今日は仏教書、大乗仏教入門 (竹村牧男、平成15年)。平易な入門書です。
大乗仏教は部派仏教への批判の中から、仏陀の衆生救済・慈悲と涅槃の教えの根本に帰り、
教理を発展させたものとして生まれたそうです。乱暴ですが以下私なりにまとめてみました。
○ 般若心経でいう空、また諸法無我とは、森羅万象は一切が空であり、本質がない。だからこそ
縁起によって事物が生起する。色即是空だからこそ空即是色であり、諸行無常である。
○ 大乗仏教の基本理念である唯識論では人の認識によって万物が存する。認識がなければ一切が
存在しない。(岸根卓郎氏の 「月も見る人がいなければ存在しない」 というのは唯識に通じて
いたわけです。)
○ 衆生には如来蔵、つまり如来の素質が備わっている。「一切衆生悉有仏性」 ともいう。
華厳経に、如来が衆生には如来蔵があるのを発見して自ら 「奇なる哉、奇なる哉」 と感嘆した
という。(身分・人種差別当たり前の古代にあって、全く驚くべき着想です。)
○ 万物は輪廻する。輪廻は必ずしも悪ではなく、ブッダは前世からの徳行があってこそ仏となった。
○ 涅槃というと悟りきった安楽な境地と思われがちだが、そこから衆生の救済活動へ進むのが
菩薩であり、涅槃に安住しないのである。
○ 菩薩は三阿僧祇劫の修業を経て仏となるとされる。阿僧祇劫 (あそうぎこう) とは800里四方の岩
を天の時間で3年に1度 (人の時間では3千年に1度とか) 柔らかい布で撫でてその岩が磨滅する
時間ということで、それが3回だからほとんど永遠の時間がかかる。(思うに、それでは宇宙が誕生
する前からの修業の積み重ねが必要になってしまいますが・・・)
これでは修業しても仏になれるかどうかいつまでたっても分からない。それで初発心時便成正覚、
つまり最初の発心の時にもう仏となることが約束される、発心すなわち正覚、という考え方が生ま
れた。(これがさらに進んで、念仏だけで往生できる、という信仰になっていくのでしょう。)
○ 修業は六波羅蜜、十善戒など、凡夫には難しいことが少なくない。そこで諸仏の 「本願」 に頼って
救いを得るという信仰が生まれた。阿弥陀仏の本願を頼むのが浄土宗・真宗になる。(救いたければ
黙って救えばいい、という 「マインド・コントロール」 の岡田尊司氏の疑問に応えるような信仰です。)
以上、感じた所をまとめてみました。
唯識論は徹底した唯心論で、私はそうした論理に納得できません。また輪廻は古代インドの基本思想で、
ケルト人もよく似たものを持っているようですが、それは人間を含む森羅万象を理解する捉え方の一つで、
証明することができません。だから信仰だ、といえばそうですが、輪廻だけでは人が生きる指針とはなり
得ないでしょう。
如来蔵、つまり 「一切衆生悉有仏性」 が大乗仏教の核心ではないでしょうか。それを科学的に証明する
ことはできないが、そのことを信じ、その仏性を実現することが涅槃でしょう。すべての人は信仰の前に
平等であり、自らの仏性を実現するために努める。涅槃に至った仏はそれを助ける。
こんなことを言うと怒られそうですが、衆生救済に努める諸仏の本願、空の理論や輪廻や地獄も、その
「方便」 にすぎないのではないでしょうか。
大乗仏教はたいへん知的ですが、やはり信仰が必要です。それは一神教的な神が提示した選択の余地
のない契約ではなく、自らが選び取るものです。だから素晴らしいと私は思います。
それにしてもほんとに不思議ですね。一神教の契約は一方的に神から出される条件で、交渉が許され
ません。契約でいうと、独占企業がつくった定型契約書で変更が認められない、とうような感じです。
(わが家で 2014年1月31日)
今日は仏教書、大乗仏教入門 (竹村牧男、平成15年)。平易な入門書です。
大乗仏教は部派仏教への批判の中から、仏陀の衆生救済・慈悲と涅槃の教えの根本に帰り、
教理を発展させたものとして生まれたそうです。乱暴ですが以下私なりにまとめてみました。
○ 般若心経でいう空、また諸法無我とは、森羅万象は一切が空であり、本質がない。だからこそ
縁起によって事物が生起する。色即是空だからこそ空即是色であり、諸行無常である。
○ 大乗仏教の基本理念である唯識論では人の認識によって万物が存する。認識がなければ一切が
存在しない。(岸根卓郎氏の 「月も見る人がいなければ存在しない」 というのは唯識に通じて
いたわけです。)
○ 衆生には如来蔵、つまり如来の素質が備わっている。「一切衆生悉有仏性」 ともいう。
華厳経に、如来が衆生には如来蔵があるのを発見して自ら 「奇なる哉、奇なる哉」 と感嘆した
という。(身分・人種差別当たり前の古代にあって、全く驚くべき着想です。)
○ 万物は輪廻する。輪廻は必ずしも悪ではなく、ブッダは前世からの徳行があってこそ仏となった。
○ 涅槃というと悟りきった安楽な境地と思われがちだが、そこから衆生の救済活動へ進むのが
菩薩であり、涅槃に安住しないのである。
○ 菩薩は三阿僧祇劫の修業を経て仏となるとされる。阿僧祇劫 (あそうぎこう) とは800里四方の岩
を天の時間で3年に1度 (人の時間では3千年に1度とか) 柔らかい布で撫でてその岩が磨滅する
時間ということで、それが3回だからほとんど永遠の時間がかかる。(思うに、それでは宇宙が誕生
する前からの修業の積み重ねが必要になってしまいますが・・・)
これでは修業しても仏になれるかどうかいつまでたっても分からない。それで初発心時便成正覚、
つまり最初の発心の時にもう仏となることが約束される、発心すなわち正覚、という考え方が生ま
れた。(これがさらに進んで、念仏だけで往生できる、という信仰になっていくのでしょう。)
○ 修業は六波羅蜜、十善戒など、凡夫には難しいことが少なくない。そこで諸仏の 「本願」 に頼って
救いを得るという信仰が生まれた。阿弥陀仏の本願を頼むのが浄土宗・真宗になる。(救いたければ
黙って救えばいい、という 「マインド・コントロール」 の岡田尊司氏の疑問に応えるような信仰です。)
以上、感じた所をまとめてみました。
唯識論は徹底した唯心論で、私はそうした論理に納得できません。また輪廻は古代インドの基本思想で、
ケルト人もよく似たものを持っているようですが、それは人間を含む森羅万象を理解する捉え方の一つで、
証明することができません。だから信仰だ、といえばそうですが、輪廻だけでは人が生きる指針とはなり
得ないでしょう。
如来蔵、つまり 「一切衆生悉有仏性」 が大乗仏教の核心ではないでしょうか。それを科学的に証明する
ことはできないが、そのことを信じ、その仏性を実現することが涅槃でしょう。すべての人は信仰の前に
平等であり、自らの仏性を実現するために努める。涅槃に至った仏はそれを助ける。
こんなことを言うと怒られそうですが、衆生救済に努める諸仏の本願、空の理論や輪廻や地獄も、その
「方便」 にすぎないのではないでしょうか。
大乗仏教はたいへん知的ですが、やはり信仰が必要です。それは一神教的な神が提示した選択の余地
のない契約ではなく、自らが選び取るものです。だから素晴らしいと私は思います。
それにしてもほんとに不思議ですね。一神教の契約は一方的に神から出される条件で、交渉が許され
ません。契約でいうと、独占企業がつくった定型契約書で変更が認められない、とうような感じです。
(わが家で 2014年1月31日)
禅のの大家鈴木大拙氏の「大乗仏教概論」 (1907初版刊行、2004年佐々木寛訳)。
これはアメリカ滞在中の大拙氏37歳が、キリスト教社会の大乗仏教に対する誤解と
宗教ではないという批判に対して反駁し、大乗仏教の精神を解説したデビュー作で、
もちろん英文で書かれていました。
キリスト教に対してはかなり批判的で、理性的にしかし情熱的に大乗仏教の教理を
説いています。しかし解説によると、ベルギーの仏教研究の大家ブサン氏がインドの
大乗仏教との大きな違いを指摘して批判すると、大拙氏はこの本を未熟として再版
や日本語訳を許可しなかったそうです。
解説の佐々木氏は、大乗仏教全体の概説としては失敗だが、大拙氏の新しい独自な
仏教経典として見ることができるのではないか、と言っています。
だいぶ読み進んだのですが、私にはかなり難解なので、この本はまた後で読むこと
にしました。
(わが家で 2014年1月28日)
宗教に関係ありそうな本として選んだ「マインド・コントロール」 (岡田尊司、2012)。
オウム事件の時にたいへん話題になったマインド・コントロールですが、そんなこと
が簡単にできるのだろうか、とずっと不審に思っていました。あらためてこの本を読ん
で、人は実に操られやすいもので、甘く考えてはいけないことがわかりました。
宗教はカルト的マインド・コントロールと紙一重のところがあると改めて感じます。
その違いは本人の主体的な判断を許容するかどうか。それがなければカトリックなど
既成宗教もカルトと違わない。中世までのキリスト教はカルトだったと言ってもいい
かもしれません。大乗仏教はカルトとはもっとも遠い宗教でしょう。
マインド・コントロールの技術は古代からありましたが、現代になって急速に進歩した
のだそうです。たいへん内容豊富なのですが、私なりにまとめてみました。
1.原初的な方法
*心の中に隠れた野心や欲望、恐れや憎しみを利用して、暗示し仄めかすことで
それを煽る (ブルータス、マクベス)
*振りをする (マキャベリの、君主の心得)
*恐怖による支配 (マキャベリによる、ハンニバル評)
2.精神治療術としての催眠法・暗示療法
①.18世紀、ウィーンのメスメル
②.パリのシャルコーやジャネ
③.フランスのナンシー学派のベルネーム=暗示療法の発見
④.ナンシー学派のクーエ=暗示療法の発展
3.フロイトの精神分析法
4.天才エリクソン
ダブルバインド法 (することを前提とした質問法)
イエス・セット法 (つねにイエスと言わせる質問法) など
これらは現代のセールス教本などに応用されています。
5.革命ロシアでの洗脳技術の開発
6.アメリカCIAの洗脳技術の発展 (ヘブ博士による感覚遮断法の発見)
7.カナダのキャメロン博士による脳通電法の開発とその批判
8.現在のマインド・コントロール技法
①.情報入力の遮断・または過剰
完全に孤独で外部からの情報も感覚刺激さえも遮断する感覚遮断状態に置かれる
と、どんな情報でもそれをインプットしたくなるという。カルト教団でよく使わ
れる手法。
逆に、常に録音テープや音楽がかかっている情報過剰状態に置き、脳の判断能力
をオーバーさせることでコントロールする手法。
②.脳を慢性疲労状態にする
疲労困憊・不眠・低栄養状態などによって正常な判断能力を奪う。単調な作業や
予測不能な指示の乱発あるいは放置、といったストレスを負荷する方法もある。
③.確信を持って救済や不朽の意味を約束する
上記のような欠乏と不安の極限状態で、救われる道を提示する。それは心にとって
緊急避難に過ぎないのだが、本人は本当の救いと思い込む。
「救世主というものは、人々を現実的に救うというよりも、救いを約束するという
構造を持っている。本当に救う気があるのなら、黙って救ってくれればいいのだが、
それでは救世主は成り立たないのだ。」
④.人は自分を認めてくれた存在を裏切れない
人間が社会的存在であることを逆手に取った方法。
入信候補者に大勢の信者が一斉に「愛しています」と言い続ける「愛情爆弾」。
小集団による仲間意識の醸成。
生きる意味を見失った人を教祖が認めることによる信頼。
⑤.自己判断を許さず、依存状態に置き続ける
健全な組織とカルト集団との違いはここである。③④は人をエンパワーする
いい方法でもあるが、マインド・コントロールとして行われる場合はそれが
主体的な行動や自立に結びつかない。人が主体的に考えたりすることを極力
排除し、支配する者だけが意思決定を行い、人はただそれに従うだけである。
これは普通の家庭内でも起きうることである。
9.デプログラマーの登場
カルト教団からの救出とマインド・コントロールの解除のためには、時に
強引にでも連れ出し、教団と遮断し、徹底的に批判し完全に信念を破壊する
ことも必要である。
これは人の自由意思との関係で、失敗した場合には訴訟になるリスクがある。
本人の主体性を尊重した脱会カウンセリングが取り入れられるようになって
来た。
(わが家で 2014年1月26日)
どうやら宗教的な本らしいというので借りてきた「見えない世界を科学する」(京都大学名誉教授
岸根卓郎、2011)。
これは原子物理学の量子論を直観の科学とし、創造神ならぬ仏教的な 「宇宙の意思」 の存在を
論証しようとする、大変な本でした。
量子論では、
① 素粒子は粒子性と波動性の2つの性質を合わせ持っている。
② 素粒子の波動性は、人間が観測して粒子を確認した瞬間に消滅する。 (波束の収束)
③ 素粒子の存在は確定できず、確率的にしか表現できない。(不確定性原理)
ということだそうですが、それを敷衍して、
「事物は人が観察するという行為によってのみ実在し、誰も観察していないときには存在しない」、
さらに「人間の行為 (意識) が現実 (この世) を変える (創造する)」
という結論に至ります。月も、見る人がいなければ存在しない! のだそうです。
これは唯心論というのでしょうか。それを量子論が科学的に証明したというのが氏の立論です。
私は素人ですが、素粒子というミクロの世界の「量子論」をそのまま現実世界に適用するのは
飛躍しすぎと思います。
いま啄木のようにじっと手を見て、握れば爪が見えます。爪の細胞を構成する原子の、その中に
ある素粒子の存在は不確定性原理で確率的にしか表現できないというので、存在確率を単純に
50-50とします。すると私の指の、人差し指の爪は存在するが中指の爪は存在しない (これで50-
50になる) などということになるのでしょうか。
また、「人間の意識が現実を創造する」というのは、神学的認識論としては面白いが、馬鹿げた
論理です。ある人にとっては存在し、他の人にとっては存在しないというのは認識の上ではあり
うるが、物体としてはあり得ない。
認識しないものは存在しない、というなら、危険物に気づかず事故に遭うなどということが無く
なって誠に好都合ですが、そうは行きません。また月の光を利用する生物がいることや月による
潮の満ち引きが生存に大きく影響する生物がいることが分かっていますが、これらの動植物に
とっては、彼らが月を観察するから月が存在するのでしょうか。植物が月を観察 ???
また月の砂漠の砂一粒を構成する原子の、そのまた原子を構成する素粒子の存在はさっきのよう
に確率的にしか表現できないわけですが、だから月の存在確率は50-50だ、などということには
なりません。素粒子の存在確率が50-50であるとして、その素粒子が100億個あるならば、50億個
は確率的に確実に存在することになるはずです。
この論理はアキレスと亀の話に似ています。アキレスが10m進む間に亀は1m進む。またアキレス
が1m間に亀は10cm進むので永久に追い越せないというのですが、「無限」 の考えを導入すると
簡単に謎が解けてしまいます。
つまり、量子論と現実世界の間に、確率でしか表現されない不確定な素粒子が確実に 「存在」 する
物質に転化する、何らかの論理あるいは仕組みがあるはずです。量子論が分かりづらいのはそれ
が革命的理論だからではなく、未熟な理論であるからではないでしょうか。現実世界と結びつける
論理が発見できればノーベル賞モノでしょう。
氏はDNAは生命そのものではない、生物に 「生命」 を与える東洋的な、超人間的な 「宇宙の意思」
がある、と主張しています。最新の量子論が東アジア的仏教思想に近づいてきた、「色即是空」 が
量子論を直感によって把握していた、これからは東洋思想の時代だ、というのですが、牽強付会
という感じがします。量子論までで読むのをやめました。もう少し真っ当な仏教論を読みたいと思い
ます。
(わが家で 2014年1月24日)