イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

挨拶する機械

2008-10-24 22:07:02 | デジタル・インターネット

2000年時制の『だんだん』で、再会した双子姉妹めぐみ&のぞみ(三倉茉奈・佳奈さん)が大切そうにやりとりする携帯電話のデザインは、ちょっと懐かしいですね。ディスプレイもキーも露出したストレート型。02年に家族の入院で必要に責められて購入したプリペイド携帯DoCoMo P651psはまさにあのスタイルでした。00年ならまだ、高校生や携帯ビギナーのベーシックな機種として主流だったかもしれない。

ほとんど待ち受け・受信専用でこちらから発信したのは6年半で数えるほどだったけれど、その都度突起引っ張って律義にアンテナ立ててたものです。劇中では、本来舞妓に携帯は禁じられているため、通話の都度置屋のおねえさんたちの目を憚り、屋根壁のない物干し場などに出てくるのぞみ=夢花さんはともかく、自宅の個室で発信するめぐみも、一度もアンテナ立てませんね。あのプルンプルンビヨンビヨンするアンテナ、いかにも“草創期のキカイ”って感じで結構好きだったんですが。

8月に機種変してみていちばん「時代が変わったな」と実感したのは、何の機能のためであれ一度起動させてから電源を切ると、ディスプレイにSEE YOUの文字が出るんですね。携帯が“非常時の保険”でしかない月河なんかには、“微笑ましい余計なお世話”に過ぎませんが、恋人や心許せる友人、単身赴任などでやむなく離れて住む家族など親しい人たちとのコミュニケーションツールとして欠かせない携帯ユーザーには、時に甘く、時に胸かきむしられる、たまらないくすぐりでしょう、閉じる前のSEE YOU

大雑把にここ10年少々で、携帯電話というアイテムがどれだけ普通の人の普通の日常の生活感情に接近し、内ふところ深く入り込んで来たかがわかる。9月末まで録画視聴完走してきた『白と黒』で終盤63話、章吾(小林且弥さん)が聖人(佐藤智仁さん)の上着から携帯をひそかに抜き出し、聖人が(行方不明と偽って知らされた礼子を探しに)飛び出して行ったのを見届けてから力任せに二つに折る場面を見たときは、もう現代もののドラマは、自分には芯の芯までは味読できないかもしれないなぁ…と一抹淋しく思ったことを思い出します。携帯が生活の一部、プライバシーの一環、心の或る部分の置き所になったことが一度もない月河には“人の携帯を盗み出して二つに折る”という行為の持つ意味が、皮膚感覚としても、概念的意味としても、もうひとつ直截に感じ取れないのです。

月河の周囲で携帯なくては夜も日も明けぬ生活を送っている若い諸君を思い出して、日頃耳目にする彼らの生態からの延長線引きつつ、どうにかドラマの章吾たちの心情を想像してみようとしても、それすらきわめて難しい。

『相棒』のような事件もので、“便利な即時連絡用ツール”、あるいはアリバイや人間関係などを解明する“手がかり”として、言わば理知的に使用される分には、「なるほど、携帯でこういうことができ、こういうことがわかるなら、こういう推理が成立するな」と普通に受け容れられるのですが、なんらかの“心情の拠りしろ”としての、情緒的な扱いになると、一気に登場人物が自分と疎遠な存在になる。「こういう気持ちになったときに、携帯でこういう行動・操作をする」という経験的実感がまるでないからです。

めでたく高機能充実な携帯に機種変した現在から、よーいドンでどっぷり使いこなしたとしても、この感覚が大きく変わることはないでしょう。携帯が無いのが当たり前、と言うより“プライバシーの収納場所”“他者との個人的交流の回路”としての携帯電話など、存在すら想像できない時代に人生の半分以上過ごしてしまっていますからね。

特別に残念とも、「もっと早期に携帯に馴染んでおけばよかった」とも思いません。ただ、フィクションの劇中で頻々と使われるツールを“使った経験がない”という点で言えば時代劇、西洋赤毛もの、中国三国志のたぐいなどその最たるものなのに、たとえば刀剣や書画骨董、服飾品について「自分が使ったことがないから、このツールをこう取り扱うときにどういう心情になるかがまったく想像できない」という距離感が発生しないのはちょっと不思議です。

コメント
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