そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

『「働き方」の教科書:「無敵の50代」になるための仕事と人生の基本』 出口治明

2015-08-22 17:03:14 | Books
「働き方」の教科書:「無敵の50代」になるための仕事と人生の基本
出口治明
新潮社


ライフネット生命のCEO兼会長、出口さんの著書。
去年読んだ『仕事に効く教養としての「世界史」』がかなり良くってその後も何度か読み返しているし、いろんなところで著述活動やインタビューなどで語っている内容からも信頼がおける人だと感じていた。

こういうエッセイ風の書き物は、すべてを鵜呑みにするのではなく、ヒントになるような考え方が幾つかでも得られればそれで十分だと思っているが、そういう点では収穫大。
肩の力が抜けていて、それでいて熱い想いも込められているところがよい。

出口さんの人生観は「人間はチョボチョボだ」の一言に込められる。
もともとは小田実氏の言葉だそうだが、人間なんて大した生き物ではない、人生の99%は失敗だし、成功者はよっぽど運の良いほんの一握りの人たちだけ、たとえ人生をドロップアウトしたとしても多数派たる失敗者の一員になったと思えばよいのだ、と。

そしてこの本の中でもっとも共感したフレースは「仕事は人生の3割」。

チョボチョボで3割だからテキトーにやってもよい、という意味ではもちろんない。
自分自身の、そして周囲の人間の不完全性をしっかり認識しながら、その範囲で懸命に考え、正しく行動し、得られた知見を次代に伝え残すことが大事だ、ということ。
歴史の大きな流れの中で人間の営みを考える、出口さんらしい考え方だ。

20代の人に伝えたいこととしては、「やりたいことは死ぬまでわからない」「就職は相性で十分」「考える癖をつける」「仕事はスピード」といったことが挙げられる。
まったく同感。
特に「仕事はスピード」、たとえ完全でなくてもタイムリーに成果を示していくことでレスポンスを得ることができる。

ちょうど自分の年代、40代に向けては、まず、部下はみんな「変な人間」だと思えと。
そう、いくら言っても想いが完全に伝わることはないし、思い通りに部下を動かすことなどできない。
その前提でマネジメントを考えることが肝要。

そして、マネージャーとして広い範囲をみることになった暁には、「得意分野を捨てよ」と。
よく知っていることは放っておき、よく知らないことを勉強する、全体を粗く見る、そしてやはりここでも有限の感覚を持たなければならない。
何もかもできるなんて思ったらあかんよ、ということ。

そして、出口さんが「無敵」の年代と呼ぶ50代。
50代こそ起業にもっとも向いている、という。
50代になれば、人生のリスクがかなり具体的に把握できるようになっており、コストとして算出可能になる。
そして起業にもっとも必要となる「目利き」と「お金」に恵まれているのも50代だという。
50代は「遺書」を書く時代だとも言う。
ここで「遺書」とはそれまでの人生で得られた知見のこと、それを次代に伝えるために起業することで社会と経済に貢献せよ、ということだ。

正直言うと流し読みした部分もあるのだが、やはり総じて出口さんの話は面白い。
真似できるかどうかはともかく、これからの人生が楽しみになってくる。
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『戦後リベラルの終焉』 池田信夫

2015-08-21 23:04:55 | Books
戦後リベラルの終焉 なぜ左翼は社会を変えられなかったのか (PHP新書)
池田 信夫
PHP研究所


Kindle版にて読了。

池田氏のブログなどではお馴染みの議論が並び、新たな知見はあまり得られない。
それはある程度予想できたのだが、せっかく書籍にまとめられたのだから、もうちょっと体系的に頭に入りやすくなっているかと思っていたが、そうでもなく、相変わらず雑多な感じ。
どう整理するかは読者に委ねられている感じだが、おそらく池田氏の頭の中ではきれいにまとまっているのだろう。
氏は頭がよすぎるんだろうね。

と言いつつも、エピローグに総括的な一節がある。

つまり本質的な問題は、官僚機構の実権が大きく、政治家は彼らの立案した政策に文句をつけるロビイストのような存在になっている行政国家にあるのだ。これは明治時代にプロイセンから輸入した制度で、もう百年以上続いているので、変えることはきわめて困難だ。


明治の日本人は偉かった、ところが昭和の初めに軍部が暴走して破滅への道を歩んだ、その反省から戦後平和主義が長く続いた、ここにきて社会全体が右傾化しきな臭くなってきている…といった一般的に受け容れられているイメージとは異なり、もう100年以上前から一貫して日本社会の病理は本質的に変わっていない、と。
戦後リベラルが影響力を持っていたように思われているのも幻想で、みんなが貧しくて且つ高度経済成長で努力すれば報われる環境であったからこそそれなりの存在意義があっただけの話。
リベラルが劣化したというより、元々大したもんじゃなかった、その化けの皮が剥がれただけ。
まとめるとしたら、そんなところか。

リベラル勢力が世の中からそっぽ向かれている一方で、左翼的な考え方にシンパシーを抱く傾向が強い団塊世代(全共闘世代)が高齢化社会で有権者中の一大勢力となっているが故にポピュリズム政治がその存在を無視できない、というちょっと捩れた状況になっているのは確か。
まあ、あと十年二十年もすれば団塊世代も徐々に人数が減っていって状況も変わっていくとは思うけど。

ただ、リベラルだけが悪いわけじゃなくって、最近の国会議員の程度の低い舌禍なんかを聞くにつけて「保守派」を自認する人々の質にも相当に問題があるのも事実だろう。
リベラル勢力は世の中をよくすることについて殆ど何もできなかったけど、世の中が変な方向に行かないようにするための歯止めとしての価値は一定程度あったのかもしれない。
リベラルが退潮して歯止めがなくなった時にどんなことになってしまうのか、その点はちょっと心配ではある。
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『忘れられた巨人』 カズオ・イシグロ

2015-08-16 14:48:36 | Books
忘れられた巨人
Kazuo Ishiguro,土屋 政雄
早川書房


カズオ・イシグロがファンタジーを!という点で話題になっているようだが、確かに竜や鬼や妖精などが出てくるものの、さほどファンタジー色は強くなく、やっぱり純文学の印象。
6世紀頃のイングランドが舞台で、ブリトン人とサクソン人の争い、とかあんまりピンとこないのだが、荒涼とした自然を舞台にした冒険旅行記である。
といいつつも、旅をする主人公は老夫婦であり、その他老騎士なども登場して、アクションシーンはあるものの全体としての流れはゆったりとしている。
夫が妻を「お姫様」と呼ぶ、老夫婦の純愛が全編に通底し、『日の名残り』にも通じるような気品が漂っているのだが、その一方、霧が晴れたときにあらゆることが覆されて惨禍へと陥る予感に満ち溢れる不穏さが常につきまとう。
その妙味に身を委ねるのがこの小説を読む醍醐味だろう。
けっして「面白い」小説ではないが。
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『アンダーグラウンド・マーケット』 藤井太洋

2015-08-10 20:36:59 | Books
アンダーグラウンド・マーケット (朝日新聞出版)
藤井太洋
朝日新聞出版


舞台は2018年の東京。
「近未来」といえば近未来すぎるほどの設定だが、TPPによる移民自由化により東京には外国人によるコミュニティが根を張り、他方、日本人の若年層では正規雇用からあぶれた者たちが「フリー・ビー」としてエスニックコミュニティと地下経済に関わりながら生きている。

キーになるのが「N円」と呼ばれる仮想通貨。
貧しくも厳しい外国人とフリー・ビーの社会では、高率の消費税を負担せずに簡易に決済できるN円が普及し、N円による地下取引によるアンダーグラウンドマーケットの存在が肥大しつつある。
ECサイトの構築支援を生業とする主人公のフリー・ビーたちは、N円決済にまつわるトラブルに巻き込まれ、やがて巨大勢力の陰謀渦巻く危険な領域へと足を踏み入れていく。

仮想通貨「N円」は、否が応でもBitcoinを連想させるが、(名指しこそされないものの)Bitcoinが失敗した後にアジア発で侵入してきた通貨として描かれる。
EC、移民、税制、雇用環境…今日的な社会の課題が背景として設定され(TPPのほかマイナンバーにも言及される)、しかもその課題の捉え方が適切でリアリティがある。
フリーのクラウド型会計システムがデファクトスダンタードになっており、そこにN円による決済を組み込むスキルが重宝される、なんてかなりマニアックだが実に「ありそう」な話だ。
一方で、電車賃にも窮する主人公たちの移動手段が、高速で走ることのできる自転車である点が、小説に文字通りの疾走感を与えてくれる。

とにかく設定が魅力的だ。
が、本作では設定の魅力ばかりが勝って、お話自体はわりと淡白に終始してしまった印象。
この設定で様々なエピソードが読みたくなる。
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『そうだったのか現代思想』 小阪修平

2015-08-09 17:30:00 | Books
そうだったのか現代思想 ニーチェからフーコーまで (講談社+α文庫)
小阪修平
講談社


Kindle版にて読了。

現代思想といえば知識欲を刺激されるものの、Eテレの『100分de名著』でニーチェを、内田樹さんの本でレヴィ・ストロースをほんのちょっと齧ったことがあるくらいで、ハイデガーだサルトルだフーコーだと言われても何がどう違うのかさっぱりわからん自分。
この本は入門書としてはかなりわかりやすい、とどこかで読んだので挑戦してみた次第。

著者はすでに故人(2007年に60歳で死去)ですが、全共闘世代で、東大を中退、在野の評論家として活躍しつつ予備校の講師も務めた人物。
本書は1990年代前半に朝日カルチャーセンターで著者が行った講義を書籍化したもので、2002年に再編集して文庫化されたもの。
ということで、20年前くらいの議論なので最新の内容とは言えないのだろうけど、その後の「失われた20年」では現代思想なんて世間でほぼ関心を払われていない気がする(自分が知らないだけかもしれんが)ので、大差ないのかも。
本書の中でも浅田彰の名前がよく出てくるけど、自分が小学校高学年くらいだった1980年代前半には確かに思想ブームってのがあって、大学受験の時の現代文の試験問題に記号論に関する文章とかよく出てきたな、なんて思い出したり。
現代思想の影響って、全共闘世代・団塊世代の下のラインでぶっつりと途切れている印象は確かにするのだよね。

正直、これを読んで現代思想が「解った」ということは全くなく、また、さらに深く学んでみようという意欲を掻き立てられたということも全然ないんだけど、まあ大まかな「流れ」みたいなものをちょっとはイメージできたかな、と。
以下、僭越ながら自分なりの理解でその「流れ」をダイジェストしてみる。

まず著者は、現代思想の源流として、ニーチェの思想、フロイトの精神分析学、ソシュールの言語学の3つを挙げる。

【ニーチェ】
旧来の哲学の「破壊者」
「神は死んだ」→それまでの哲学が基準としていた「価値」「真理」を否定。
生の中心をなすのは「力への意志」である。

【フロイト】
「無意識」からの力をもとに人間の心のモデルを組み立てる。

【ソシュール】
先にモノがあって言葉はそれを映すのではなく、逆に人間の認識というのは言葉を通じてしかありえないのではないか、との考え方。
言葉をつくっているのは「差異の体系」
→言葉の制度から逃れて自由を求めるのは、言葉の規則をうまく使いながら、実は今までの規則から逸脱したような言葉を使う、ということではないか。

そして、現代思想へと思想のシーンの転換期に登場したハイデガー、サルトル、レヴィ・ストロース。

【ハイデガー】
世界を「見る」という働きの背後にある存在=「人間」
人間を、モノとしての存在とは異なるあり方をもった存在として捉える。

【サルトル】
人間の自由意志を強調。

【レヴィ・ストロース】
文化人類学の見地から、様々な文化における社会制度を、対立関係を軸に数学的な「構造」として捉える→構造主義、客観主義
(→次第に「実はそんなに客観的ではない」ことがわかってくる→ポスト構造主義=ポスト・モダン)
「歴史」「人間」の特権性、ヨーロッパ中心主義に対して批判的。

で、以降は「狭義の現代思想」、各論に入っていく。

【デリダ】
ラング(言語)から逃れるために、言語をある決まりきった使い方から「ずらしていく」。
その中にある種の「自由」がある。

【ドゥルーズ=ガタリ】
人間の「欲望」に着目。

【ロラン・バルトとボードリヤール】
モノの消費から、モノに与えられた社会的な意味、記号としての意味の消費へ。
言葉の中に、あるいは記号の中に「自由」を見ていっても、言語の体系を乗り越えることができない。
→あらゆる過去が神話作用を通じて現在になっていく、あらゆる超越性が消費されていく。

【フーコー】
「自分」の二重性→どれだけ説明しても、またそれについて意識する自分というのがある。
近代の空間は、ある排除によってその部分が成立するという構造を持つ→「権力」の概念の範囲を広げた。

で、まとめ。

現代思想というのは、「絶対的な真理」「確固とした主体」を批判する、相対主義への流れである。
が、相対主義というのはどうしても「恣意性」を含んでしまうことが問題である。

日本でもかつて(1966年くらいまで)は「知識人」が社会をリードしていくんだという意識があった。
それが高度成長、大衆社会の到来により崩れていった。
知識人が自分自身を問わなくてよい幸福な立場にはいられなくなり、どんなことを言っても「お前が勝手に考えただけだろ」という恣意性の批判を浴びるようになってしまった。
こういう反問に答えるには、自分自身のなかの不透明な部分をとりあえず認めて、それに鷹揚になることが必要。
現代思想が批判している古典的な「自己」「道徳」ではない形での、自己や倫理に対する問題の立て方がありえるはずで、それが21世紀初頭の大きな課題の一つであろう。

というのが、著者の〆めであり、この課題提起をして21世紀初頭にこの世を去っていったわけです。

どうだろう、21世紀に入って15年が経とうとしている現在においても、社会はどんどん相対化していて、それによる様々な対立もまた先鋭化しているような気もする。
著者が投げた課題提起に対する答えはどこにあるのだろう?
(共同体回帰?それもまた違うような気がするな)
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