魔人の鉞

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倭とヤマト 古代史の入口へ

2019-12-31 22:28:32 | 日本古代史

年末のここ数日、すっかり日本古代史にハマっています。

もともとは神武東征の真否を調べるつもりだったのですが、結局古代史全体を考えることになってしまいました。

神武東征は天皇家の万世一系をどう見るかに関わってきます。記紀では神話になってしまうので、中国の史書を参照するとこうです。

紀元57年 『後漢書』東夷伝 建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす。

この委奴國から遣使に関連して、志賀島で 「漢委奴国王」 の金印が発見されました。金印はたいへん格の高いもので、倭の中のたんなる一国ではとても金印は授与されません。「漢の倭の奴」というような読み方はできず、この印が偽物でないなら、少なくとも倭種の諸国のリーダーであったのではないかと思われます。九州にあったことは確実です。そして倭種の多くの国を全体として倭国と表現しているようです。

この「極南界」は不審とされますが、倭種の諸国が朝鮮半島南岸から対馬・壱岐・九州北部に分布していたとすれば妥当な表現で、不思議なことではありません。魏志には 「その  (倭の)  北岸 狗耶韓国に至る」 とあります。

ついで107年、『後漢書』東夷伝 安帝永初元年に、倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う、とあります。ここで倭国王という表現が登場します。これは倭種の諸国を引き連れて朝見したということで、倭奴国単独よりも倭種諸国の結合の程度が高まっているとも考えられます。これも九州にあったと思われ、この時期に九州から関西まで統一する政権があったというのは考えにくいでしょう。

というのもこのころ、伊都国王墓といわれる諸遺跡が作られているようです。近畿ではまだ多数の漢鏡や鉄器を持つそれらしい遺跡はありません。

その後、桓帝と霊帝の間 (146 - 189年)  に 倭国乱とあります。暦年主なしで、かなりの争乱状態と考えられます。

そして魏志倭人伝、239年に邪馬台国女王卑弥呼が朝貢し「親魏倭王」印と種々の賜物を頂きました。その中の銅鏡100枚が三角縁神獣鏡という説がありますが、これは近年疑問が提示されています。またこのころ纏向遺跡が発展したという説があり、箸墓が卑弥呼の墓として喧伝されていますが、これは墳型もサイズも違い、培塚も見つかっていないので、違うのではないかと思われます。

この後 間が空きますが、421~478年までの倭の5王の遣使が続きます。この5王がヤマト朝廷の王なのかどうか、続き柄などがどうしても合わないため、九州の別王家が行ったという説があります。しかしこれは無理があるようです。

というのも 527- 528年に筑紫君磐井の反乱があり、ヤマト朝廷により平定されています。倭の5王がヤマト朝廷と別王朝だったとすると、勢威盛んな倭王武の最後の遣使からわずか40年のうちにその王朝が滅びて筑紫君磐井の勢力圏になっていたということになります。それなら書紀にまつろわぬ賊とか何らかの記録が残るのではないかと思いますが、まったく何もありません。

隋書の 「俀国」 の記事は、倭国を取り違えた誤解に基づくものと考えて差し支えないようです。

こうなると、委奴国、倭国王帥升、親魏倭王・邪馬台国女王卑弥呼、そしてヤマト天皇家がどういう関係になっているかが問題です。つながっているのか、いないのか。繋がっているなら、どこかで九州から奈良へ移動する必要があり、「神武東征」 が必要になります。神武天皇が邪馬台国王家の縁戚だという論もありますが、憶測にすぎません。ただ、どうして邪馬台国とヤマト天皇家の国が同じヤマトという音を持っているのか、不思議ではあります。そして、もし繋がっているなら、なぜ記紀に先祖にあたる邪馬台国関係や、倭国王帥升らの記事がほとんど全く存在しないのか、まことに不思議です。

 

もっと不思議なのは、倭と書いてヤマトと読む、と記紀で指定されていることです。そう書かれているのでそうかと思っていましたが、考えてみれば 「倭」 はもともと中国の史書に書かれている種族名・国名で、記紀はそれより500-600年も後の記録です。もし倭族が朝見して自らヤマトと言ったのなら、「倭」 という文字が充てられるはずがありません。音が全く違うので、かならず別の文字を使ったでしょう。倭という呼称はあるいは仲介した朝鮮族が伝えたものでしょうか。しかし記紀には自ら 「倭」 と書いて、わざわざヤマトと読みを指定していますが、文字は「邪馬台」 ではないのです。実に不思議です。

このことについて、どこかで読んだような気がしますが、あまり明瞭ではありません。ここに何らかのからくりがあるのではないかと思います。まだまだ研究の必要があります。2020年の課題です。

 

 

  

 

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内部告発者の名前をばらす?? トランプの餓鬼っぽさ

2019-12-30 14:36:14 | トランプ問題

トランプが又々やらかしました。内部告発者の実名? (かどうかは分からないが) を書いたツイートをリツイートしたということです。内部告発者の氏名は守秘されるべきものと法律で決まっているのですが、担当官以外が憶測で書くことは止められません。しかしそれを大統領ともあろうものががリツイートしてしまったら、いけませんよ。

共和党から弾劾賛成の議員が出てくる可能性もある? 少しでも良心があれば、そういう人が出てこなければいかんでしょう。日本のようにわが身可愛さばかりの議員では、アメリカはおしまいでしょう。

トランプはほんとにガキのような男ですね。あんな野郎のいうことにいちいち右往左往しなければならないとは、情けないこと。ところが安倍はバカと仲良しなのを自慢する始末です。もっとも、何でも隠したがるのですから、こちらもガキ同然ですね。

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日本国王位の 4王家交代説

2019-12-30 07:20:45 | 日本古代史

「倭国の謎 知られざる古代日本国」 相見英咲著、2003年、講談社。

著者は、日本国王位は、奴國王➡伊都国王➡邪馬台国王➡天皇家と継承されたとします。(16p) 

そして倭国王のいる邪馬台国は奈良県にあったとします。神武は魏志の倭国乱のとき南九州に難を逃れ、その後東遷して邪馬台国治下の倭国の一隅に平和裡に定着。神武の時はまだ一族長に過ぎなかったが子孫が徐々に頭角をあらわし、北九州を監督する「大倭」という官職を独占して力を蓄え (185p)、崇神天皇に至って邪馬台国を滅ぼし、倭国王となった、とします。こうした、奴国以来の歴史を記すと天皇家以外の王家があって交代したことになってしまうので、記録をすべて抹殺したと考えます。

天下りと国譲りの関係については、出雲平定は皇室が倭国王となった後のことなのに、神武東遷の前に持ってきたためにストーリーが通じなくなってしまっているのだとします。逆にした理由はあまり明快な説明はありませんが、後の神武の征服を正当化するためということでしょうか。

日本国 (倭国) は 107年の倭国王師升のときに成立したとし、師升は奴国王であるとしています。

これで天皇家が国の初めから日本全土の王だったという万世一系が否定されます。しかし奴国は後漢・光武帝から漢委奴國王の金印をもらっています。金印はたいへん格式の高いもので、外臣でも民族全体の王などにしか与えられず、外臣のそのまた家臣などには決して与えられないものですから、「漢の倭の奴國」と読んで奴國を単なる倭の一国とするのは誤りです。「漢の委奴國」とし、委奴を倭奴=倭と考え、倭国王とみなすのが妥当です。

また「大倭」は諱のオオヤマトネコから推定しているのですが、それが九州管轄の官職であったということはどこにも記録がないと思います。まして九州管轄のため北部九州に住んで勢力を蓄えた (185P) というのでは、もう一度東征しなければならなくなります。

さらに倭の五王については、遣使年と天皇の崩年干支から分析し、実際には七王がいたと結論しています。その血縁関係についてはどうしても天皇家の系譜とあわないところ (賛と弟珍) が残り、それは宋書の編者沈約の誤解だとしています。

倭の五王は九州の倭国の王たちだと考えると、無理なく回避できるのですが、武=雄略天皇は学会の定説です。武の上表文 (479年) は倭国の勢い盛んな様子がうかがわれます。それが九州にあった倭国とすると、磐井の乱 (527-528年) 以前に滅んだこととなり、忙しすぎる感じです。

 

 

 

 

 

 

 

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人はみな万世一系

2019-12-28 20:41:47 | 日記

天皇家は万世一系、というのですが、ふと思うに、人はみな 「万世一系」 ではありませんか? 人類の始祖から今日ただ今生きている私も、あなたも、ずっとつながっているのです。だからこそ人は人として尊いのではないでしょうか。人類みな兄弟、というと何となくウソっぽいのですが、「万世一系」 というとそんな気がしませんか。

天皇家は男系でつながっているから偉い、Y染色体が大切だといった右派の論客がいました。頑迷固陋で、いまだに男尊女卑の観念が抜けないのでしょう。当然ですが女性がいなければ血統はつながりません。また、残念ながらY染色体は意外と “変化” が激しいという研究発表もあったということです。

(日本人男性のY染色体構造変化と精子形成障害の関連」 国立成育医療研究センター)

人が人として生きることのできない天皇制という制度は、いつか終わるでしょう。しかし、人としての万世一系に変わりはありません。あなたも、私も、天皇も。

 

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津田左右吉博士の書を読む

2019-12-28 17:16:13 | 日本古代史

「古事記及び日本書紀の研究」新書版 津田左右吉 2018年、シナノ出版。

収載内容は昭和15年に発禁となった同書、および「建国の事情と万世一系の思想」1946年、雑誌「世界」掲載。

津田博士の本を読まないで記紀や古代史について論じているのもどうかと思い、借り出して読みました。たいへんな労作であり、今さらですが邪馬台国と皇室のヤマトは別の歴史を持っていると明確に論じていることに驚きました。

博士は綿密な文献考証に基づいて、神武東征 (正しくは奠都というべきだそう) は虚構の作りごとだとします。何と言っても、遅くまでヤマト朝廷に反抗したクマソの地がどうして皇室発祥の地でありえたか、また景行天皇期のクマソ征伐ではそこがかつて先祖の都のあった地だということを想起せしめる文字が全く見えないのも奇異、だとします (240p)。言われてみれば至極当然の疑問です。神武東征を史実とするには余程の反証が必要でしょうが、それらしい証拠は出ていません。

また記紀には邪馬台国のこと、中国との交渉のことが全く見えず、そうした歴史を知らなかったのだと結論しているのは、愚見と同じでうれしくなります。

神功皇后の三韓征伐も、船団の出発・到着地、征討軍の進路、その他が具体的でなく、史実とは考えられないとします。仲哀天皇が、西の方を望み見て国などない、神がウソを言っているなどと言ったのですから、新羅のことが知られていなかったということになり、後世の新羅との攻防をこの時代に当てはめただけの作り話ということです。応神天皇が生まれるはずの臨月に石を挟んで3か月も出産を抑えたなど、論外なのはもちろんです。ごく常識的に考えれば史実性が否定されるもので、史実というなら具体的な根拠が必要です。

そして、なぜニニギは日向のタカチホに天下ったのか、については、博士はこういっています。「日の神の御子の故郷が天にあっては高天原、地にあってはヒムカであり、神代の物語においては、日の神の出生地がそもそもヒムカでなくてはならなかった」(248p)。つまりそういう信仰というか構想によって天下り先がヒムカに決定され、その結果として畿内ヤマトへの東征が必要になった、という考え方です。これではまだ根拠薄弱、なぜヤマトの香具山か三輪山あたりではいけないのか、と思いますが、一応の説明にはなっています。

これ以外では唯一、関裕二氏が「神武天皇 vs. 卑弥呼」で、神功皇后が台与であって、ヤマトから征西し卑弥呼を殺して邪馬台国の女王となったが、その後ヤマトに追われて南九州に落ち延び、それが天孫降臨神話となって神武が生まれ、崇神天皇の時に祟りを鎮めるために呼び出されてヤマトに王となった、という説があります。しかしこれは幾重にも仮定・推論を重ねた上に出来上がった、ほぼ空想に近い代物です。

しかしなぜヒムカに天下ったのかについてかりそめにも説明しているのは、浅学の私が知る限り津田博士とこの関裕二氏だけで、比較すれば津田博士に軍配が上がるでしょう。ほかに合理的な説明ができなければ、津田説が最有力です。

博士は、「記紀が説き示そうとすることはわが皇室及び国家の起源であって、民族の由来というようなことではなかった」としています。あくまでも皇室の権威を高めることに主眼があるわけです。本居宣長のような、一字一句を史実とし崇め奉るなどは間違っているといって差し支えない。

それを、今の時代に記紀の記事を史実として教えようという「教科書を作る会」などはまったく噴飯ものです。その真意はどこにあるのか。再び皇民教育を施し、天皇の権威を振りかざして国民を支配しようというのではないでしょうか。そのうち、記紀の分析などをしていると「反日分子」「非国民」などと非難されかねない雰囲気を感じます。負けないように声を上げることが必要です。

 

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