らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

魔法使いか?「吉備真備」

2024-05-21 | 地元紹介

”晴れの国” と言われている岡山では、2018年7月6日から7日にかけて、後に西日本豪雨と言わる記録的な大雨がありました。
この豪雨では倉敷市真備町一帯が5メートルを超える深さの浸水となり、その被害は、倉敷市だけでなく、総社市や高梁市、矢掛町などに及ぶに至り、県西部や岡山市東区でも堤防の決壊や土砂災害が発生するなどの大災害となりました。
県内では、浸水や土砂災害で61人が命を落とし、3人が行方不明のままとなっています。

「吉備真備公の銅像」
ところで、奈良時代の公卿で学者の吉備真備(きびのまきび)という人物をご存知でしょうか?
西日本豪雨で被害が出た、岡山県の矢掛町と倉敷市真備町の一帯は、その吉備真備が生まれた地として有名であり、矢掛町には吉備大臣宮が鎮座しています。
吉備真備は吉備地方(現・岡山県)の豪族から身を起こし、阿倍仲麻呂らと遣唐留学生となり、様々な学問を習得し、 帰国後、学者から右大臣にまで上りつめ、日本史においては菅原道真と並ぶ天才と称されています。

・矢掛町の吉備真備の銅像です


「遣唐使とは」
遣唐使は630年に始まり、計15回中国の唐へと派遣されました。
しかし、その旅は過酷なもので、船の約四分の一が沈没や漂流等で帰らないという危険に満ちたものでした。
そして、その目的は、内乱が多発し、飢饉や疫病などに苦しんでいたことから、国を強化することが必要だった奈良時代に、遣唐使は、唐との関係を良好にするとともに、その進んだ文化や学問を吸収するための国家プロジェクトだったのです。
遣唐使に選ばれたのは、国の命運を担った精鋭たちで、平城京の大学で優秀さを認められた「吉備真備」をはじめとする遣唐留学生で、その専門分野は、仏教や金属・ガラスの加工、舞踏など多岐にわたっていました。
真備たち一行はおよそ3か月の旅を経て、当時世界最大級の大都市であり、最新の文化が集まる場所だった唐の都・長安に到着したのです。

「魔法使いか?吉備真備」
吉備真備は716年、22歳のときに遣唐使として唐に渡り、儒学、天文学、音楽、兵学などを学んだ後、735年に多くの 典籍(てんせき:書物、書籍)、武具、楽器を携えて帰国しました。
19年も唐に留め置かれたのは、玄宗皇帝がその才を惜しみ、帰国させなかったためとも言われています。

帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て従五位に列せられ、役人の世界でも昇進を重ねて743年には従四位下、春宮大夫(とうぐうだいぶ)兼皇太子学士、746年には吉備朝臣(きびのあそみ)の姓を賜わりました。
しかし750年、突然筑前守として大宰府に左遷されると真備は翌年、再び遣唐副使となって唐に渡ります。
753年には鑑真を伴って無事に帰国しました。
その後、大宰大弐(だざいのだいに)となり、怡土(いと)城を築き、大宰府防備の策を献じました。

吉備真備は唐から帰国後、大学改革や最新の中国語の普及に尽力し朝廷の注目を集め、政治の中枢へと抜擢されていきました。
天皇の信頼を得た真備ですが、朝廷では権力争いが深刻となっていました。
実権を握ろうとする貴族・藤原仲麻呂と孝謙上皇の争いでは、真備は上皇側の軍の指揮官となり、巧みな戦術で仲麻呂軍を倒したのです。
その後、朝廷では僧侶・道鏡が天皇の寵愛を受けて台頭します。
右大臣にまで出世した吉備真備は775年、81歳で亡くなりました。
激動の奈良時代を、最新の学識で支え続けた吉備真備は、その手際の良さから、後世に“魔法使い”と称えられることになります。

・矢掛町の吉備大臣宮です。


「吉備大臣宮」
遣唐使として中国に渡った吉備真備を祀る神社です。
学問に秀でていた真備公にあやかろうと、受験シーズンには多くの受験生が参拝するそうです。

吉備大臣宮が鎮座している矢掛町は私の実家のがある笠岡市の隣町に立地していることから、10年ほど前に参拝した時に撮影した画像を使用しています。

コメント (1)
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