし、イスラームのあり方を変える人物が出てこなければ、ムスリムは律法の束縛から抜け出すことができません。

ムハンマドが他宗教を批判したことも人間の自由と呼ぶべきもので、自らへの批判だけは許さない、というのはおかしいと思います。下品? な風刺も私の稚拙な批判も人間の大切な自由の一部です。シャルリー誌の風刺画を宗教への冒涜だとして人間の自由を封殺することは自己矛盾であり間違っています。
       (わが家で   2015年1月31日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする