魔人の鉞

時事、歴史、宗教など、社会通念を独断と偏見のマサカリでスッキリ解決!  検索は左窓から、1単語だけで。

先史時代の名もなき天才たち

2022-03-07 11:28:29 | 世界史

「人類の歴史を作った17の大発見~先史時代の名もなき天才たち」 コーディー・キャシディー著、梶山あゆみ訳、河出書房新社、2021年11月。

とても興味深い先史時代の大発見を楽しく丁寧に解説してくれます。

その第1号は、なんと抱っこヒモ。発明者は300万年前に生まれた、まだホモ・サピエンスではないアウストラロピテクスのある女性。チンパンジーと現生人類の中間程度のヒト亜族ですが、これによって育児・赤ちゃん保護が革命的に容易になり、大きな頭の赤ちゃんを安心して生めるということで、このすぐ後の時代に「私たちの祖先の脳は短期間で爆発的におおきくなっている。」(34p)  現生人類誕生の大恩人になるわけです。周囲の皆がそれをまねした社会的学習の能力もヒト亜族の特徴だそうです。

次は、初めて火を起こした人、ホモ・ハビリス 190万年前。

4番目は初めて衣服を身に着けた人、ホモ・サピエンス 10万7000年前。衣服は決して人類に共通する普遍文化ではないそうで、火があれば暖かい衣服は要らない。だから衣服は初めから自己主張のファッションアイテムだった、と論じます。

第8には、初めてビールをつくった人、1万5000年ほどまえの、ヨルダンに住んでいたナトゥーフ人の女性。麦の栽培からビールが作られたのではなく、逆だと言います。当時の麦類は熟すと穂から脱落するので、拾い集めるのは大変で食料としては考えられない。しかし麦の粥を作って1日くらい放置するだけでビールができるそうで、いったんそれを飲めば、味をしめてわざわざ落ち穂を拾い集めるようになっただろう。そして「帰りに種子が道に落ちることがあったのではないか」「それが何世代にもわたってくり返されるうち、村落の近くにコムギ、オオムギ、ライムギがたくさん芽を出して畑になった。」つまりビール造りがきっかけで農耕が始まった、ということになるのだそうです。

いろいろ面白く、なるほどという話ばかり。図書館では珍しくほぼ最新刊でした。もう返却期限を過ぎてしまったので、明日には返さないといけません。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

意外! ローマに大戦略なし

2019-01-28 08:32:52 | 世界史
古代ローマと、隣り合うパルティア帝国の関係史を分析した「ローマとパルティア」 ローズ・マリー・シェルドン著、三津間康幸訳、白水社 2013年。

地中海世界を統一したローマは政治・軍事的に優れており、征服した諸民族を文化的にも同化したすばらしい社会を作った、といわれ、「ローマ人の物語」ではローマ街道の整備と異民族の同化力などが絶賛されています。

たしかに素晴らしいことでした。しかしこの本によると、ローマには「大戦略」を探し出すのは難しい。「現代の歴史研究者は、ローマ人が卓越した戦略家であり、(中略) 防衛可能な境界線を引き、緩衝地帯を設定した。と考えたがる。(237P) (中略) このような考えは全くの幻想である。(238P)」

ローマはパルティアをほとんど知らず、単に蛮族としてとらえ、時には現地司令官が名誉欲で独走して大敗北を喫し、皇帝が取り組んだ場合も戦略目的があいまいなままで決定的な勝利は得られなかった。著者は現代アメリカの戦略との対比を考えているのですが、私はつい太平洋戦争の関東軍と大日本帝国を想起してしまいました。

ローマの将軍の独走は関東軍のそれとよく似ています。パルティア帝国は広大で人口も多く、完全征服には軍がいくつあっても足りなかったと思われるのに、数個軍団で攻撃する。ローマの威力を恐れさせる「衝撃と畏怖」戦略は、結局失敗に終わります。

関東軍は大戦略もなく現地軍が独走し、日本の10倍の人口をもつ中国を押さえつけ、屈服させようとしたのですが、抗日の意欲は衰えず、完全征服はできませんでした。中国人は惰弱だから武力でたたけば屈服すると侮っていたのは、大帝国パルティアをバルバロイと軽侮したローマ人と同じです。

英米と開戦し、中国戦線が膠着すると関東軍を引き抜いて南方に配備します。それは、対パルティア戦のためにゲルマニア方面の軍団を配転したローマと似ています。ローマの北方防衛線は弱体化し、経済的にも疲弊し、ゲルマン民族の侵入を許すようになっていくわけです。張り子の関東軍はソ連の侵入にひとたまりもなく撃破され、ヤルタ密約によりシベリア抑留が実行されました。

パルティアはローマに対してほぼ平和的で、パルティアから侵攻したのは300年間にわずか1回ほどで、ほとんどがローマ軍の侵攻。本格的な戦争の第1回は共和制時代の紀元前53年、クラッスス率いるローマ軍42,000人がスレナス将軍にカルラエで惨敗し、クラッスス自身を含む3万人が戦死しました。このためシリア以東ではローマの威信は地に落ちたと言われます。
ローマはその後も大戦略を立てることなく何度も対パルティア戦争を起こしました。大戦略とは、パルティアとどう決着をつけるか、その見通しを立てるということでしょう。共存か、征服するならどのくらいの戦力をいつまで投入するのか。どう戦争を終結させるのか。戦闘で勝っても征服ではないのです。

中国は日本に侵攻しておらず、攻めたのは日本。大日本帝国は、優位な武力で中国人民を畏怖させれば何とかなると考え、戦争の終結方策を考えなかった。中国では負けていなかった、というのが講和反対の理由の一つになってしまいました。
   (わが家で  2019年1月28日)

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アレクサンダー大王は真の英雄にあらず

2014-02-23 20:08:48 | 世界史

「アレクサンドロスの征服と神話」 (『興亡の世界史1』、
森谷公俊、2007、講談社)。

アレクサンダー大王の父フィリッポス2世はギリシア世界に覇権を確立し、コリントス
同盟を結んで対ペルシア遠征を決定 (前337)。 しかしその翌年フィリッポス2世が暗殺
され、アレクサンドロス3世 (大王) が弱冠20才でその後を継ぎマケドニアの王位に就く。
前334年、父王の整備した当時初の常備軍マケドニア軍とギリシア諸国の連合軍を率いて
東征し、エジプトを降伏させ、アケメネス朝ペルシアを滅ぼし、さらに中央アジアを平定し
インダス川に至る。中央アジアやインドでは諸部族の抵抗強く、多くの町で虐殺を繰り
返す。将兵の厭戦気運が高まり、ついに軍を返した (前325)。
この間わずか12年で空前の大領土を征服し、前323年バビロンにて死去。後継者が決まって
いなかったため将軍たちの後継争いが起こり、やがて3分割される。

当初の目的・名分はペルシア戦争の仇を撃つ、ということで、アケメネス朝ペルシアを滅ぼす
までは良かったのですが、その後は大王個人の、神になりたいという欲望のままに軍を進め、
虐殺を繰り返しました。
文化的にはギリシア人が東方に発展してギリシア文化が広まったと言われていますが、森谷
氏によればそれは以前から交流があったことで、大王によって突然起こったことではない。
また社会制度としては、大王はペルシアの制度と支配階級を温存したので、東方でギリシア
的社会ができたわけでもない、ということです。20か所ともいわれるアレキサンドリアを
建設しましたが、後に残ったのはエジプトの1つだけ。

こういうと稀代の英雄を軽く見るようですが、私が思うに個人的な野心だけで大征服をなし
遂げたもので、文化や制度を変えた人ではない。ローマのシーザーのように夷狄を同化した
わけでもなし、ナポレオンのように新社会の法典を整備したわけでもない。蒙古のように
ただ虐殺し征服して君臨しただけ、ということになってしまったのです。

つまり、征服に理念がない。何のために沢山の人を殺戮したのか。死の直前、自身の神格化
を命じたそうですが、その後熱病で死んだのは神罰ではないか、と感じました。しかし、
もう少し長生きしたらナポレオンのような悲運が待っていたかもしれませんから、あるいは
幸運だったのかもしれません。
       (わが家で  2014年2月13日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モンゴル帝国とは何だったか

2014-02-20 20:07:48 | 世界史

「モンゴル帝国と長いその後」(『興亡の世界史09』 杉山正明、2008、講談社)。
チンギス・カーン (~1227) を創始者とする騎馬遊牧民国家モンゴル (イェケ・
モンゴル・ウルス、1206~) は急速に拡大し、その孫クビライ (1260即位) の
時代に東は中国から西はロシア、中東まで、宗主国ダイチン・グルン (大元) と
チャガタイ、フレグ、ジョチの分家3グルンの連合体として人類史上最大の版図
を支配しました。

しかし文化の中核としての文字を持たなかったので、被支配地の文化をそのまま
利用するのが統治の基本だったようです。中国では漢字文化を利用し、中東では
イスラームに改宗する、といった具合です。
杉山氏は世界帝国としてのモンゴルを高く評価し、統治システムや領域内の駅逓
システム、民族差別・宗教差別のない社会制度が生まれたとしていますが、世界的
普遍的なモンゴル文化というものが生まれ発展したとは言えないようです。

杉山氏は随所に独断的な判断を示しています。日本への蒙古襲来については、
「純客観に、突風や台風などがなくても、遠征は失敗した。」(330p) というの
ですが、その根拠は客観的な分析ではありませんし、始まる前に客観的に分析
して勝敗が分かる戦いなどありません。

また、モンゴルを高く評価するあまり贔屓が過ぎると感じます。一例ですが、
日本には 「茶道・能・書院造り、儒・仏・道三教兼通型の知的体系、漢文典籍と
それを模した五山版 (中略) など、日本文化の基層となるものはほとんどこの時
とその前後に導入・展開した」 (330p) と主張しますが、それはモンゴル文化では
なく異民族に圧迫されていた宋・南宋の文化で、たまたま元と同時代だったという
ことではないのでしょうか。

チンギスの血統は後々までロシアやインド (ムガール帝国) など各地で貴種として
迎えられ、妻に娶られることも多かったそうですが、貴種崇拝はどこでも、現代で
さえあることで驚くにはあたりません。それが人間精神の解放と社会の発展に役
立ったかどうか、が問題になるのではないでしょうか。単に支配したということ
だけでは、アレクサンダー大王と同じであまり意味がないでしょう。
      (わが家で  2014年2月20日)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする