魔人の鉞

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明治維新の3つの謎

2014-11-22 16:56:12 | 日本史

明治維新について勉強し直したいと思って、歴史学者の1冊。
「明治維新を考える」 (三谷博、有志舎、2006年)。

東京大学大学院 総合文化研究科教授である著者は、明治維新に3つの謎があるとします。
第一、武士の社会的自殺。 武士身分の消滅に抵抗しなかったこと。(序3p)
第二、原因の不在。近世の政治体制の否定や、王政復古の主張は維新以前にはほとんど
見られない。諸外国の開国要求は内政の変革を求めていない。(序7p)
第三、復古による開化。「神武創業の初めに原づい」て行うと宣言した改革が西洋をモデル
とした「文明開化」となったこと。(序11p)

維新で行なわれた支配身分の権利剥奪と再分配は、「世界的にもめったに見られず、日本
でも二度とおこるとは思われないほどの規模であった。近代日本のダイナミズムを引き
だしたのが、この権利変革であったことはいう間でもなく、その観点からは、武士身分の
解体は王政復古よりずっと重要な変化であったと言わねばならない。」 
この意味で維新は、フランス革命やロシア革命や中国革命に劣らない、近代世界における、
もっとも大規模で代表的な革命であった、とします。(38p)

しかし「なぜそれが発生し、成功したのかを、尊王運動家の自己犠牲や公平無私、同時代
日本人の従順さや物わかりの良さ、はては日本人の優秀さに求めるわけにもゆかない」。
として著者は、「複雑系」の理論を適用したらどうかと試案を提出します。複雑系の研究は
「システムを、建物のような静的な構造物として見るのではなく、また動きはあっても常に
一定の均衡を維持するようなものとして見るのでもなく、絶えず変化を続けるものとして、
しかし完全に無秩序でもないものとして見るのである。」 
そしてその洞察は、
(1) 巨大な変化を理解するのに、包括的な因果法則を持ち出す必要はない。
(2) 小さな変化が巨大な変化を引き起こす可能性がある。 
(3) 過程そのものが新しい規則と秩序を生成する ことを示しているそうです。
「このような洞察は、明確な反体制勢力もイデオロギーも出発点においては存在しなかった、
にもかかわらず巨大な変化が発生した」という維新史の特徴に「極めて適合的」だとします。
(41-42p)

主役が次々と入れ替わり、政争と策略に明け暮れ、思想も変化を続け、一貫性が無いようにも
見えながら巨大な変革を成し遂げた明治維新を普遍的に理解するには、たいへん興味深い
考え方です。しかし私には難しすぎ、とても解説は出来ないので、本書を読んでもらうほか
ありません。

なお、東大教授であり穏健な歴史学者である著者が近年の右翼ナショナリズムについて次の
ように語っていることにも感銘を受けました。
『「国益」は時代とともに変化する。近代西洋が設定した「主権」万能ルールを日本が東
アジアに広めた19世紀後半には、「他」の「種族」、「他」の「国民」の犠牲において
「自」「国民」の利益を追求することが正当視された。 (中略) しかし、21世紀の現在
は同じであろうか。 (中略) 日本の「国益」は帝国時代に戻ることはない。国の利益も
名誉もむしろ世界の将来のため、どのようなアジェンダを提起できるかにかかっている。
(中略) 外国をすべて潜在的な敵と見なし、国内向けに自己憐憫の物語のみを語ろうと
する行為は、その志の低さを措くとしても、「国益」を損なう自殺行為と言うほかはない。』 
(132-133p)
日本の朝鮮に対する『植民地支配初期に続けられた義兵闘争が示すように、日本と同様に
長い歴史を持つ朝鮮人にとって亡国は大いなる屈辱であり、帝国日本の支配はアメリカの
(日本) 占領に比べてはるかに過酷であった。日本の投資が経済成長の基盤になったとして
も、それは決して恩恵と見なせるようなものではなかったのである。』 (138p)

『日中戦争にしても、大局が大事である。日中戦争というが、中国軍が日本に来て戦った
という事実は聞いたことがない。日本軍が中国大陸に上陸して戦ったのである。 (中略)
8年という長期間、 (中略) 軍隊だけでなく、庶民も当事者となり、戦火と徴発、そして
しばしば殺戮とレイプにさらされたのである。 (中略) 私にとって、このような史実は
愉快なものではない。しかし、誰がこの大局的構造を否定できるだろうか。』 (139p)

『南京アトロシティズに関しては、しばしば日本軍による殺害者の数字が論争されてきた。
(中略) しかし、この深刻な加害行為において数字が本当に大事なのだろうか。アメリカ
の独立運動史にボストン大虐殺という事件がある。小学校の教科書に書かれているほど有名
な事件であるが、その数は5人である。しかし、なぜ大虐殺といまなお呼ばれるのだろうか。
イギリス支配の過酷さや不当性を強調し、人々が独立に奮い立った経過を理解しやすくする
ためである。 (中略) 日本のナショナリスト歴史家が小さな死者数を提示すると、中国人
は憤激するが、それはこの行為の背後に加害責任の隠蔽・逃亡の意図を見るからである。
(中略) 日本人が「南京大虐殺はなかった」というと、「日本は中国を侵略しなかった」と
聞こえるのである。』 (157p)

安倍総理は「侵略の定義は定まっていない」と言いました。大局を見ていないと言われても
仕方がないでしょう。教えられることの多い書物です。
        (わが家で  2014年11月22日)

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司馬史観を卒業したい

2014-11-20 16:57:16 | 日本史
日本国内で高い人気を持つ司馬史観を冷静に批判した1冊、「司馬遼太郎の歴史観」 (中塚明、
高文研、2009年)。

司馬氏は、明治の日本は良かったが昭和になって驕り、道を踏みはずした、と考えています。
「(日露戦争では) 日本は (中略) 前代未聞なほどに戦時国際法の忠実な遵奉者として終始し、
戦場として借りている中国側への配慮を十分にし、中国人の土地財産をおかすことなく、さら
にはロシアの捕虜に対しては国家をあげて優遇した。」 (38p~「坂の上の雲」 文春文庫七 207-208p)

しかしすでに日清戦争の時、わが日本は国際法もなにも無視した作戦を平然と行っていました。
清国との開戦の2日前に朝鮮王宮を制圧し、清国軍を追い出すことを国王の要請と見せかけて開戦
の名分にしたのでした。(90-92P)
著者はその事情を詳細に記した 「明治二七八年日清戦史 第二冊 決定草案」 というものが福島
県立図書館に所蔵されているのを発見したそうです。これは公刊戦史とは似ても似つかず、日本が
何が何でも開戦の名目を作ろうとしたことをあからさまに証明しているとのことです。(98-99P)

そして日露戦争にあたっては、韓国政府の中立宣言を無視し、旅順への奇襲攻撃の2日前にソウルを
軍事占領しました。対露宣戦布告は、旅順への奇襲攻撃のさらに2日後です。(宣戦は当時必ずしも
ルールになっていませんでしたが。) 捕虜虐待・虐殺は樺太で実例があります。

その日露戦争の戦史についても、大山巌参謀総長名で 「日露戦史編纂要領」 という文書が出され、
日本にとって不都合なもの、以後も敵に知られたくない軍事機密に当たるものは書かないよう指示
されました。(140-147P) 司馬氏が日本軍の愚行の始まりと非難する、でたらめな公刊 「日露戦史」
は、こうしてつくられたわけですが、それは日清戦史に先例があるわけです。

何よりも重要なことは、司馬氏が、日清日露の戦争目的が最初から朝鮮の植民地化であり、その
独立や日本の自衛は名目にすぎなかったということを示す数々の歴史的事実を意図的に無視して
いることです。だから、「(韓国) 併合という愚劣なことが日露戦争のあとに起こるわけです」
などというピントはずれな言葉が出てくるのです。(司馬 「昭和という国家」 NHK出版、
1998年、37p) 
氏は日清戦争時の不法な王宮制圧や、その翌年の聞くもおぞましい閔妃虐殺事件、また日露戦争時
の違法なソウル占領などを書いていませんし、朝鮮民衆の反日蜂起などはまるで無視しています。
司馬氏がこれらを知らないはずがありません。
朝鮮や中国の民衆にあたえた被害・迫害について無知であり、彼らに蔑視感を持っていること、
それは日本人全体の弱点ですが、司馬氏の無知と蔑視は影響力が大きいので特に注意が必要です。

明治維新と日露戦争勝利が世界の被圧迫民族に希望を与えた世界史的事業だったことは誇りで
あり、明治は良かったというのは耳に心地よい。しかしそれは初めから周辺諸国民への差別・
蔑視を含むナショナリズムとともにあったことは確かです。明治は良かったが、昭和が間違った、
というような断絶論は誤りだし、そこからは何の反省も未来への展望も生まれないのではないか
と思います。
「坂の上の雲」 はあくまでも心地よいストーリーの小説に過ぎない。歴史書として祭り上げては
日本人のためにならないでしょう。
        (わが家で  2014年11月20日)
 
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