<世界史>の哲学 イスラーム篇 大澤真幸著、講談社、2015年。
イスラームについていろいろ読んできた中で、もっとも分かりやすく難しい本です。
前書きにある、イスラーム世界に関する大きな1つの疑問、「資本主義は、どうして、逸早く、イスラーム教のもとで発達しなかったのか。」(6p) 利子の禁止があったというのは俗説で、キリスト教でも利子は蔑視されていました。それどころか、コーランにはこんな章句さえある。「アッラーに素晴らしい貸付けをする者はいないか。何倍にもしてそれを返却していただけるんだぞ。」 (2章246節) 「たとえ比喩であるとしても、投資し、それによって利潤をあげることが善いことの典型であるとの了解が無ければ、このような表現は絶対に使われまい。」(86p) そしてリバー (利子) 禁止をかいくぐる方法はいくらでもあり、昔から利用されているそうです。
しかし大きな要素として法人という概念が認められないこと。法人は神との契約で定められた五行等の礼拝や巡礼の義務を果たせないから、認められないそうです。(275p) また、被造物たる人間が永続的な法人などというものをつくるのは、神への冒涜になる。(276p) これでは、資本主義が発達したくてもできないのは当然です。
大きな疑問その②。アッバース朝以来のイスラーム帝国は異教徒 (特にキリスト教徒) の少年少女を狩り出して奴隷とし、イスラームに改宗させて教育し、官僚や常備軍団「イェニチェリ」の軍団員としたそうです。(7p) 他の文明圏ではこういうことはしていない。それは、根深い部族主義に対抗するために作られ、発展させたシステムだと言います。(201p) それはオスマン・トルコ帝国で最高度に達し、めっぽう強かったと言われています。しかし当初は妻帯も禁じられていたイェニチェリが時代とともにその子供たちに後を継がせようという流れになり、結局ある種の疑似部族・利権集団となって問題化していったようです。
疑問その③。イスラームはアッラーを絶対化し、アッラーへの帰依の他には部族的な団結など許されないはずなのに、ムハンマド以来1450年も経つのに、「ほぼ純粋状態で残存している部族主義的倫理」があるそうです。(7p) ムハンマド以前の時代をジャーヒリーヤ=無道時代 と呼ぶのですが、井筒俊彦氏によると、ジャーヒリーヤは部族社会の誇り高い「不羈独立の精神」を指す言葉だそうです。(204p) 対してイスラームとは、「神のアブド=奴隷」 (235p) になることを選ぶということです。まったく水と油のはずが、今日でも仲良く共存している。
本当にインシャラーのイスラーム社会はバカバカしい宗教的規制と矛盾に満ちています。人間が神の奴隷では、とても人間の精神的発展は望めません。