らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

中国地方の旅(その10)萩市・松蔭神社

2010-04-20 | 旅行
中国地方の旅シリーズも今日で10回目となります。
今日は幕末の思想化・教育者である吉田松陰を祭神としている「松蔭神社」をご紹介します。

山口県萩市の松蔭神社は、「吉田矩方命(よしだのりかたのみこと):(吉田松蔭)」を御祭神としている神社です。
その由緒は、明治23年(1890年)8月、松蔭の実家・杉家の邸内に、松蔭の実兄・杉 民治が松蔭の御霊を祀る土蔵造りの小さな祠(ほこら)を建て、松蔭の遺言により、愛用していた赤間硯と松蔭の書簡とを神体として祀ったのが神社の創建と言われています。

・松蔭神社の一の鳥居です。


明治40年(1907年)、共に松下村塾(しょうかそんじゅく)出身の伊藤博文と野村靖が中心となって、この祠(ほこら)を公の神社として創建しようと山口県に請願し、同年10月4日に、県社の社格をもって創建が許可され、土蔵造りの祠を松下村塾の南隣に移して松蔭神社の本殿としました。
更に、萩城の鎮守で、当時廃社となっていた宮崎八幡宮の拝殿を移築するなどして境内の整備が進められたようです。
現在の社殿は昭和30年に新しく建てられたもので、創建当時の土蔵造りの旧社殿は、松下村塾での門人を祀る末社の「松門神社」となっています。

・松蔭神社の二の鳥居と本殿です。


吉田松陰は、天保元年(1830年)萩藩士・杉 百合之助の次男として長門国(現在:山口県)の松本村(現在:萩市椿東の一部)に誕生し、名は矩方(のりかた)、幼名は寅之助だそうです。
杉家は家禄26石の貧しい半農半士の下級武士ですが、学問には熱心な家風だったようです。

・松蔭神社本殿です。
 松蔭神社は萩市では学問の神様として最も尊敬を集める神社となっており、正月には多くの参詣客が訪れるようです。



吉田松陰は尊皇の大義を唱え、国事に奔走した言動は当時の幕府(大老・井伊直弼)を刺激し、いわゆる「安政の大獄」に連座して江戸・伝馬町に投獄され、死罪を言い渡されました。

処刑の1週間前の安政6年(1859年)10月20日、郷里の両親に書を送った便りの中に有名な永訣の一首があります。

  「親思う 心にまさる親こころ 今日の音づれ 何ときくらん」

 意訳:親をいたわる子の心よりも、子を思う慈愛の方が更に強く痛切である。
     解説には、
     「眞に親を思う孝行息子の至情(真心)の現われであり、断腸血涙の絶唱である」と書かれています。

松蔭はこの歌を辞世として、安政6年(1859年)10月27日、江戸伝馬町の獄内で殉節しました。享年29歳です。

・永訣の一首が書かれた石碑です。


吉田松陰は、嘉永6年(1853年)6月3日、浦賀に来航したペリーの艦隊を目の当たりにして大きな衝撃を受け、外国への密航を図ります。
翌年の3月27日夜、下田沖に停泊中のペリー艦隊に乗船し、アメリカへの渡航を求めましたが拒否され追い返されました。
そして江戸に連行され、国許(くにもと)への幽閉が申し渡されます。
萩に帰った松蔭は野山獄に繋がれました。そして、囚人たちに『孟子』の講義をするなどして野山獄の風紀改善に取り組みました。

安政2年(1855年)12月、野山獄を出て杉家宅で幽閉されますと、今度は家族などを相手に『孟子』の講義を始めました。これに近隣の子弟たちが大勢参加するようになったので、杉家の庭先の小屋を改装して熟舎としました。

・松下村塾です。


現在の松下村塾は、吉田松陰が安政4年(1857年)実家の杉家宅地内にあった小屋を改造して8畳1間の熟舎を開き、更にその翌年10畳半を増築したものです。

・左側が増築した10畳半の塾舎です。


ここで吉田松蔭が教育した期間は1年であり、実家の幽囚時代を含めても2年半に過ぎず、この短い期間に、この粗末な教室から若い松下村塾グループが育ち、吉田松陰の志を継いで尊攘討幕運動に挺身し、明治維新の原動力となりました。

・吉田松蔭幽囚の旧宅です。


・吉田松陰幽囚の旧宅です。


・松下村塾です。


松下村塾は、吉田松陰の叔父・玉木文之進が天保13年(1842年)に、現在史跡となっている「玉木文之進 旧宅」で開いた私塾に「松下村塾」と名付けたのが始まりであり、吉田松陰が始めたものではないようです。幼い時期の松蔭もこの熟に通っていたそうです。
その後、この塾は閉鎖されますが、外叔(がいしゅく:母方の叔父)久保五郎左衛門が開いた塾に「松下村塾」の名称が引き継がれていったそうです。
吉田松陰が主宰するようになると講義内容が尊皇攘夷を旨とし、儒学、兵学、史学等をはじめとした広範な学問が教授され、活発な議論が繰り広げられたようです。

・松下村塾の室内です。


神社の境内には「薩長土連合密議之處」の石碑が建っています。
当時、ここに鈴木勘蔵の旅館があり、1862年(文久2年)1月14日、土佐の坂本竜馬が、同藩の武市半平太(瑞山)の書簡を持って久坂玄瑞を訪ねて来萩し、この旅館に泊まりました。
たまたま、薩摩藩士・田上藤七も同藩藩士・樺山三円の書簡を持って来萩していたことから、図らずも久坂玄瑞を中心に薩長土の三藩が日本の将来を語り合った場所となったようです。

・「薩長土連合密議之處」の石碑です。
 ここに薩長土連合の密議が交わされた旅館があったようです。






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