年末のここ数日、すっかり日本古代史にハマっています。
もともとは神武東征の真否を調べるつもりだったのですが、結局古代史全体を考えることになってしまいました。
神武東征は天皇家の万世一系をどう見るかに関わってきます。記紀では神話になってしまうので、中国の史書を参照するとこうです。
紀元57年 『後漢書』東夷伝 建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。
この委奴國から遣使に関連して、志賀島で 「漢委奴国王」 の金印が発見されました。金印はたいへん格の高いもので、倭の中のたんなる一国ではとても金印は授与されません。「漢の倭の奴」というような読み方はできず、この印が偽物でないなら、少なくとも倭種の諸国のリーダーであったのではないかと思われます。九州にあったことは確実です。そして倭種の多くの国を全体として倭国と表現しているようです。
この「極南界」は不審とされますが、倭種の諸国が朝鮮半島南岸から対馬・壱岐・九州北部に分布していたとすれば妥当な表現で、不思議なことではありません。魏志には 「その (倭の) 北岸 狗耶韓国に至る」 とあります。
ついで107年、『後漢書』東夷伝 安帝永初元年に、倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う、とあります。ここで倭国王という表現が登場します。これは倭種の諸国を引き連れて朝見したということで、倭奴国単独よりも倭種諸国の結合の程度が高まっているとも考えられます。これも九州にあったと思われ、この時期に九州から関西まで統一する政権があったというのは考えにくいでしょう。
というのもこのころ、伊都国王墓といわれる諸遺跡が作られているようです。近畿ではまだ多数の漢鏡や鉄器を持つそれらしい遺跡はありません。
その後、桓帝と霊帝の間 (146 - 189年) に 倭国乱とあります。暦年主なしで、かなりの争乱状態と考えられます。
そして魏志倭人伝、239年に邪馬台国女王卑弥呼が朝貢し「親魏倭王」印と種々の賜物を頂きました。その中の銅鏡100枚が三角縁神獣鏡という説がありますが、これは近年疑問が提示されています。またこのころ纏向遺跡が発展したという説があり、箸墓が卑弥呼の墓として喧伝されていますが、これは墳型もサイズも違い、培塚も見つかっていないので、違うのではないかと思われます。
この後 間が空きますが、421~478年までの倭の5王の遣使が続きます。この5王がヤマト朝廷の王なのかどうか、続き柄などがどうしても合わないため、九州の別王家が行ったという説があります。しかしこれは無理があるようです。
というのも 527- 528年に筑紫君磐井の反乱があり、ヤマト朝廷により平定されています。倭の5王がヤマト朝廷と別王朝だったとすると、勢威盛んな倭王武の最後の遣使からわずか40年のうちにその王朝が滅びて筑紫君磐井の勢力圏になっていたということになります。それなら書紀にまつろわぬ賊とか何らかの記録が残るのではないかと思いますが、まったく何もありません。
隋書の 「俀国」 の記事は、倭国を取り違えた誤解に基づくものと考えて差し支えないようです。
こうなると、委奴国、倭国王帥升、親魏倭王・邪馬台国女王卑弥呼、そしてヤマト天皇家がどういう関係になっているかが問題です。つながっているのか、いないのか。繋がっているなら、どこかで九州から奈良へ移動する必要があり、「神武東征」 が必要になります。神武天皇が邪馬台国王家の縁戚だという論もありますが、憶測にすぎません。ただ、どうして邪馬台国とヤマト天皇家の国が同じヤマトという音を持っているのか、不思議ではあります。そして、もし繋がっているなら、なぜ記紀に先祖にあたる邪馬台国関係や、倭国王帥升らの記事がほとんど全く存在しないのか、まことに不思議です。
もっと不思議なのは、倭と書いてヤマトと読む、と記紀で指定されていることです。そう書かれているのでそうかと思っていましたが、考えてみれば 「倭」 はもともと中国の史書に書かれている種族名・国名で、記紀はそれより500-600年も後の記録です。もし倭族が朝見して自らヤマトと言ったのなら、「倭」 という文字が充てられるはずがありません。音が全く違うので、かならず別の文字を使ったでしょう。倭という呼称はあるいは仲介した朝鮮族が伝えたものでしょうか。しかし記紀には自ら 「倭」 と書いて、わざわざヤマトと読みを指定していますが、文字は「邪馬台」 ではないのです。実に不思議です。
このことについて、どこかで読んだような気がしますが、あまり明瞭ではありません。ここに何らかのからくりがあるのではないかと思います。まだまだ研究の必要があります。2020年の課題です。