魔人の鉞

時事、歴史、宗教など、社会通念を独断と偏見のマサカリでスッキリ解決!  検索は左窓から、1単語だけで。

委奴国王は倭の代表か

2016-08-04 16:28:42 | 日本古代史

「卑弥呼と神武が明かす古代」 内倉武久、ミネルヴァ書房 2007年。

著者は学者ではなく元朝日新聞記者ですが、邪馬台国畿内説にこだわらず、公平な視点でいろいろな問題点を指摘し、納得できることがたいへん多い本です。

① まず第1章で、卑弥呼は中国系の人物ではないかと論じます。魏志倭人伝の元となった「魏略」に、『倭の人は自ら太伯の後と謂う』 とあるそうで、「魏略」と引用した魏志倭人伝ともにこの太伯を夏王朝の小康の庶子としています。(9p) 
太伯というと周王朝の分家、呉太伯があり、その子孫が有名な呉王夫差で、臥薪嘗胆した越王勾践に前473年に滅ぼされました。このとき一族郎党は日本に逃げたと考えられ、たとえば新撰姓氏録・右京諸蕃に「松野連 出自呉王夫差也」とあるそうです。(11p) 松野氏の系図には倭の五王も一族だとしているそうです。
これに関しては、考古学の泰斗 森浩一氏の「古代史おさらい帖」(筑摩書房、2007年) にも、入れ墨や漁撈など華北と異なる習俗を持つ倭が華中の一族とつながる可能性はあると論じています。(135-138p)

② 魏志倭人伝に記載の献上物資である絹や、出土する鉄や鉾はほとんど北九州で、近畿にはほぼ皆無であること。(56-59p)

③ 三角縁神獣鏡は100枚どころか、700枚以上知られており、しかも 「大事に扱われていない」。三角縁神獣鏡はみな棺の外に置かれていて、棺の中にあるのは間違いない中国製の鏡だということです。
これについても森浩一氏は和泉黄金塚古墳で、紀年鏡としては5枚目の景初3年銘平縁神獣鏡の発掘当事者でしたが、これは棺の外で、棺の中にあったのは他の鏡だったということです。
この紀年銘というものがほとんど信用できないということを、森浩一氏は陶磁器生産の有名産地では大明年製とか乾隆年製とか適宜に書いていることを実際に取材したという、説得力ある体験談を述べています。(森書51-52p)

④ また内倉氏は、中国の官営工房製であれば 「尚方作」 となるはずで、個人名の作というのはおかしい、と指摘します。三角縁神獣鏡に 「尚方作」 は皆無で、このことを畿内説の論者はまったく無視しています。日本に渡ってきた亡命あるいは移民の工人が作った、と読める銘文が多いとのことです。(68-69p)
ちなみに、三角縁神獣鏡の作者の一人に吾さんがいるそうですが、続日本紀延暦3年6月紀に 「唐人正六位下 吾税児に永国忌寸を賜う」 とあるそうで、三角縁神獣鏡の作者の一族かもしれないということです。(76p)

⑤ 魏志倭人伝の里程について、郡から1万2千余里、とあるのですが、これだと5000Km以上にもなり、方角も違うので、畿内論者からは倭人伝の記述はでたらめだ、という断定が下されるほどです。しかし、郡~朝鮮半島南岸~対馬~壱岐~九州北岸の距離はそんなにでたらめになるはずはなく、内倉氏はその距離表記と現在の地理上の位置および韓半島の面積表記も比較勘案して、1里=約76mとするとたいへんよく適合すると主張します。(90-91p)
これは短里説と呼ばれるのですが、魏晋の尺度にそのような短里を証明する制度上の証拠はなかなか見つからないようです。しかし、短里でないとすると郡から朝鮮半島南岸までの距離でさえ説明不能になるわけで、もっと他の文書を参照すれば出てくるのではないかと私は期待します。

⑥ 卑弥呼の墓ですが、径100余歩で140mもあったとするのが定説です。しかし1里=約76mの短里とすると1里=300歩ですから100余歩=25m ほどになります。(110p) これなら、九州にもたくさんあります。
卑弥呼の墓が前方後円墳だったとしたら、中国人には見たこともない変わった陵墓ですから、径だけでなく形などについても説明があるのではないか、と考えられます。大いに塚を作る、とあるからと言って、それが長径 280m=約200歩もある前方後円墳・箸墓だというのは飛躍があると思われます。後から方形部を付け足したという説もあるようですが、箸墓がそうだとは証明されていません。しかも被葬者は倭迹迹日百襲姫命と紀に書いてあるので、そうとう無理な解釈をしていることになります。

⑥ 国名の読み方。日本では一般に奴をナと呼んでいるが、ナは呉音で漢音ではドであること。内倉氏はこのドはト、山門などのトと考えます。これは山の入り口、都の入り口、という意味ではないかとし、これも納得できる説明です。(121-129p)
ここで気になるのは、古代では山門のトと大和のトは発音が違う、ということで、記紀はそれを書き分けているということです。しかし、魏志倭人伝は中国の陳寿が書いた記録で、元となった魏略にしろ使者の報告書にしろ漢音の使い手が古代倭語を聞いて漢字に写したものですから、倭語の微妙な発音の違いを知ってその字を選んだと考えるのは無理があります。記紀はかなり後代になって、倭人が自分たちの発音を漢字で表現するときにその違いを書き分けたものです。文字を使っていたことさえ定かでない邪馬台国時代に倭人がそんな文字を当てていたわけではありません。これは私も勘違いしていました。

⑦ 極めつけは、倭はワとは読めない、イであるとのこと。これも、なるほどです。漢代の 「説文解字」 に、倭は委、イとあり、倭をワと読むとは書いていないそうです。だから漢委奴国王の金印は、とても漢のワのナの国王とは読めない。イド国王であることになります。

⑧ 漢の印制、綬制では金印紫綬は最高級の印綬で、皇族級か特別の功績があった臣下、または一定の地域を代表する王だけに与えられます。ワのナの国では倭の一部にすぎないわけで、金印紫綬はけっしてありえない。(143-147p)
逆に言えば、委奴国は当時の倭を代表する国であったことになります。「旧唐書」は、「倭国は古の委奴国」とし、委奴国~邪馬台国~倭国~日本 (大和政権) という流れを明示しているそうです。(154p)

⑨ 神武東征伝説はある程度史実を反映しており、その本拠は福岡市西区あたりにあった伊都国である。このあたりに日向という地名もあり、天孫降臨の地は日向国ではなく筑紫の日向である。伊都国は邪馬台国に圧迫され、王の一族である神武らが脱出・東征して大和の地に王朝を開いた、とします。(175-177p)
これは学会からはほぼ無視されているが、大変興味のある説です。神武たちが、どこかに良い国はないかと相談したという記紀の伝説の場面は、上記のように考えるとたいへん分かりやすい。この内倉説を読んで、私も神武東征がまったくの作り話ではない可能性が高いと思うようになりました。
そして神武は自ら征服者と宣言しているのですから、万世一系神話こそが作り物であるはずです。


以上のように、内倉氏の本を読んで、金印のことをはじめ、倭人伝の距離方角、三角縁神獣鏡の年号などの解釈、貢物や鉄器などの出土文物など、邪馬台国畿内説は無理に無理な解釈を重ねてようやくたどりつく蜃気楼のような学説という感じか強くなりました。

近年、放射性炭素法という、一見科学的な年代測定法で箸墓が卑弥呼死没のころにぴったりだということで、あたかも決まりのように説く論者が多くなっています。しかしそれも試料選択などがたいへん危ういといわれているし、同様に調べれば他のいろいろな遺跡もみんな築造年代が一気に繰り上がってしまい、全く違う歴史になってしまうかもしれません。たくさん調べたうえで比較検討するのでなく、ただ数点の分析だけで決めつけるというのでは、まことに非科学的なことです。
    (わが家で  2016年8月4日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする