らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

カイドウと楊貴妃伝説

2021-03-29 | 

美人が雨に濡れ、海棠の花のようにうちしおれている可憐な様子を例えた慣用句に「海棠の雨に濡れたる風情」があります。
他にも「海棠(かいどう )睡(ねむり) 未(いま)だ 足らず」と、楊貴妃の目覚めの様子を例えた慣用句もあります。
このように
、カイドウは美人の形容によく用いられる美しい花です。

その「カイドウ(海棠)」は春を代表する花の一つで、中国では唐の時代の絶世の美女・楊貴妃に因んで「睡花」とか「眠りの花」とも言われています。
いま、我が家のその花が満開なのでご紹介します。



カイドウの日本への渡来は江戸時代の初期ごろと伝えらています。
薄紅色の花びらの可愛らしさから日本では「ハナカイドウ(花海棠)」と名付けられましたが、花先きを長く垂らして咲くことから、別名でスイシカイドウと呼ばれることもあります。



中国故事には、唐の第6代玄宗皇帝が、前夜の酔いが醒めぬまま起きて眠そうにしている楊貴妃を見て、「海棠の睡むり未だ足りず」と、その妖艶な美しさをカイドウに喩えています。
楊貴妃といえば、日本では世界三大美女、中国では古代四大美女として有名な歴史上の人物で、756年6月14日に中国で亡くなったとされていますが、何故かその墓が日本にもあるというのです。



そこで日本に伝わる楊貴妃伝説を調べてみました。

「楊貴妃伝説の由来」
日本に伝わる伝説は以下のようです。
安史の乱の兵士らから、その原因となった楊貴妃殺害を求められた玄宗帝は、かばいきれずに楊貴妃を縊死(いし=首吊り死)させたとされています。
しかし、時が経ち楊貴妃の改葬が行われた際には遺体の判別がつかず、お香の入った袋だけが残っていたことから、「侍女が替え玉となったのではないか」あるいは「蘇生したのではないか」という噂が流れました。
そして、本人は日本に逃れたものの、ほどなく病を患いこの世を去ったと言われているのです。

「その理由」
こうした説が浮上した理由について、
・楊貴妃が非常に慕われる性格であったこと、
・玄宗帝と軍の間を取り持っていたのが楊貴妃の前夫である寿王李瑁(りぼう=玄宗皇帝の第18子)で、彼が手助けした可能性が十分にあること、
・楊貴妃を縊死させたとされる高力士(こうりきし=玄宗皇帝の腹心)との関係も非常に良かったこと、の3つがあると指摘されています。

更に、「楊貴妃殺害を求めた陳玄礼らがその死を確認した」とされていることについて、中国でも「陳玄礼が皇妃の殺害を迫るという不敬に兜を脱いで許しを請うた」とされていることから、遺体を確認するというそれ以上の不敬には及ばなかったのではないかとみています。
人間に首をつらせること自体容易ではなく、専門家もいなかったことから、内侍が意図したか否かにかかわらず気絶するにとどめ、人々が去った後に蘇生した可能性もあるとされているというのです。

実際、山口県長門市には楊貴妃伝説が以下のように伝えられています。

「日本の楊貴妃伝説」(
長門市HPより)
日本で云えば奈良朝の昔、唐の国では天宝15年(756年)7月のこと、向津具(むかつく)半島の岬の西側、唐渡口(とうどぐち)に、空艫舟(うつろぶね)が流れ着きました。
舟の中には大層気品のある美しい女人が、長い漂流でやつれて横たわっていました。
お側の侍女が申すには、「このお方は唐の天子、玄宗皇帝の愛妃・楊貴妃と申されます。安禄山の反乱により処刑されるところを、皇帝のお嘆きを見るに忍びないということで、近衛隊長が密かにお命を助け、この舟で逃れさせ、ここまで流れ着きました。」と涙ながらに言いました。
息も絶え絶えの楊貴妃を里人たちは手厚く看護しましたが、その甲斐もなく、間もなく息を引き取られました。
そこで里人たちは、西の海が見える久津の丘の上にねんごろに葬りました。
それが今、二尊院の境内にある楊貴妃の墓と伝えられておる五輪の塔だということです。

(参考)
「安史の乱」
安史の乱とは、755年~763年、唐の玄宗の末年から起こった安禄山(唐代の軍人)父子・史思明(ししめい:安禄山の部下)父子の反乱です。
乱後、節度使(地方組織の名称)の自立化が進み、唐は衰退に向かったのです。