そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

カワカミプリンセス

2006-04-30 23:52:33 | Sports
天皇賞のディープインパクトは凄かった。
向こう正面から3コーナーであれだけ桁違いの脚を使って順位を上げておいて、そのまま影をも踏ませず押し切ってしまうんだから、恐れ入る。
長く競馬を観ているが、あんな勝ち方はまず見たことがない。

ところで、注目は東京メインのスイートピーステークスを勝ったカワカミプリンセス。
珍しい馬名だと思ったら、三石川上牧場が生産兼馬主のようだ。
こういうちょっと古風な馬名の馬が活躍するのも楽しい。
相手関係もあるだろうが、今日の勝ち方もなかなか見事だった。
東京コースにも合っていそうだし、本番オークスでもおもしろいかもしれない。
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私的「格差」考(3) 「勝ち方」を教える社会

2006-04-29 21:34:50 | Society
「格差の固定化」について考えてみる。

まず、階層社会というのは今に始まった話なんだろうか、という素朴な疑問。
むしろ、身分社会の名残りが濃かった昔の方が階層は固定化されていたのではないだろうか。
豊臣秀吉だとか田中角栄だとか稀に例外は存在するし、明治維新後の近代国家形成過程など貧しい地方出身者でも能力さえあれば立身出世できた時代もあったようだが、一般的には家柄などの出自によってその人の将来の可能性はかなり限定されていたのではないか。
人間の生まれ育つ環境は画一ではなく、同じような家庭環境で育った者同志の方が価値観を共有しやすいし、そのような者同志でコミュニティを形成するのも自然なことである。
そう考えると、出自による階層社会化というのも自然な流れに沿ったものと言えなくもない。
むしろ、ちょっと前までの一億総中流社会の方が特殊なありようだったのかもしれない。

しかし、一方でグローバリゼーションの時代である。
かつて世の中の人たちが分かち合うパイが十分にあった時代と異なり、分け前があまねく行き渡らない現代では、階層間の対立は深刻なものになる。
勝者は永久に勝者であり続けようとする。
なぜなら一旦敗者に転じると再び勝者に舞い戻ることが著しく難しいからである。
よって敗者に対しては、様々な巧妙なシステムにより敗者の立場から脱出できないような仕掛けを作る。
敗者が苦しい境遇に置かれることになる一方で、勝者も勝者であり続けることに尋常ならざるエネルギーが必要である。

格差社会に関する批判を受けた際、小泉首相は「一度負けても何度でも再挑戦できる社会を実現する」と反論する。
が、「勝ち方」を知らない敗者が何度再挑戦しようと、勝ち目があるのだろうか。
何度挑戦しても負け続け、しまいには敗北感から挑戦する意欲を喪失する。
そういう構図が出来上がるだけなのではないか。

敗者には単に再挑戦の機会を与えるだけでは不十分で、どうやったら勝てるのか、「勝ち方」を教えてから再挑戦させる必要がある。
勝者は永久に勝ち続けるのではなく、たまには「負けてやる」余裕を持つ。
そういう社会を目指すべきではないか。

「負けても再挑戦」の対立スローガンが「負け組ゼロ」とは、あまりに極端すぎる。
その中間に目指されるべき着地点があるのではないか。
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「陰日向に咲く」 劇団ひとり

2006-04-27 00:07:25 | Books
陰日向に咲く

幻冬舎

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最近は心がけて流行りモノを読んでいるので、これも読んでみた。

悪くない。
少なくとも金の無駄、時間の無駄だったとは思わない。
ま、仮に彼が2作目を書いたとして、読みたいとは思わせるほどではないけど。

器用なのは間違いないが、作劇にしても描写にしても突き抜けるオリジナリティに欠ける。
設定がベタだし、描かれる世界観も想像の範囲内に小さく縮こまっている。
1篇目のホームレスの話、2編目のアイドルオタクの話あたりは、ベタさが丸出しでいただけない。
3篇目から好転し、4編目の多重債務者のギャンブラーの話は、テンポで笑わせられるし哀切さも醸し出し、なかなか良い。
5編目は物語としてはともかく、巧妙なワザ(ネタバレになるので詳しくは書かないが)が駆使されていて、そのことに感心した。

5編の短編は、それぞれ登場人物が微妙に交錯し重なり合う。
群像劇においては使い古された手法で特段目新しさはないが、このあたりにも器用さが伺える。
(上記した「巧妙なワザ」とはこのことを指しているわけではない。)

ネット上でも絶賛されまくっているようだが、「読みやすい!」という感想が目に付く。
著者本人も「難しい漢字を使わず、とにかく読みやすく書くことを心がけた」というようなことを話しているのを見た。
ここ数年、小説にしても映画にしても、「泣ける!」という評価があたかも褒め言葉であるかのように世間で当たり前のように使われていることに違和感を抱いてきたが、この本の成功を受けて、これからは「読みやすい!」という尺度が評価軸になってしまうかもしれない。
そう思うとやや暗澹たる気持ちになる(別に難解だからエライなどと言うつもりはないけど)。
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私的「格差」考(2) 価値規範の揺らぎ

2006-04-22 23:52:56 | Society
前回のエントリでは、格差社会を捉えるアプローチを4つの類型に分類してみた。
それぞれのアプローチについて、もう少し詳しく考えをめぐらしてみたい。

まずは第一番目、格差の存在自体を否定的に捉える考え方について。

そもそも資本主義社会とは、格差の存在を前提にした社会だと言えよう。
先々週号だったか「R25」のコラムにも書かれていたが、「価値ある情報」とは「多くの人がそれを知りたいと思う情報」であり、且つ「殆どの人がまだ知らない情報」である。
たとえ重要な内容を含んでいたとしても、既にみんなが知ってる情報には価値が無い。
情報に限らず、モノであれサービスであれ、その人にしか作ることのできないモノ、他では経験できないサービスにこそ人は価値を見出し、そこに需要が生まれる。
いわゆる「差別化」というヤツである。
持つ者と持たざる者が存在することで需要と供給が生まれ、競争によりよりよいモノやサービスが生産され、経済社会が効率化する。
資本主義の下では「格差」はエネルギーの素となるのである。
「格差」の存在を否定的に捉え、結果平等を求めることは、突き詰めれば資本主義の否定に他ならない。

ロシア・東欧、そして中国を飲み込んだ資本主義は、今や世界の津々浦々まで席巻しようとしている。
かの北朝鮮でも市場経済を一部取り入れようとの試みが為されていると聞く。
世界各国で様々な社会運動が展開されていようとも、資本主義を捨て去ろうという主張がされている例は有力には存在しないと認識する。
人類は資本主義に替わるイデオロギーを未だ持ちえていない、というべきか。

だがその一方で、現在の日本に「アンチ資本主義」的な「気分」が漂っていることも事実であるように感じられる。
それは一体どういうことなんだろうか。

一つには競争に対する疲弊という側面が挙げられるのではないか。
グローバル化、そして情報伝達スピードの飛躍的に向上した現代社会において競争に勝ち抜くには相当な苦労とエネルギーを要する。
いいアイデアを思いつき、他者との差別化を図ることができたとしても、情報がすぐに伝わる現代社会ではすぐに陳腐化してしまう。
競争に継ぐ競争が必要とされる。
一方で、経済のグローバル化により、中国や東南アジアの賃金の低い労働者とも伍していかなければならない。
そのような非常に厳しい状況下で、個人は疲れ果て、競争そのものに嫌気がさす。

また、資本主義が標榜する合理性だとか効率性の神話に対する不信感も強まっているように思う。
合理的で効率的な世の中が、本当に幸せをもたらしてくれるのか?
こうした雰囲気は、世界的に広がる嫌米の潮流にも重なる。

要は、格差云々ではなく、「価値規範の揺らぎ」が問題なんだと思う。
高度成長で年々パイが大きくなっていた時代には真面目に努力すれば報われる世の中だった。
高度成長が終り、バブルもはじけた後は、競争で他人を蹴落とさなければ成功できない世の中になってきた。
とにかく効率化を極限まで推し進め、競争力を高めることが重要。
だけど、本当にそれでいいのか?
合理性・効率性に代わる(あるいは補完する)価値規範が今求められている。
教育基本法を改正して道徳教育を強化しようなどといった試みも、これに関連呼応した動きなのではないかと思う。

求められる価値規範とはいったいどんなものなのだろうか?
それが簡単に分かれば苦労はしないが、自分は「誠実さ」がキーワードになると思う。
人類が資本主義を選択し続ける限り、競争を続けていかなくてはならないことは否定できないが、その競争を正当で、且つ過当でないものにする必要がある。
それが「誠実な競争」である。
では「誠実」とは?
正直であること、嘘をつかないこと、それは当然である。
が、誠実とは単に真面目ということとは違う。
愚直に言われたことだけやってるのではダメなのだ。
常にイノベーションを心がける必要がある。
そして、そのイノベーションを実現しようとする努力の目的は、単に利己的なものであってはならない。
世の中のためになることをする、その結果として自分自身にも果実がもたらされる、そういったサイクルを常に念頭に置くべきだ。
それは滅私奉公、自己犠牲といったものともまた異なる。

そんな「誠実な競争」。
その結果として生まれる「格差」であれば、我々は受け入れることができるのではないだろうか。
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私的「格差」考(1) 格差社会は何故いけない?

2006-04-20 00:02:36 | Society
ここのところ盛んに語られている「格差社会」。
日経新聞の朝刊一面でも今日から特集が始まった。
個人的にも興味があるテーマだし、最近読んだ本もこれに関係のあるものだった。

自分の頭の整理の意味からも、数回に分けて思うところを綴っていこうと思う。
もちろん拙い知識を基にしており、掘り下げも浅いので、まとまりの無い文章になることが予想されるし、どの程度のペースで書いていけるかもわからないので、その点はあしからず。

*********
「格差社会」を「良くないもの」というのが一般的な論調であろう。
では何故「良くない」のか?
そこのところって、人によって念頭に置いているイメージがバラバラになっているような気がする。
「格差社会は良くない」「否、必ずしも悪くない」といった類の論争を聞いていても、イマイチ噛み合っていないように感じるのは、その理由によるものではないかと思う。
まずは「格差社会は良くない」という漠然とした主張のバリエーションを整理することから始めたい。

第一は、「そもそも格差があること自体良くないことだ」とする立場。
本来平等なはずの人間が金持ちと貧乏人に分かれることを「否」とし、せいぜいそこそこの金持ち、そこそこの貧乏くらいの差に収めるべきだという考え方である。
端的に言うと「結果平等」を重視する立場である。

第二には、結果的に格差が生じることは已む無しとしながらも、その格差が固定化することを「否」とする立場である。
努力の結果として格差が出ることは仕方ないが、出自によって努力しても報われる目が無いような社会にはすべきでないとする考え方。
「機会平等」を重視する立場といってもいいかもしれない。

第三の立場は上二つとは切り口を異にする。
「弱者に冷たい社会は許せない」とする立場である。
老人、病人、障害者など、社会的弱者への保護を薄くし、福祉切捨てを行なう社会として格差社会を捉えるイメージである。

第四に、「地域格差」を重視する立場である。
都市型政治家である小泉首相が「格差社会の権化」として非難される場合、いわゆる「地方切捨て」が念頭に置かれているケースが多いように感じる。

まだまだバリエーションはあるかもしれないが、ざっと思いつくままに挙げてみた。
それぞれの立場は完全に独立するものではなく重なるところもあるとは思うが、一口に「格差社会」と言っても人によってイメージするものは異なり、そのあたりをきちんと整理してからでないと有益な議論はできないのではないかと思う。

じゃあ、整理した上でどう考えるか。
続きは次回。
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さすが新庄

2006-04-18 23:34:27 | Sports
記録より記憶の思い実現 最後まで貫く新庄流 (共同通信) - goo ニュース

試合後の会見では、「開幕戦の札幌ドームが満員になったことで、オレの役目も終わったな、と」。
一方で、「取れる、と思った打球がワンバウンドしたり、刺せると思ったのに刺せなかったり・・・」とプレーの面での限界も語っていた。

若い頃から人気先行の人ではあったけれど、特に守備・走塁の面では彼にしかできないプレーを魅せるスペシャルな存在でもあった。
「人気だけ」の存在になってしまうことが彼自身の美学に反しているんだろうと思う。

それにしても開幕直後のこの時期に引退表明。
新庄じゃなきゃ考え付かないし、たとえ考え付いても実行しない。
これこそが才能。

「残り試合、プレーする姿を目に焼き付けてください」って、あと100試合以上あるやん
脱帽です。
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ルーズな性格は損?

2006-04-14 23:42:43 | Diary
今週は精神的に疲れる一週間だった。

自分は基本的に企画屋なので、アイデアを出したり、仕事を進めるための戦略を考えたり、プレゼン資料や説明資料を作ったり、といった作業をするのは好きなんだが、あまり細かい性格ではないので見積もりを出させて甘いところを突付いて値切ったりとか、そういうのは得意ではない。
今週はそんな苦手な作業の連続だった。

しかも相手方の営業さんがいい人で、一生懸命やってくれてるのがよくわかってると、何だか難癖つけるのが悪いような気がして。
ところが、身内にそういうところに細かくて厳しい人が一人いると、なんだかんだうるさいことを言われて、取引先にも厳しく当たらざるを得なくなる。
それで今週はけっこうイヤな思いもした。

そういう折衝をどこまで細かくやるかというのは、企業によって、或いは業界によってかなりレベルが異なるように感じる。
それがまさに文化というものなんだろう。
ルーズな者同志だったら、ルーズな折衝、ルーズな契約でも、お互い気にしないだろうが、こと文化が違うもの同志が取引するとなると大変である。
で、そういう場合、細かい側の方に合わせないことには、合意ができないことになる。
ルーズな性格の人ほど苦労するのだ。
時々「えっ、あんな大雑把な性格の人が?」って思うようなタイプの人が胃潰瘍になったりするが、意外とそういうものなのかもしれない。

でもルーズな性格の人は、イヤなことがあってもけっこうすぐ忘れてしまう。
そういう点でやっぱり世の中うまくバランスが取れているのかもしれない。
ま、かく言う自分も土日休めば、今週の気苦労をさっぱり忘れてしましそうだけど
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「マルクスだったらこう考える」 的場昭弘

2006-04-07 23:58:48 | Books
マルクスだったらこう考える

光文社

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以前に「 共産主義=悪を刷り込まれた世代? 」というエントリを書いたことがあるが、自分の場合、世代的にも個人的にも共産主義に対するアレルギーがある。
生まれてこのかた、マルクスなんて見向きもせずに生きてきた。
が、最近ではそのように自分がこれまで目をくれることの無かったような考えについてもなるべく興味をもって視野を広げていこうという考えもあり、書店で目についたこの本を読んでみることにしたのである(あんまり難しく無さそうだったし)。

不況・リストラの嵐に労働者が苦しんでいる現代の日本(この本が書かれたのは2004年)に、マルクスが登場したら・・・という仮定を置きつつ、生粋のマルクス研究者である著者(1952年生まれ)が現代社会(世界)に対する見方を展開していく。

目からウロコ、というほどではなかったが、正直けっこう新鮮で感銘を受ける点があったことは否定しない。
グローバリゼーション、アメリカの覇権主義、格差社会など、現代社会をずばりずばりと断罪していくあたりは歯切れが良く、なるほど自分よりも少し上の世代の人たちがマルクス主義に傾倒していった気持ちもわからなくはない気がした。

著者によれば、20世紀終盤に崩壊したソ連型の社会主義は、マルクス主義の本質を備えたものではなかったとのこと。それらは所詮国民国家の単位という制約をもったものであり、資本主義のグローバリゼーションに対して抵抗力を有するものではなかったと。共産党独裁による「私有制」であったとまで言う。

で、グローバリゼーションが世界の隅々まで行き渡り、全世界が資本主義に飲み込まれたときこそ、グローバルな労働者の団結をもってマルクス主義は資本への抵抗力を持ち、ついに真の階級闘争が始まると。

うーん、ここまでくると、理念としてはわからなくはないんだけど、やっぱり夢物語のようにしか聞こえないなぁ。
共産主義が成立するための最大のポイントって、人がどこまでフリーライダー(ただ乗り者)に対して寛容になれるか、だと思う。
自分よりも能力が低い人間、或いは自分よりも怠惰な人間が、自分と同じ生活レベルを送ることを許容できるかどうか?
それって人間という動物の本質として無理があるように思うんだよなあ。残念ながら。
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内輪話はもうヤメにしておくれ

2006-04-06 22:55:04 | Politcs
民主代表選、党内無党派の争奪激化 個別訪問、政策訴え (朝日新聞) - goo ニュース

ついに小沢民主党誕生ですか。
えっ?まだ決まってないって?
でもねえ、今さら菅直人でもないでしょう。

一応「解党的危機」なんだから。
結党以来最大の危機にあたってついに真打ち登場、みたいな雰囲気を何となく作り出したことだけでも小沢の勝ちだと思うが。

マスコミの解説ときたら「小沢アレルギー」だの「挙党態勢」だの、そんなんばっかだけど、そんなの国民には何の関係も無いって。
勝手に党内でやってくれ。
選挙したくらいで党が割れるとしたら、そもそも一つの党であること自体が無理。

そういうの、もう流行らないと思うんだよね。
小泉純一郎がどうしてこれだけ長期間にわたってウケたかといえば、永田町の論理やら自民党の常識やらを無視して、徹底して「国民からどう見えるか」を意識して振舞い続けたからでしょう。
もちろんそのことはポピュリズムの誹りを受けてしかるべきではあるけれど。

民主党も少しは世の中の空気を読んで「国民の目」を意識できるようにならないと、いつまでたっても同じことを繰り返すような気がしますが。
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満開

2006-04-02 11:32:36 | Diary
昨日、近所の川沿いで撮った写真です。
まさに、満開。


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