そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

『大往生したけりゃ医療とかかわるな』 中村仁一

2014-03-30 14:49:48 | Books
大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死」のすすめ (幻冬舎新書)
中村仁一
幻冬舎


Kindle版にて読了。

老いて死ぬことが少し楽しみになってくる一冊。

病院の院長・理事長を経験し、現在は特養老人ホームの常勤医師を務める著者は、現代人は、誰にでも必ず訪れる「死」についてあまりに無意識になり過ぎていると云います。
「死」を考えることは、「死」が訪れるまでに「どう生きるか」を考えることであると。
そして社会が「死」を「あってはならないもの」と考えるがゆえに、穏やかな「自然死」を迎えることが難しくなっている。
そして、医療が穏やかな死をますます妨げる。
「繁殖を終えた年寄りには、「がん死」が一番のお勧め」など、やや偽悪的なユーモラスな語り口を交えながら、持論が展開されます。
肉親が老いに差し掛かり、自分自身も人生の後半戦に足を踏み入れた自分にとって、考えさせられるところの多い本でした。

以下、憶えておきたい一節を。

・ほとんどの医者は、「自然死」を知りません。人間が自然に死んでいく姿を、見たことがありません。だから死ぬのにも医療の手助けが必要だなどと、いい出すのです。

・病気の80%は医者にかかる必要がない、かかった方がいいのが10%強、かかったために悪い結果になったのが10%弱(ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」のインゲルハイム編集長の言葉)

・本来、医療は、本人の身体の反応する力を利用するもの

・なぜ予防はできないのかといえば、インフルエンザウイルスの進入門戸は、鼻やのどの粘膜だからです。ワクチンを打っても抗体ができるのは、血中であって、これらの粘膜ではありません。

・熱の高さと重症とは関係ありませんし、頭がおかしくなることもありません。高い熱が出た場合、頭のおかしくなる脳炎や脳膜炎が混じっていることもあるというにすぎません。

・しんどいのは熱のせいではなく、熱の出る原因のせいなのです。熱は原因ではなく結果です。熱を下げても、原因がなくなるわけではありません。

・死に際だけでなく、人間が極限状態に陥った時、脳内にモルヒネ様物質が分泌されるのは、どうやら間違いのない事実のようです。

・すべてのがんが強烈に痛むわけではありません。さんざんがんを痛めつけても、痛むのは7割程度といわれています。つまり、裏を返せば、3人に一人は痛まないわけです。

・がんは老化ですから、高齢化が進めば進むほど、がんで死ぬ人間が増えるのはあたりまえです。超高齢社会では、全員ががんで死んでも、不思議ではありません。

・抗がん剤が、「効く」として採用、承認される基準があります。それは、レントゲン写真など画像の上で、がんの大きさ(面積)が半分以下になっている期間が4週間以上続くこと、そして、抗がん剤を使った患者の2割以上がそういう状態を呈することというのが条件です。8割もの患者が反応しないようなものが、薬として認可されるなど、他では考えられません。

・だいたい、「早期発見」「早期治療」は、完治の手立てのある、肺結核で成功を収めた手法です。これを、完治のない生活習慣病に適用しようとすることに、そもそも無理があります。

・考えなくてはならないのは、何のために精密検査をするのか。検査結果を踏まえ、事態を好転させる治療法があるのかどうか、だと思います。

・年寄りを安静にさせすぎますと、二次障害が起きます。この二次障害を廃用症候群といいます。廃用、つまり使わないと廃れるということです。


もちろん、この本に書かれていることを全て鵜呑みにする必要は無いでしょう。
が、今、世の中で常識とされていることをもう一度疑ってみて、よく考えてみることのきっかけにはなる。
というか、超高齢化社会を迎え、人びとの価値観も変わっていく中では、著者が書いているような考え方が共感を及ぼす範囲が今後広がっていくような気もします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『V字回復の経営』 三枝 匡

2014-03-27 23:27:57 | Books
V字回復の経営 2年で会社を変えられますか (日経ビジネス人文庫)
三枝 匡
日本経済新聞出版社


Kindle版にて読了。

著者の三枝匡氏は元ボストン・コンサルティング、日本の経営コンサルタントの草分け的存在。
その三枝氏が実際に経営再建に関わった企業の実例をベースにして書き上げた、事業改革のストーリー。

フィクションでありながら、実際のモデルがいるという点で極めてノンフィクションに近い、という形式が一風変わっていて、臨場感があるようでいて具体的な悪さ加減がイマイチ切実に伝わってこないような印象を受けますが、書かれていることは至極真っ当で有用な内容だと感じました。

特に、「改革の9つのステップ」のうち、最上流にある「期待のシナリオ」と「成り行きのシナリオ」をどこまで具体的にイメージできるかが、個人的には最も肝要かと。
すなわち、「あるべき姿」と「直視した現実」のギャップを認識しない限り改革は始まらない。
ここが曖昧なままだと分析もできないし、改革のコンセプトやストーリーを描くことができず、コンセプトが甘く、ストーリーが魅力に欠けていたら、メンバーもモチベーションを高めることもできないのだから。

それができて初めて、実行フェーズに移ることができる。
「実行」に当たっては、トップが現場任せにせずにこだわりをもってフォローすること、そして、現場レベルにコンセプトを落とし込むためのツールを作り上げて適用すること。

著者があとがきで述べているように、確かにこれは不振企業の再建という場面に限らず、あらゆる企業活動に適用できる考え方だと思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サービス業の生産性とギフトの経済学

2014-03-19 23:11:04 | Economics

3月17日付け日経新聞朝刊「経済教室」より。
筆者は柳川範之東大教授。

優れた日本のサービスは「おもてなし」として外国人を感動させるが、国際比較すると日本のサービス業の生産性はあまり高くないとされる。
それは何故か?

理由の一つとして計測上の問題が挙げられる。

 サービス業の生産性を計算する際、通常は小売マージン(利ざや)を産出量とみなすが、それがサービスの品質を十分に反映しているとは言い難い。消費者の満足度が企業側の金銭的リターンに結びつかない場合が多いからだ。
 例えば慶応義塾大学の中島隆信教授は、金銭的価値だけでなく消費者の満足度も反映して計算すると、実はサービス業の生産性はさほど低くないと指摘している。経済産業研究所の森川正之副所長の実証研究でも、製造業に比べ業種や事業所によって生産性のばらつきが大きいうえ統計が未整備で、一般的なマクロデータから計測することが難しいことが示されている。

サービスの質が金銭的リターンに結びつかない理由を解くカギとして「ギフト(贈与)の経済学」が挙げられます。

 我が国のサービス業では、実はサービスの販売だけでなく、同時にある種のギフトを提供している面が強いと考えられる。対価を直接的には要求しないサービスである。そもそも動機がギフトを与えることなので、金銭的リターンを得るとかえってうまくいかない。クリスマスプレゼントを渡すと同時に相手に金銭を要求したのではプレゼントの意味がなくなってしまう。
 販売したサービスに加えてギフトのサービスを提供すれば、当然売り上げはコストに比して相対的に低くなり統計的な生産性は下がる。これが日本のサービス業の基本的な構造ではないだろうか。 

自分が常々考えていたことを的確に言語化してくれたなあ、という感じ。

で、論考は企業がギフトを提供する動機と、長期的利益につなげるギフトの戦略性に展開します。

 日本のサービス業は伝統的に、長期的関係に基づく情報の蓄積と、属人的な経験に基づく顧客ニーズの予測に支えられてきた。しかし、海外との交流や競争が進み、サービスもローカルで固定的なメンバーに限って提供することが難しくなっていく。こうした中で新たな顧客への対応力を身につけるには、データベースを構築し、システムを通じてきめ細かい対応をすることがますます重要になるだろう。
 「おもてなし」は素晴らしい。だが国や企業にとって、自身の強みの源泉を整理し、環境変化に合わせてバージョンアップしていくことは必要不可欠な戦略なのである。 

「おもてなし」もアナログからデジタルへ、ということですかね。
確かに長期的関係を前提にするのはますます難しい世の中にはなっている気がします。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『フード左翼とフード右翼』 速水健朗

2014-03-16 22:52:00 | Books
フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人
速水健朗
朝日新聞出版


Kindle版にて読了。

「フード左翼」「フード右翼」とは言い得て妙。

フード左翼とは、ベジタリアン、スローフード、地産地消、無農薬、マクロビオティックなどを嗜好し、食や農の資本主義化や効率化に対する反発を抱く人々。
「工業化」された農業・畜産業や、遺伝子組み換え技術に対して恐れと嫌悪を持つ。

一方、フード右翼は、ジャンクフードやファストフードなど、フード左翼が嫌う資本主義化された安くて高カロリーな食品を好んで食す層。

ただし、本書では、専らフード左翼を語ることに紙幅が費やされ、フード右翼についてはそのカウンターとして対置されるくらいであまり詳しく触れられていません。
右翼というより、どっちかと言うとノンポリ?という印象も。
食の資本主義化に疑問を抱かずに身を任せているだけという感じがする。

著者は「何を食べるかは政治的態度の表明」であると断じます。
確かにこの視点は面白い。
今どき政治運動に力を注ぐ人など殆ど存在しないけど、食の消費にはその人のポリシーが現れる。

それから、「フード左翼は都市部でしか成立しない」とか「有機農業は実は環境に優しくない」とかって話もなかなか興味深い。
結局、フード左翼というのは富裕な国の富裕な人々による贅沢であるということなんだな。
人口減少で国民の胃袋の絶対数が減り、社会階層が分断される方向性にあるであろう日本のような「成熟社会」では、フード左翼は少しずつ勢力を増していくのかもしれない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

怪しい円安原理主義

2014-03-11 22:30:37 | Economics

久々に「大機小機」がわけわからんかったのでエントリ。

本日の日経朝刊マーケット総合2面コラム「大機小機」は、「魔笛」氏による「円安と日本経済」。
円安は雇用不足の日本経済の損得勘定で、必ずプラスに働く、との主張。
以下引用。

 では、輸入原料に頼る企業はどうか。
 例えば、15ドルの原材料を輸入し、国内で2000円文の価値を加えて作る商品を考えよう。1ドル=100円の場合、輸入原材料の円建て価格は15ドルで1500円、付加価値の2000円は20ドルになる。そのため海外市場では35ドル、国内では3500円となり、35ドルの外国産品と競合する。
 1ドル=200円ならどうか。15ドルの輸入原材料は3000円になるので、2000円の付加価値と合わせて国内では5000円、海外では25ドル。外国産品は海外で35ドルのままで、日本に輸入されると7000円になる。これでは国内外で国産品に負ける。
 このように、少しでも国内で価値を加える商品なら、海外の競合品への競争力は必ず増す。さらに、国内の付加価値の割合が高い商品ほど上昇幅は大きい。このことは同業者との競争ではもちろん、異業種との関係でも成立している。 

なんか高度なことを言っているようで、実は当たり前のことしか語っていないのだが、それはそれとして。

注意しなければならないのは、引用文の例では、1ドル=100円の時3500円だった国産品の国内価格が、1ドル=200円では5000円に上がっていること。
要するに輸入インフレ。
価格が上がった分、消費者の可処分所得が向上しなければ、いくら海外産品に対する競争力が上がったところで、需要は増えないだろう。
モノを買うのを控えて貯金したり、サービス消費に切り替えたりするのがオチではないか。

要は、著者の関心は製造業にしかなく、視野狭窄に陥っているのか、確信的にまやかしを書いているのか、どっちかなのだろう。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『未完のファシズム』 片山杜秀

2014-03-09 23:21:51 | Books
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命―(新潮選書)
片山杜秀
新潮社


Kindle版にて読了。

戦前の日本陸軍において「皇道派」と「統制派」という二派の路線対立が存在したことは日本史の教科書にも載っている事柄ですし、それぞれの派閥を代表する人物としての荒木貞夫や永田鉄山といった名前も知ってはいだけれど、この歳になるまで、具体的にそれがどんな路線対立であったのかについては全く知識がなかった。
そのあたりを学ぶことができただけでも非常に興味深い。

第二次大戦期の日本軍、そして日本人を象徴するキーワードとしてまず挙げられる精神主義。
その精神主義はどの時点からどのようにして生まれ、拡がっていったのか。

日本が、第一次大戦に「参加」した時点では、日本の軍人は戦争の有り様が急激に変わっていることを客観的かつ合理的な視点で見ていた。
これからの戦争は軍隊だけでやるものでなく、国民総動員で国家としての生産力全体を競うことになる、「持たざる国」が「持てる国」に対抗することが極めて難しい時代になっていくことをよく理解していた。
それが何故極端な精神主義に振れてしまったのか?

皇道派は、日本が「持たざる国」であることを十分に認識した上で、勝てる戦いだけを選んで精神力と奇手奇策で短期決戦必勝を期すことを主張する。
精神主義でありながらも、戦いを選ぶ点では冷静な視点を持っていた。

一方、統制派は、「持たざる国」を「持てる国」に近づけるための経済運営に関心を集中する。
統制派の中でも最もラディカルな主張を持つ石原莞爾は、30年後の世界最終戦争を見据えて一大産業集積地として満州経営を提唱し満州事変を起こす。
拙速に戦いを挑むべきではない、という点でこちらもまた冷静であった。

ところが、時代の趨勢は皇道派の思い描くような短期決戦にも統制派が思い描くような経済運営優先にも展開せず、「持たざる国」のまま果てなき泥沼の戦争へと突き進む。
そして、ただ精神主義のみが文脈を外れて一人歩きして存在を増していく。

皇道派も統制派も、それぞれが抱いていた総力戦思想はいずれも行き詰まり、政治や軍事をコントロールすることができなかった。
著者は、その原因を明治憲法のシステムに求める。
誰も強権的なリーダーシップを取り得ないシステム。
しばしば戦前のこの時代は、「軍事独裁」と表現されるが、むしろ戦前の日本はファシズム化に失敗したと言えるのではないか、と。
それが「未完のファシズム」と表現される。

本著で、中柴末純という人物を初めて知った。
中柴は、「生きて虜囚の辱めを受けず」で有名な「戦陣訓」の作成に携わった中心的人物。
天皇制を精神主義に絡めていく中柴の主張は、本著でも詳らかに解説されるが、いくら説明されてもその論理展開は自分には殆ど理解不能だった。

著者は、総力戦に不向きな「持たざる国」でありながら中途半端に大国となっていたことに戦前日本の悲劇はあったと云います。
背伸びして列強と渡り合わなければ未来はない、しかし渡り合うための慎重に事を進めるだけの責任政治や強権政治のシステムに欠けている。
そして破滅を迎えることとなる。

翻って、21世紀の現代日本。
今の日本は「持たざる国」では最早ない。
その分余裕があるのかまだ救いだろう。
だが、その余裕もどこまで維持できるのかは怪しいところもある。
しかも、リーダーシップの不在という点では戦前から何も改善されていない。
身の程を知った上での、慎重に慎重を期した舵取りが果たしてできるのだろうか?
戦前の失敗から学ぶことができるのか、心許なくなって少々薄ら寒い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『沈黙の町で』 奥田英朗

2014-03-07 22:07:49 | Books
沈黙の町で
奥田英朗
朝日新聞出版


久々に一気読みしてしまった上質ミステリ。

奥田英朗といえば、伊良部シリーズのようなコミカル系、東京物語のような甘酸っぱい青春系も素晴らしかったけど、それらとはまた違ったクールなテイスト。
圧倒的な筆力と読みやすい簡明さでページを繰る手が止まらなくなる。

不良でもオタクでもないごく普通の中学生集団に流れる空気の潮目が変わっていく様が、恐ろしいくらいナチュラルに描かれる。
そして、生徒たちの間に形成されゆくスクールカーストだけではなく、親や学校、警察、マスコミといった大人の組織エゴもリアルに描くことで物語が重層的な厚みを持つ。

敢えて言えば、閉鎖的な地域社会というテーゼにはあまり踏み込めていない印象。
また、転落死した少年の造型にやや露悪的というかご都合主義的なところがあり、小説全体の空恐ろしさを弱めてしまった感はある。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『教場』 長岡弘樹

2014-03-01 17:16:07 | Books
教場
長岡 弘樹
小学館


人気あるらしいんだけど、ずいぶんとケッタイな小説だな、というのが印象。

ジャンルとしては警察小説?
警察組織のダークな部分に無理矢理焦点を当てて作劇を捻りだしているという感じ。
なんか『笑ゥせぇるすまん』とかと通底するものがあるような。

短編連作で、ミステリ仕立てではあるのだけれど、それが徹底されているわけでもなく。
人間模様は表面的で浅いし、作劇の手管もたいして深くない。
でも、その浅くて統一感のないテイストが独特の魅力になっているのもまた不思議。

まあ退屈はしませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする