「イスラム世界はなぜ没落したか」 バーナード・ルイス著 臼杵 陽監訳、日本評論社 2003年。
著者は中世イスラム史の碩学で、著作当時はネオコンのブッシュ政権の思想的指南者とされるそうです。監訳者は、「ムスリムが見たら怒り出すのではないかと思うほど、タイトル自体が挑発的である。」と評していますが、私にはそれが不思議です。イスラム没落の原因は、イスラム自体にある、と思います。日本や中国、インドなど、非イスラム・非西洋の諸国は西洋優勢の時代を乗り越え、日本ならば明治維新後50年、中国・インドは第二次大戦後50年で飛躍的に発展しています。しかしイスラムは莫大な原油収入を持ちながら、オスマン帝国崩壊後すでに100年になるのに低迷し分裂し、今や原理主義過激派が跋扈しています。
イスラム創立からほぼ80年、興隆を続けるイスラムのアッバース朝の実質支配 (750-945) 当時は、異教徒を許容するイスラムの先進性に加え、アラブ人の特権を廃止しすべてのムスリムの平等が認められ、エジプト、バビロニアの伝統文化と、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国など諸文明を取り入れ融合して、学問が著しい発展を遂げ、世界最高の文化水準を謳歌したそうです。それがどうして、いつの間に西洋に追いつかれ、追い抜かれ、絶望的な大差がついてしまったのか。それはイスラムそのものにある、と私は思います。
人生のすべてを支配する宗教であるイスラム。自らを最高最終のものとする教義。批判を許さない社会体制。アッバース朝のころはイスラムの興隆期で、そのような時には独裁制であろうと帝政であろうと民主制であろうと、文化は発展することが一般的です。まして当時としては画期的な、多民族・他宗教を許容するイスラムのもとで商業が発展し世界各地の文物が流入すれば、文化水準が高まって当然です。しかし高度の水準に達したイスラム社会に、ムスリムは慢心してしまった。初期のころは教義も固まっておらず知識欲を鼓吹したカリフもいたが、次第に唯我独尊となり、オスマン朝 (1299~1922) の成立したころまでには、最高の啓示のもとに最高の知識が完成した、と考えて他に学ぶことをやめてしまいました。神の最終啓示を奉ずるイスラムは最高であり、西洋は野蛮で見るべきものは全くない、という思考に凝り固まっていきました。西洋は堕落しており、ムスリムが居住するのはよろしくないということで、旅行する人もほとんどいないありさま。
コンスタンチノープルを攻略 (1453) してキリスト教国のビザンチン帝国を滅ぼしたオスマン帝国は強大でした。レコンキスタ (~1492) で失ったイベリア半島はもともとオスマン帝国領ではなく、レパントの海戦 (1571) で惨敗しても大した傷ではなく、二度にわたりウィーンを包囲した (1529. 1683) ほどですから、自信も当然かもしれません。
壊滅的と言われた第二次ウィーン包囲の敗退からすでに336年、第一次大戦でオスマン帝国が崩壊してからすでに100年です。イスラムは1350年ほど前の「最終で完璧な啓示」とそれに基づいて解釈されてきたいろいろな規則を墨守するのでなく、根本的に改革すべきです。しかし、何よりも必要なのは、改宗や棄教の自由です。ムスリムに改宗を勧めることは死罪に当たるそうです。普通の意味での批判も神の冒涜、イスラムへの冒涜と見なされれば生命の危険があります。しかし例えば奴隷制はクルアーンとシャリーアで認められているのに、現代ではほぼ廃止されています。西欧に強制されたにしても、やればできるのです。できないなら、イスラムが滅びるだけのことでしょう。
原理主義の各派は権力闘争をしているだけです。明治維新の元勲のように、攘夷を叫んでいたのに権力を握ったとたんに西洋化・富国強兵にコロリと転向するような、無節操なことができればいいが、イスラム原理主義にはそれは無理でしょう。
ウィーン包囲の失敗後 (1683)、いろいろな改革が叫ばれましたが、ついに成功しなかったのはアヘン戦争 (1840-42) 後の清国と同じです。しかし中国はいまや世界第二の大国として興隆しています。中国と日本の共通点は、宗教の束縛がきわめて弱いところにあります。インドはどうか、あまり詳しくないのでわかりません。
(わが家で 2019年1月31日)
地中海世界を統一したローマは政治・軍事的に優れており、征服した諸民族を文化的にも同化したすばらしい社会を作った、といわれ、「ローマ人の物語」ではローマ街道の整備と異民族の同化力などが絶賛されています。
たしかに素晴らしいことでした。しかしこの本によると、ローマには「大戦略」を探し出すのは難しい。「現代の歴史研究者は、ローマ人が卓越した戦略家であり、(中略) 防衛可能な境界線を引き、緩衝地帯を設定した。と考えたがる。(237P) (中略) このような考えは全くの幻想である。(238P)」
ローマはパルティアをほとんど知らず、単に蛮族としてとらえ、時には現地司令官が名誉欲で独走して大敗北を喫し、皇帝が取り組んだ場合も戦略目的があいまいなままで決定的な勝利は得られなかった。著者は現代アメリカの戦略との対比を考えているのですが、私はつい太平洋戦争の関東軍と大日本帝国を想起してしまいました。
ローマの将軍の独走は関東軍のそれとよく似ています。パルティア帝国は広大で人口も多く、完全征服には軍がいくつあっても足りなかったと思われるのに、数個軍団で攻撃する。ローマの威力を恐れさせる「衝撃と畏怖」戦略は、結局失敗に終わります。
関東軍は大戦略もなく現地軍が独走し、日本の10倍の人口をもつ中国を押さえつけ、屈服させようとしたのですが、抗日の意欲は衰えず、完全征服はできませんでした。中国人は惰弱だから武力でたたけば屈服すると侮っていたのは、大帝国パルティアをバルバロイと軽侮したローマ人と同じです。
英米と開戦し、中国戦線が膠着すると関東軍を引き抜いて南方に配備します。それは、対パルティア戦のためにゲルマニア方面の軍団を配転したローマと似ています。ローマの北方防衛線は弱体化し、経済的にも疲弊し、ゲルマン民族の侵入を許すようになっていくわけです。張り子の関東軍はソ連の侵入にひとたまりもなく撃破され、ヤルタ密約によりシベリア抑留が実行されました。
パルティアはローマに対してほぼ平和的で、パルティアから侵攻したのは300年間にわずか1回ほどで、ほとんどがローマ軍の侵攻。本格的な戦争の第1回は共和制時代の紀元前53年、クラッスス率いるローマ軍42,000人がスレナス将軍にカルラエで惨敗し、クラッスス自身を含む3万人が戦死しました。このためシリア以東ではローマの威信は地に落ちたと言われます。
ローマはその後も大戦略を立てることなく何度も対パルティア戦争を起こしました。大戦略とは、パルティアとどう決着をつけるか、その見通しを立てるということでしょう。共存か、征服するならどのくらいの戦力をいつまで投入するのか。どう戦争を終結させるのか。戦闘で勝っても征服ではないのです。
中国は日本に侵攻しておらず、攻めたのは日本。大日本帝国は、優位な武力で中国人民を畏怖させれば何とかなると考え、戦争の終結方策を考えなかった。中国では負けていなかった、というのが講和反対の理由の一つになってしまいました。
(わが家で 2019年1月28日)
「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」 長谷川毅著、中央公論新社、2006年。
著者は日本生まれでアメリカ市民権を取得、カリフォルニア大学サンタバーバラ校歴史学教授、専門はロシア史・日ロ関係だそうです。
日本人の作とは思えない、緻密な分析に基づく重厚な歴史書で、たいへん読みごたえがあります。しかしちょっとタイトルが弱い。キワモノ的な内幕本のようにも見え、重厚な内容がわかりません。
「太平洋戦争の終結を、アメリカ、日本、ソ連の三国間の (中略) 国際的な観点から描き出す」(9p) ことを目的とし、日本降伏の決定的要因が原爆だったのか、ソ連の参戦だったのかを解き明かします。結論は、ソ連の参戦こそが降伏の聖断をもたらした、ということです。原爆はほとんど議論の対象になっていないことが明らかです。ソ連の斡旋で講和しようと画策していたのに、そのソ連が参戦してはどうにもなりません。
(思うに、スターリンの悪逆は許せないけれども、日本指導部の甘さは見るに堪えません。ドイツが崩壊してソ連軍がフリーとなったのは4月で、中立条約の破棄を通告されたにも関わらず、ソ連がどう出てくるか警戒もしない。軍の情報ではソ連軍の極東への移動が把握されていたのに、情報が共有されず議論もされない。そして実は日本軍人の強制徴用はヤルタ密約に含まれていた。4か月を無為に過ごして膨大な戦死・空襲死者と損害、シベリア抑留を生じさせてしまいました。つくづく残念なことです。)
著者は、原爆投下に至る前のトルーマンには二つのジレンマがあったとします (14p) ① (ヤルタ密約に基づく) ソ連参戦は日本降伏に必要だが、できればさせたくない。 ② 無条件降伏をさせたいが、終戦を早めるために条件緩和を求める圧力 の二つです。原爆はこれを一挙に解決する手段と考えられた、とします。
そして、ポツダム宣言は最後通牒と考えられているが、実際には 「原爆を使用することを正当化する」 ために発せられたものだとします。スターリンを除外したのは、ソ連を出し抜いて原爆で日本を降伏させることができる、と考えたからでしょう。スターリンはその意図を察して、予定していた対日参戦をなんとか2日早めた、とします。
そして天皇の動向。終戦の聖断でヒーローとなったわけですが、天皇は原爆投下からソ連参戦に至る間、ポツダム宣言を拒否してソ連斡旋に望みをかけ、積極的に政治過程に関与しなかった。(517p) 原爆たった一発で広島が壊滅したのに、それについて真剣な議論がなされた形跡はありません。ソ連参戦が降伏の決定的要因だったという証拠です。国体の定義があいまいで、降伏条件の4条件か1条件かで会議は分裂し、二度目の聖断が必要になりました。
私が思うに、終戦後の天皇や要人の発言はみな天皇を守るという意図が明らかであり、潤色されています。「わが身はいかになろうとも」 というのは映画の演出、つくり話に過ぎないのは昨日の本で明らかになりました。しかし国民は、天皇にはそうあってほしいと願ったのでしょう。だから、神話として生きていると思うのです。そもそも、帝都の三分の一が灰燼に帰し、10万人が死んだ3月10日の東京大空襲を目の当たりにし、さらに本土空襲が続いていたのに、天皇も六巨頭もそれを悼んだ形跡がありません。国民の犠牲は当然だ、くらいにしか考えていなかったのではないかと思います。
「終戦史」 吉見直人・NHK取材班著、NHK出版 2013年。
日本の降伏に至る3か月間ほどの、天皇や重臣たちの動きを分析した本です。
1945年6月8日に最高戦争指導会議が 「今後採ルベキ戦争指導ノ基本大綱」 を決定し、翌日天皇が裁可しました。(146p) その内容は九州において本土決戦を行うことです。軍人数十万、民間人百万以上の犠牲者を想定しつつ、敵に打撃を与えて国体護持などの講和条件を確保したいという方針でした。これは表向きの決定、「ハッタリの決定」 だった (156p) というのですが、首脳部全員がハッタリだと合意していたという明白な証拠はない。そういう後日談があるようですが、後日談は言い訳になりやすいものです。必ずしも信頼はできないし、6月8日の決定で落胆したという話もあります。
その直後の6月11日の梅津参謀総長のシナ派遣軍の実状の上奏、 6月12日の長谷川大将の本土決戦部隊の実情報告で、天皇はとても戦えないと知り、講和を決心したとしています。天皇も、雲南作戦がむりだと梅津に言われ、あきらめたと回想録に書いています。
その結果、6月22日に御前会議が開かれ、「時局収拾につき考慮すること」 という天皇のご下問があり、ソ連の斡旋による講和策を実施する云々の議論があったということです (194p-)。
これは天皇の主導による講和への第一歩であり、天皇の講和志向は以後一貫していたと考えているようです。しかしドイツは崩壊し、ソ連兵力の極東派遣が進んでいることはわかっているのに情報を確認しようともせず、本土空襲は毎日のようにあるのに防空部隊を叱責もせず、結局事態は原爆2発とソ連参戦を見るまで動きませんでした。
映画 「日本の一番長い日」 の天皇のセリフ、「わたくし自身はいかようになろうとも、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、私には忍びえない。国民のためにできることはなんでもする」、というのは映画の演出に過ぎなかった (14p) としていながら、天皇の役割について分析が甘いのは残念です。ずるずると戦争を長引かせた 「一撃講和論」 も、天皇が支持していたことは告白録の雲南作戦の件でも明らかです。天皇にこそ最大の責任がある。それをあいまいにしては、いかに周辺を調査しても真相は見えてきません。
また著者は、梅津参謀総長はもともと対米開戦に反対 (128p) で、総長を拝命するや主戦派の服部作戦課長、真田作戦部長、瀬島作戦課補助らを次々と転出させ (136p)、講和の地ならしをしたとして高く評価しています。しかし梅津氏は、最後まで連合国側の受諾可能性の希薄な4条件講和論に組して、最高戦争指導会議が妥結しない大きな原因になっていました。陸軍の最高責任者である彼が本当に講和志向であったなら、原爆の前に、あるいはソ連参戦の前にポツダム宣言を受諾できていた可能性が高いのではないでしょうか。最後は国や国民のためではなく自分の我、陸軍の意地を優先した、と評するべきでしょう。
彼は 「よきフォロワーだった」 (170p)、と著者は言いますが、では誰がリーダーだったのか。それは昭和天皇以外にあり得ないでしょう。
東郷外相の活動について4割近くのページが割かれていますが、割愛します。
(わが家で 2019年1月17日)