そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

「いつか王子駅で」 堀江敏幸

2007-03-23 23:12:57 | Books
いつか王子駅で

新潮社

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堀江敏幸が2001年に「熊の敷石」で芥川賞を受賞する直前に書いた長編。
といっても、自分は彼の小説を読むのは初めてで、恥ずかしながら芥川賞作家であることすら知らなかった。

この小説を知ったのは、一月ほど前の日経新聞の夕刊。
その記事は、徳田秋声の「あらくれ」について書かれたものだった。
「あらくれ」は成瀬巳喜男監督、高峰秀子主演の映画を観たことがある。
まさに「あらくれ」者のヒロインが、高峰のイメージにぴったり嵌っていた。
これまた知らなかったのだが、「あらくれ」の舞台は王子界隈なのだそうだ。
その関連で、記事中、本作が一部紹介されていた。

自分は、3歳から26歳まで、王子の隣町に住んでいた。
王子界隈にはたいへん馴染みがある。
前置きが長くなったが、それで興味を持って読んでみた、という次第である。

本作の主人公は、王子駅から荒川方面にのびる都電荒川線の電車道近くに下宿する青年。
どうも作者自身をモデルにした感じで、作者が1964年生まれ、小説が書かれたのが2001年だから、30代半ばくらいの設定だろうか。
独身で、水産関係の教育施設でアルバイト教師をしながら、翻訳の仕事で細々と生計を立てている。
古書に目がなく普通の人が読まないような埋もれた作家の小説を好んで読み、少年時代からの競馬ファンでキタノカチドキやテンポイントの昔話に花を咲かす。
黒電話を欲しがったり、ロードレーサータイプの古自転車を衝動買いしてしまったり、車など乗り物が好きなのに免許を持っていなかったり、ちょっと俗世間から外れて生きている人物。
出来事らしい出来事も起こらないまま、物語は進む。
肩に龍の刺青を背負った印象彫りの老人や、老人と出会った居酒屋の女将や、下宿の大家である零細旋盤工場の経営者や、古書店の主人など、王子界隈に暮らす昭和の香りを漂わせる人々との、なんてことのない交わりが淡々と綴られ、そこに主人公が読む小説の引用(「あらくれ」も含む)や、競馬にまつわる昔話が挿入される。

庚申塚から飛鳥山にかけての民家と接触せんばかりの「ホームストレート」だとか、飛鳥山に突き当たってから王子駅まで車道との併用軌道である下りカーブだとかといった都電の描写や、あらかわ遊園の観覧車に乗って見下ろすコンクリートの護岸に囲まれた隅田川など、このあたりの風景を日常生活の場としていた自分は、それを読んでいるだけで嬉しくなってくるのは正直なところ。
一方で、北区のこの辺りはいわゆる「下町」には違いないんだけど、例えば台東区や墨田区などのそれが持つ情緒が漂っているわけでもなく、単に時代に取り残された殺風景なちょっとイケテナイ町、という印象も実感としてあるので、この小説での描かれ方はちょっと懐古趣味から美化されすぎという気もする。
それから、小説の中に「咲ちゃん」という女子中学生(主人公が家庭教師をしている)が登場するのだが、屈託がなくって、陸上部のトップランナーで、勉強は苦手という設定なのだが意外に勘がよかったりして、要するにちょっと魅力的に描かれすぎな感じ。
なんか、作者の女子中学生に対する願望が反映されているのかなぁとか、余計なことを考えてしまったり。

と、ちょっとケチをつけるようなことを書いてしまったが、読後感は清涼で、描かれる世界の「何気なさ」の漂わせ方は特筆もの。
自然に世界に浸ることができる。
起承転結がはっきりした話でもなく、途中から始まって途中で終わる、みたいな時間の切り取り方も良い感じ。

あと、この人の(この小説だけなのかもしれないが)どこまでもどこまでも読点でつないでいくような、長いセンテンスの扱いは名人芸的。
最初は読みづらくてもだんだん慣れてくるから不思議。
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