魔人の鉞

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「1945 予定された敗戦」はトンデモ本だ

2024-05-23 08:26:59 | 第2次大戦
「1945 予定された敗戦」 小代有希子著、人文書院 2015。
著者は米コロンビア大学歴史学博士、2006より日大国際関係学部教授、という学者です。
そして1945の敗戦は当時の日本首脳部により「予定された」ものだと主張します。しかし学者であるにも関わらず、その根拠はまったく示されません。

「日本の指導者たちはこう予測したのだ。ソ連が対日参戦してくれば、アジア太平洋方面の戦争もアメリカの一人勝ちでは終わらない。そうすればアメリカが日本に代わる覇権国家としてアジアを支配することはできなくなる。そうした状況こそが敗北した日本が立ち直るチャンスと見たのだ。」(12p) というのです。
そうした思考過程は当時の指導者の手記、覚書などにはっきりと示されているというですが、そう予測したのは最高指導部の誰で、何に書いているのか、大部の著書のどこにもまったく書かれていません。仮に一部の軍人や官僚、民間人などがそのようなことをどこかで言っていたとしても、それが「指導者」の思考というのは明らかに誇大妄想です。

「朝鮮総督府・朝鮮軍は、日本の支配が長く続かないことを自覚していた。」(146P) これも大胆な推論ですが、本をいくら読んでも総督府・朝鮮軍がそういう自覚を持っていたことの証拠は見つかりません。幹部の中で一人くらいは密かにそう思っていたかもしれないが、全くの憶測です。終戦の直前まで、朝鮮を手放すということは日本人指導部の誰も全く考えておらず、いかなる会議でも議論になったという証拠はありません。

また「ポツダム宣言がアメリカとソ連の最終対決の始まりで、それはまた日本が戦争を終わらせるまでのカウントダウンの始まりであることを、最高戦争指導会議のメンバーは、おそらく合意し合っていたのだろう。」(235p)
恐れ入りますが、そんな合意が最高戦争指導会議の誰と誰の間で成り立っていたのでしょうか?  全員ですか? もしあったとしたら革命的な発見ですが、これも単なる憶測、著者の期待に過ぎません。何の証拠もなく、学問としては成り立ちません。司馬遼太郎ばりに、美しい誤解に満ちた小説を書くことをお勧めしたいところです。

ソ連の対日宣戦通知時に「東郷外相がマリクに語った台詞から、最高戦争指導会議の構成員がおそらく合意していたであろう一つの戦争終結計画が見えてくる。つまりソ連が参戦してくるまでは戦争を戦い続け、参戦してきたところで終結させるというシナリオである。」(246P)  
これも著者の単なる憶測、期待に過ぎません。誰がそんなシナリオを考えていたのか、どこでいつ皆の合意ができたのか、何の証拠も示されていません。

致命的なのは、もし東郷外相や最高戦争指導会議のメンバーが仮にソ連が参戦するのは確実だと合意していたとしても、参戦がいつなのか、中立条約の期限終了と同時なのか、それより何カ月前なのか、間もなくなのか、誰も分かっていなかったということです。米ソ間の最高機密が簡単に分かるはずもないし、日本がその情報を把握したという記録も全くありません。

そのシナリオでは時間切れで本土決戦に突入してしまう可能性が十分にあります。沖縄戦のような悲劇が本土各地で起こり、いったいどれほどの犠牲が出るのか見当もつかないのです。そういう中でソ連が参戦するならば、いったいどういうことになるのか? 文字通りの1億玉砕になりかねません。それがシナリオと呼べる代物でしょうか? そんな悪夢を想定することはできるかもしれないが、そうなるように計画することなど、日本人としてまた人間として、できるものでしょうか? 

かといって早期講和のためソ連に早期参戦させるような仕掛けをした様子もなく、むしろ早期参戦ナシと見込んで和平仲介を働きかけようとしていたのが実態です。著者はそれもソ連を欺くための演技と言いたいようですが、なんのために欺くのでしょうか。まるで意味不明です。

事実はそんな演技をしている場合ではなかった。軍は早々に引き揚げてしまって、満州の数十万人の入植者・一般人には何も知らせず、置き去りにしました。筆者はジェスチャーとして止むをえなかったと言います (311P) が、とんでもないことです。人間としてとうてい許されることではありません。

そして、もしソ連に参戦させ悪者にして講和する、というのが終戦のシナリオだったなら、なぜ終戦の詔勅にソ連の平和条約違反を書いていないのでしょうか。詔勅では「しきりに無辜を殺傷し」と言い、おそらく原爆のことを非難していますが、ソ連のことにはまったく触れられていません。これではアメリカを非難するがソ連はおとがめなしです。シナリオと全然違うように思えます。

つまるところ、筆者は何の根拠もなく「終戦は予定されたシナリオだった」「当時の日本政府指導者はよく考えて行動した」と主張しますが、下劣な小説以下の、ほとんどおとぎ話、絵空事の類です。そして国民の犠牲にはひとかけらの同情もない。

こんな人物が教授ですか? あきれたものです。こんなバカな本が図書館にあるのも実に不思議です。
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日本は、南方軍票を1年前から

2024-05-16 17:28:18 | 第2次大戦
日本軍は開戦の1年も前から、南方侵攻時に使用する「軍票」を用意していました。
「運命のD暗号」 青山 元 著、戎光祥出版 2012年。

663p あとがきによると、この軍票は「は号」から「と号」に分けられ、「は号」は蘭領東インド、ジャワ、スマトラ、南ボルネオ、セレベス、蘭印ニューギニアなど、「に号」は英領マレー半島、シンガポール、英領ボルネオ、タイの一部など、「ほ号」はフィリピン、「へ号」は英領ビルマ、「と号」はオーストラリア、ニュージーランド、英領ニューギニア、ニューブリテン、ソロモン島、オセアニア諸島向けとして、詳細に準備されていました。
また「日本貨幣収集事典 (原点社) によると、昭和16年1月の段階で見本刷りができていた」とのことです。

用意周到というか、ABCD包囲網に迫られてやむなく開戦せざるを得なかった、などというのは後付けの理屈です。

その点で、ハルノート原因説も嘘でしょう。東郷外相が「目が眩むほどの衝撃」だと語ったのは自己正当化のための演技です。吉田茂氏ならずとも、外交の専門家ならハルノートが最後通牒などではないことは少し考えればわかることです。
それを半藤一利氏まで、「戦争というもの」(2021年5月、PHP研究所) 44p
で「最後的通牒を改めない限り、もはや交渉は不可能」などといって開戦不可避を吐露したなどと言うとは、まことに読みが浅くて残念です。
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加藤陽子先生に 歴史の見方を

2023-08-05 08:37:40 | 第2次大戦
明日はヒロシマ原爆記念日。
きのう、加藤陽子東大教授の「戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗」(朝日出版社 2016年) を読みました。
高校生に講義するというスタイルですが、当時の状況と、世界各国の思惑、それらを的確に把握して歴史を再構築するという、なかなか読み応えのある内容でした。

私が知らなかったことで一番驚いたことは、森山優氏の研究で日本もアメリカの暗号電信 (ハル国務長官~在日アメリカ大使館) を90%ほどは解読していた、という事です。(313p) 日本の暗号が解読されていたが日本は相手のものを解読できていなかった、というのは大変な思いこみだったのです。

そして近衛総理の対米交渉はかなり実現可能性があったようです(334p~)。アメリカも当時は対日開戦を避けたかった。「日米諒解案」は私人の作文と批判する人もいるが、決してそうではなく、米政府も暗黙に一枚かんでいたのです。関わっていても公式にはそう言わないのが外交交渉というものでしょう。足を引っ張ったのは、権力と戦争が大好きな日本軍人とその応援団です。
(天皇は交渉支持だったが、だんだんと開戦に傾いていき、ついに最強硬派の東条を総理にし、開戦に突っ込んでしまいました。何が「虎穴に入らずんば」ですか。まったくグズ、優柔不断な大元帥でした。)

また、三国同盟は対米軍事同盟とみなされていたが、じつはドイツ勝利が確実と思われた戦後の世界分割支配について、日本が「大東亜」の支配権を確保することが日本の最大の狙いだった、と加藤氏は解説します (277-278p)。各国の勢力圏を規定していますが、対米自動参戦条項はなく、日本はあくまで自分の都合で参戦すればいいという形です。

そして、井口武夫氏の研究により、真珠湾直前の対米通告の遅れは大使館員の怠慢ではなく、軍部が通告文を分割した最後の第14部の発信をぎりぎりまで遅らせるよう命令したからだという事 (411p)。おまけに軍は、「一切の責任はそちら」という最後通告の文言を発信直前に削除してしまったというのです (412p)。これでは最後通告になっていないことになります。

アメリカにも妥協派がおり、強硬派がいた。けっして一枚岩ではなかったというのも理解できる話です。

分かっているつもりでまだまだ分からないことがあります。
謙虚でないといけませんね。
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大元帥・昭和天皇は第1級の敗戦責任者

2023-08-04 09:00:42 | 第2次大戦
終戦の日が近づいてきました。
最近3冊の本を読んで、昭和天皇の戦争責任はまことに重大、というよりも大元帥として天皇一人が責任を負うべきではないかと考えるようになりました。

「昭和天皇の戦争~『昭和天皇実録』に残されたこと、消されたこと」 山田 朗著、岩波書店 2017年。

昭和天皇は立憲君主などではなく、大元帥として常に陸海軍・政府各部の報告や内装を受け、すべての情報を把握していました。そのうえで大元帥としての権限を完全に発揮していました。
例えば張鼓峰事件 (1938)。天皇は事件の一報を聞き激怒し、軍事行動の不拡大を厳命し、参謀総長から張鼓峰紛争不拡大の命令が現地軍に出されました。ところが現地の第19師団は張鼓峰の近くの沙草峰を自衛のためとして攻撃し、ついでに張鼓峰も占領してしまいました。
これでは厳罰必死、と誰しも思うわけですが、その報告を受けた天皇はなんと「満足」のお言葉を与えたのでした。(113-116p)
こういう事例は幾つもあり、独断専行であっても戦果があればお褒めの言葉を与えるのでは、やったもの勝ちになってしまうのは当然です。関東軍が悪いのではなく、そうさせた大元帥・昭和天皇の責任です。天皇は特攻作戦についてもお褒めの言葉を与えたので、以後は特攻全盛・無駄死にばかりになってしまいました。

「御前会議 昭和天皇一五回の聖断」 大江志乃夫著、中公新書 1991年。
ご聖断といえば終戦時のことだけが有名ですが、大江氏は15回の御前会議があったので、15のご聖断があったととらえています。
その御前会議の開催前に天皇は大元帥としてあらゆる情報を臣下から収集し、議案について事前に質し、場合によっては総長らを呼びつけて質問しています。陸海軍、政府各部などのすべての情報を持っているのは大元帥である天皇一人だけです。そして毎回御前会議において聖断を降したのです。戦後、立憲君主だったので臣下の上奏は拒否出来なかった、などとと自己弁護していますが、まったくの嘘っぱちだということは丹念に事実を積み上げれば見えてきます。

「天皇裕仁と東京大空襲」 松浦総三著、大槻書店 1994年。
1945年3月11日の東京大空襲は一夜にして10万人の一般市民を焼き殺した、人道に反する戦争犯罪でした。しかしまた、帝国日本の防空能力がほとんどゼロだということが明らかになったので、その後も空襲が続くこと、数十万の一般国民が殺されることは自明でした。
ところが天皇裕仁は1週間後の3月18日にその焼け跡を視察行幸したのに、何の感想も残さず施策も取っていません。防空責任者を叱責したり更迭したという記録さえありません。何のための行幸だったのか、まったくわかりません。(1964年に大空襲の指揮官ルメイ中将に日本国天皇から勲一等旭日大綬章を授賞したというのですから、あきれてものが言えません。戦争犯罪人として告発すべきなのに。 )

松浦氏は、この時点で終戦していれば、全国各地の空襲もヒロシマもナガサキもなく、ソ連の参戦も防ぐことができたと言っています。
私もまったくそのとおりだと思います。
国民を守る力がまったくないのに、その後5か月以上も継戦し、天皇は大元帥として何とか一撃でもして形勢を立て直せないかとあれこれ思案・指示したのですが、その間におそらく200万人ほどが死亡しました。ほんとうにハラワタが煮えくり返るような話です。無能・無責任極まる大元帥でした。そして何のために頑張ったかといえば、天皇制を守ためだったという、実にバカバカしいことでした。
特攻の創始者・大西中将など、天皇さえ生き残れば国民は全滅してもいい、と言うほど狂っていました。そしてなんと、最大の敗戦責任者・大元帥・昭和天皇だけは生き残ったのです。退位もしないで。

あれほどの惨禍を受けたのですから、天皇制は廃棄すべきだった。アメリカが占領支配の便宜のために天皇を利用したのは確かですが、それは大成功で、いまや天皇家ブームです。
しかし私たちは昭和天皇が第1級・最高の戦争責任者であったことを忘れないようにしたいものです。

そして真子氏をはじめ秋篠宮一家によって天皇制への疑問が出てきている。300年後くらいには天皇制も単なる一家元になっていることを期待しましょう。
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特攻は昭和天皇に最大の責任がある

2022-08-14 12:01:03 | 第2次大戦
明日終戦記念日です。

2022年8月14日付毎日新聞朝刊に、「特攻見送り ただ切なく」 と題して、知覧に暮らす方などの記事が載っています。3面の終わりころに三宅トミさんの言葉があります。「特攻は、時に美談として語られますけれどね・・・ 絶対に違います。ただの悲劇です。」

私も三宅さんに賛成です。
しかしこの1面・3面合わせてほぼ全ページに近い大きな記事の中に、昭和天皇が特攻の戦果を聞いてどういったかが書かれていません。天皇は「そこまでしなければならなかったか。しかしよくやった。」と感想を述べたと言われています。そして特攻兵は軍神と崇められ、組織的に志願を奨励され、続々と無駄死にさせられていったのでした。

特攻を立案した大西中将は外道の作戦、と言ったそうですが、大バカ者です。終戦直前まで特攻の続行を主張し、最後に自決したが、死ねば許されるというものではありません。

そして昭和天皇はまったくボンクラです。天皇がよくやったと言ってしまったらどうなるか、知らないはずがありません。
天皇に最大の責任がある。このことを書いていない記事は画竜点睛を欠くといわなければなりません。
多くの戦死者のご冥福を祈るためには、責任者を明らかにしなければならないと思います。ただお悔やみを言うだけでは浮かばれないでしょう。
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