イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

水よりも濃し

2008-10-06 19:30:04 | 世相

麻生太郎新内閣、調査のタイミングが媒体によっていろいろですが発足浅いわりには支持率が渋いようです。

彼のがらっぱちで遊び人まる出しなキャラ、清潔でも明朗でもないのにやたら「明るい日本」を強調するギャップ感が嘘臭さにつながっているかもしれないし、何よりマスコミがやたら衆院解散総選挙の時期を先走って手探りしたおかげで、「いまの首相が何言っても、どうせちゃんと最後までやり遂げやしない」「その場しのぎに決まってる」という、濃ーい不信の空気がすでに立ちこめてしまっているのが、“総裁選3回目、やっと順番が回ってきた”矢先の麻生さんには不運でした。

この人の立ち居振る舞いでいちばん気になるのは、先般の所信表明での「畏くも御名御璽」発言を初めとして、戦後日本の体制を基盤づけた“吉田茂直系”を安易にちらつかせ過ぎることですね。欧米外遊時は確かにそう名乗れば通りはいいかもしれませんが、通るのはいまや一部の年代だけにではないかと思うのですがね。そうでもないのかな。第二次大戦後の世界史を伝える教育がとことん底抜けなのは日本ぐらいなのか。

先日小泉純一郎さんも国会議員引退・選挙区を次男に後継させる表明で話題になりましたが、弊害が言われながらも二世議員・世襲議員は今後増えこそすれ減ることはないのではないかと思います。

自分がそういう角度の視線に晒される年代になった頃からつくづく思うのですが、「お父さんorお母さん、お祖父ちゃんお祖母ちゃん…)にこんなところが、あんなところが似ている」「お父さんorお母さん以下同文)も小さい頃、若い頃こんなんだった」逆に「お父さん(以下同文)には似ても似つかない、誰に似たんだろう」という話題が、日本人は本当に大好きです。ウチの高齢家族と高齢友人、高齢知人同士の世間話の90%はこれ系の話題だと言ってもいいくらい。歌舞伎や古典落語、あるいは大相撲などの伝統芸・芸能の世界は、こういう視線での楽しみを、さしたる継承すべき血筋を持たぬ庶民に提供するためにこそ、存在してきて現に存在すると言っても過言ではない。

伝統に拠らない、映画やTVなどの新来ジャンルの芸能も、特に平成に入ってからはとみにそれ化し、石を投げれば二世役者・アーティスト・タレントに当たる勢いです。増えても仕方がない。そういう楽しみ方を、客が求めているのですから。

月河に親しい昼ドラの世界などは、現行放送中の『愛讐のロメラ』にも典型的な通り、“親の因果・恩讐が子に報い”式の話や、“金満旧家・名家の子弟と、名もなき貧苦の庶民娘との悲恋”話をバリエで繰り返し繰り返しやっていて飽く飽かれる様子もありません。

キリスト教のような唯一絶対神を戴く宗教を昔から持たず、五穀豊穣・諸業繁盛を恵む“お天道様”の神通力も温暖化でめっきり有り難味薄れた21世紀の日本では、“生まれ”“血統”だけが“人知人力を超越した、抗いがたい神聖なる力”の象徴なのかもしれない。最も端的な例は皇室・皇族でしょう。

“生まれ”“血統”に対して日本人が持つ無条件暗黙のリスペクト、裏を返せば“自分だって名のある、伝統ある一族の血統に生まれていればそれなりの人生があっただろうに、運命でそれがかなわなかった”との潜在的な恨みつらみを、あまりに無神経に、当たり前のように刺激し過ぎる麻生さんの言動。

身近な親類知人から、媒体を通じてしか接する機会のない芸能スポーツ一家、政治一家についてまで「お父さんにそっくり」「似ても似つかない」話に花を咲かせて飽くことを知らない庶民の意識下には、“血筋”という、努力や鍛錬で如何ともし難いものに対する、強く根深い畏敬と渇望、ひいてはコンプレックスが秘められています。

「有るのが当たり前、持っているのが普通」の崖の上3万坪御曹司麻生さんには、“憧れても持ち得ない星”に生まれ合わせた圧倒的多数の人々の暗く粘っこい意識が想像できない。だから「吉田の孫」「御名御璽」をみずから発言して畏れるところがない。

すべてのパイが既存から縮小して行く日本のこういう時代だからこそ、月河は非常に危惧するものです。

コメント
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