魔人の鉞

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終戦記念日、昭和天皇の戦争責任を問う

2024-08-15 14:55:16 | 日記
きょう2024年8月15日は日本にとって79年目の終戦記念日です。私はこの間いろいろな本を読んで、先の大戦の戦争責任というものを考えてきました。そしてやはり昭和天皇の責任が最も重いという結論に至りました。

昭和天皇は平和主義で、戦争を避けようとしていたということになっています。しかし大元帥たる天皇が真に非戦の意向であれば、それはとても無視できないはずです。
実際には天皇は満州事変以来ずっと軍部の行動を褒めるお言葉を出してきていました。結果オーライ、戦果が上がれば独断専行も褒められるのです。やったもの勝ちになるのは当然で、その結果関東軍を抑えられなくなった。参謀本部も実は侵略戦を密かに応援していた参謀が少なくないという話もあります。

1937年には宇垣大将に組閣の大命が下りましたが、陸軍が反発し陸軍大臣の後任を出さないという、軍部大臣現役制をタテに取ったクーデターまがいのやり方で宇垣の組閣を断念させました。このとき大元帥は腹も立てず、陸軍の横暴を許したのです。宇垣大将の組閣に逆らうことは大元帥をないがしろにすることだと自分の幕僚に指導することはありませんでした。

積極開戦派の東条を首相にしたのも天皇です。木戸内大臣と図って「虎穴に入らずんば虎児を得ず」などと言っていたのです。開戦を再検討するよう指示しましたが、それは本当に負けないのか確認したいという程度の及び腰なもので、結局押し切られたのです。
その後、真珠湾以降の連戦連勝に浮かれ、開戦前のいろいろな検討を「我慢だね、良かったね。」といって自画自賛したのでした。

陸海軍や政府はお互いに隠しだてが多く、全てを知っているのは大元帥・天皇一人だったのです。参謀本部と軍令部、のちに大本営は大元帥の幕僚のはずが、陸海それぞれの思惑で動き、統一的な戦争指導はできていなかった。
そして天皇は政治軍事に直接関与しないどころか、詳細な戦闘報告を毎日受け取っており、往々にしてご下問などという形で戦争指導に口をはさみました。
ガダルカナルについては天皇が直々に戦力の増強を求めました。フィリピンでは特攻作戦を実質的に褒めたために、以後はそれが当然の作戦になってしまいました。
最後は天皇が「一撃講和論」にこだわったため、ついに大和までが沖縄に向けて特攻出撃することになりましたが、航空援護ゼロではバンザイ突撃と同じで、何の効果もありませんでした。

その作戦の直前3月10日には東京大空襲で帝都の3分の1が焼け野原となり、10万人もが殺されたのに、昭和天皇はその焼け跡を視察していたのに、何も考えないで戦争を継続し沖縄戦に突入させたのです。大元帥は帝都防衛ができなかった責任をまったく問題にしませんでしたし、以後日本の主要都市は空爆でめちゃめちゃになっていきましたが、何も言いませんでした。

私はこのことを思うとはらわたが煮えくり返る。昭和天皇は人間のクズで・・・ いや、その時は現人神だったのか???
人間宣言をしたからやはり人間だったとすれば、許しがたいクズ野郎です。

沖縄戦では民間人も動員され、筆舌に尽くしがたい乱戦で、ひどいところでは足手まといだとして射殺されたケースもありました。牛島司令官は降伏を許さず、死ぬまで戦うよう指令して自決しました。何かかっこよく伝わっていますが、自分が腹を切って部下や市民を救わなければなりません。それが国を守るということではありませんか。

そして終戦については、天皇のご聖断でまとまったと言いますが、きれいごとです。わが身を賭して、もっと早く講和を結ぶべきだった。終わってみれば何のことはない、天皇が自分一人生き延びた。その結果として多くの幕僚ら戦争指導責任者はほとんどのうのうと生き残って、戦後はいい暮らしをした。あの瀬島隆三などが偉そうにしていたのです。奴らはみな処刑されるべきだったのに、口をぬぐって責任を逃れた。その原因は昭和天皇にあります。

いまイアン・トール著「太平洋の試練」3部作、文芸春秋2022年 を読んでいます。アメリカも初戦は大苦戦で、ミツドウェイの勝利後もまだ戦力増強は間に合っていなくて綱渡りの状態だったようです。日米とも内部の意見対立や失策などいろいろな障害があったことがよく分かります。

しかしアメリカが兵士の生命をきわめて大切にしているということが痛いほど伝わってくる。作戦上ある程度の犠牲は生じるけれども、できるだけ兵士を大事にし、無駄死にをさせないようにし、休養を与え、交代させてリフレッシュするよう戦略を組み立てていました。日本軍はそうではなく、兵隊は死のうが飢えようがお構いなしです。死ななければ交代させてもらえません。最後はどこでもバンザイ突撃です。無駄に兵隊たちの命を散らした。後方で指令を発していた大元帥の幕僚はのうのうと生きていた。なぜ昔の武士道精神で、大将一人が腹を切って兵士を降伏させることができなかったのか。

特攻など、最初こそ不意打ちで少し戦果があったように見えるが、アメリカがそれに慣れて対策を講じるとバタバタと撃ち落され、戦果はまったく上がらなくなりました。ゼロ戦に500kg爆弾を装備したら足が遅くなるばかりで、七面鳥撃ちなどと言われる始末でした。大和の特攻は4000人もの兵士を一夜にして失いましたが、ほとんど何の戦果もありません。命を粗末にするにもほどがあります。

日本が負けたのは物量などではない。作戦の根底にある哲学の差で負けたのです。人間を大切にするという根本精神がなかったのです。これほどの違いがどこから来るのか。

日本の兵隊は天皇の赤子だということになっていましたが、少しも大切にされず敬意のかけらもさえも払われない「天皇の赤子」でした。死んだら補充は赤紙でいくらでも招集できるという、ただのコマでした。建前と実態がこれほど乖離しては、救いようがありません。

五族協和、八紘一宇、アジア解放といっても、実態は日本人が威張りちらしていうことを聞けば召し使ってやる、というのが内情でした。ごく一部の人は夢を見ていたのかもしれないが、実態は全く違っていた。満州入植は土地をタダ同然で奪ったもので、だから引き揚げ時の悲劇があったのです。インドネシアなどは天皇の了解のもとに内密に帝国領土に併合してしまったのですから、何が解放戦争なものですか。何が平和主義者なものですか。盗人猛々しいというものです。

「太平洋戦争の謎」(日本文芸社 平成13年) で佐治芳彦氏は、ハワイ攻撃だけなくパナマ運河爆撃までやっておけばよかった、それができなかったことが山本五十六の一代の不覚であった (205p) というのですが、ああすれば負けなかったこうすれば勝てていた、などというのは飲み屋のヨタ話です。こんなことを文庫本1冊にしてしまうとは、恥ずかしくないのでしょうか。

人間を大切にするという根本を忘れた昭和天皇は、ただの無能な3代目ではなく、判断力がない上に平気で責任逃れをする、魯鈍で悪質な帝王でした。
もう死んでしまいましたが、なぜこんな人を未だに奉っているのか、私にはわかりません。
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