映像作品で何かを主張したり訴えたりする上で、瞬発力においては、やはり、TVのドラマでは劇場映画には敵わないと思います。2時間なり3時間、“映画を観る以外何もすることがない”非日常の映画館というハコにカンヅメになって、大画面大音量でガンガン喜怒哀楽、ドンパチアクションに恋愛にエロ、泣いたり爆笑したりと攻められたら、幕が降り場内再点灯の頃には、どうしたって何かを考えさせられます。
しかしTVドラマ、特に連続ものなればこその力というのも確かにあります。月河はその一つは“待ち時間”ではないかと思うのです。
第1話を見て「この先どうなるんだろう」という期待をどこかに持ったまま、週一のドラマなら一週間、帯ドラマなら24時間、仕事や家事や付き合いなど、面白くもなんともない日常どっぷりの時間がはさまる。
学校と遊びだけの無邪気な子供には子供なり、逆に世俗の身すぎ世すぎにまみれた大人には大人なりの時間があって、その間はトラブルや冠婚葬祭や試験や金策に忙殺され、TVのことなんか思い出しもしない嵐のような時間になることもあります。
一週間後、どうにか無事同じドラマの続きを観られる運びになったときには、自分の中で何かが変わっていて、好感持てなかった人物が意外に同情できるようになったり、逆に、先週まで切実に心配していたヒロインと相手役の問題が何だか些末なことのように思われて「おまえら自分のことばっかり考えてないで、(脇の)○○や××に気遣えよ」と客観的に見えてきたりもします。
ドラマという非日常の世界が、待ち時間を媒介にして観る人それぞれの日常と接ぎ合わされ渾然一体となる。劇場映画ならば上映時間内、せいぜい館を出てからの帰途ぐらいで完結してしまう号泣や哄笑、感動や思うことあれこれが、10週、11週ないし3ヶ月以上もの間、生活という“地”の中に陰に陽に織り込まれて、あるときはガツンと、あるときは微弱にじんわりと続くのです。これはTVという、日常に融け込んだ媒体を使った映像作品でなければ持ち得ない力だと思います。
だからドラマを作るときには、「次回この人、この問題、この状況どうなるのだろう」という視聴者の期待に、言葉は悪いですがとことんつけ込むべきだし、逆に、期待を裏切ったり、軽視したり、疎外したりしては絶対にいけないと思います。
観る人が「この人のこの先を見届けたい、見守りたい」という気持ちになれるように人物は造形しなければいけないし、「この先どうなるんだろう」に確実に答えを与え、「さらにその先は?」と興味が繋がるように事件や事象を構成し叙述しなければならない。
これを、作るほうも観るほうも、まだるっこしいとか遠回しだとか思わずに、待ち時間も込みで楽しみ楽しませることができなければ、良いドラマは誕生しないのではないでしょうか。
近年のTVドラマの慢性的不作は、巷間よく引き合いに出されるネット・ケータイ普及による娯楽の多様化云々ばかりではなく、1話と次の話との間の“待ち”を、作る側も観る側もじょうずに利用できなくなったことが大きいように思います。
………って、結局それもネット・ケータイの影響なのか。
『孤独の賭け ~愛しき人よ~』第2話、とりあえずいまは、堺雅人さん扮する蒔田が「この人の行く末見届けたい」のメイン担当ではないでしょうか。足が不自由になった経緯も、いまのところ説明されそうでされない、いい具合の引っ張りになっていますね。
終盤のパーティーシーンでの、百子(長谷川京子さん)の同僚デザイナー信子(田畑智子さん)とのツーショットがとてもお似合いカップルに見えました。百子は千種(伊藤英明さん)にもうお任せして、信子と付き合って幸せになっちゃえばいいのにな。
それに比べいちばん“先を見届けたくなる”ヒロインであるべきはずの百子は、イヤな女臭がきつくなってきた。敵視している叔父の娘・美香への対応を見ていると、野心と才能を秘めた美人が過去のトラウマを引きずって…というより、単なる、人の痛みがわからないエゴいヤツっぽい。脚本や演出のこれも計算のうちだとしたら、残念ながらハズレでしょう。どうなんだろう、五味川純平さんの昭和の原作を読み咀嚼して臨んだはずのこのドラマのスタッフ、百子という人物に“いまいち惚れ切れない”でいるのではないかな。
いまこのドラマの“待ち時間”を楽しめているのは、蒔田に肩入れしている、もしくは堺雅人さんのファンの人たちだけだと思います。