そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

「日本人はなぜシュートを打たないのか?」 湯浅健二

2007-11-30 23:43:25 | Books
日本人はなぜシュートを打たないのか? (アスキー新書 018) (アスキー新書 18)
湯浅 健二
アスキー

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著者はサッカージャーナリスト・指導者。
1970年代にドイツにサッカー留学してコーチ・ライセンスを取得、帰国後当時日本リーグの読売クラブのコーチを務めた人物。
ホームページに掲載している日本代表やJリーグの試合評はサッカーファンの間で広く支持されているようです。

こういうタイトルの本ですが、日本人がシュートを打たない理由については然程紙面を割いて論じられているわけではありません。
著者の言葉を借りれば、本著の基本コンセプトは「サッカーを語り合うための基盤整備」。
「基本的には、サッカー経験のない(でも、ちょっとは興味のある)一般生活者やビジネスマン(ウーマン)の方々をターゲットに」書いた、とのこと。

本著は、サッカーの勝負は「ボールがないところで決まる」ことを教えてくれます。
常にスペースを狙って走り続ける「クリエイティブなムダ走り」、ボールの無いところで忠実に行う全力でのチェイス&チェック。
サッカーにおいてはそういったプレーが決定的に重要であることが、著者のドイツ留学時代の試合中に経験した出来事をベースにして論じられます。

そしてサッカーというスポーツが本質的に有する「心理ゲーム」としての要素。
自由の利かない足でボールを扱うサッカーは基本的にミスが起きやすいスポーツであり、一方で、ミスを犯すリスクを恐れていたら創造的なプレーは何一つできない。
リスクを冒すからこそ自由が生まれる。
シュートを打てる場面でありながらミスを恐れて味方にパスを出してしまう日本選手…(この点がタイトルにつながるのです)。

自分もサッカーを観戦するのは大好きで、Jリーグがスタートした頃から彼これ15年ほど観ていますが、所詮プレー経験のない素人なので、試合の勝負を分けるポイントがどこにあるのかだとか、真にチームの勝利のために価値のあるプレーをしているのはどのプレーヤーなのかだとかを的確に見抜く自身は無いというのが正直なところです。
試合を観ていてもついついボールを保持しているプレーヤーにばかり目が行きがち。
でもここ最近はテレビ観戦しているときでもボールホルダー以外の選手の動きを少し気にかけるようになってきています。
それはやっぱりイビチャ・オシム氏が日本代表の監督となり、その含蓄のあるインタビューを興味を持って聞いたり読んだりするようになったことの影響が大きいように思います。
オシム監督がジェフ千葉に植え付け、そして日本代表でも実現しようとした「人もボールも動くサッカー」。
それこそが著者の理想とするサッカーであり、オシム監督は著者にとっての理想の監督像なのです。

オシム監督が病床にあり、後任の代表監督の選任が進められています。
岡田氏が後任になったらオシム流のサッカーは継承されるのか、守備重視のつまらないサッカーになってしまうのではないか、などといった期待と不安がさかんに語られています。
一方でJリーグは大詰めを迎え、明日の最終節で優勝チームが決まります。
過酷な日程に蝕まれ天皇杯でJ2の愛媛FCに完敗してしまったアジア王者レッズが、J2降格の決まっている横浜FC相手に本来のサッカーができるのか。

この本から得た知見を頭に置きながら、新たな目で試合を観る。
なんだかちょっと楽しみになってきます。
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理解されない日本

2007-11-26 23:25:37 | Politcs

日経ビジネス「NBonline」に面白い記事があったのでメモ。
タイトルは「シリーズ:日米関係は大丈夫か?(5) 福田訪米が静かに映し出した日米間の相互無理解」
筆者は冷泉彰彦氏。
氏のコラムは以前にも引用したことがあります。

先日の福田総理の訪米、ブッシュ大統領との首脳会談に対して、現地でほとんど関心を払われなかったことを題材にして、日米両国の世論相互の間に横たわる「どうしようもない無理解」について解説していきます。

無理解が生じてしまう大きな原因の一つとして筆者は「歴史における時間感覚のズレ」を挙げます。米国において日本を第2次大戦の「旧敵国」ととらえる感覚がかなり風化しているのに対し、日本はまだまだそのトラウマから逃れられていない、という点です。

特に面白かったのは、筆者が米国で生活を送る中で接している「普通に生活している米国人」が持っている「平均的な感覚」が紹介されている下りです。

例えば、ある米国人ビジネスマンから「日本が軍事面での国際貢献を進めていくと、右傾化して国際社会に迷惑をかけるという論法があるけれど、それは犠牲を出したくないという甘えなんじゃないだろうか。ナショナリズムというコストを払いながら社会のバランスを取るというのは、今の世の中ではどこの国でもやっているじゃないか」と言われてドキッとしたことがある。この人の頭の中では、「戦後」はとっくに終わって、日本は小沢一郎氏の主張する意味以上に「普通の国」になっているのである。

 匿名掲示板におけるナショナリスティックな表現にしてもそうだ。中国系米国人で日本語を勉強している学生に聞いたところ、彼は「2ちゃんねる」などに見られる反中嫌韓などの書き込みにはよく目を通すのだと言う。私は一瞬、読んだ内容について激しい反発があるのだろうと身構えたが、そんなことはなかった。彼の表現では「あの程度の表現はどこの国でも普通じゃないのかなあ」というのである。

 日本を普通の国だと見る発想がある一方で、自分を普通の国だと思っていない日本人への苛立ちは深い。日本が国内で左右に分裂し、お互いに敗戦体験のトラウマをベースに軍事外交について考えることしかできないのに対し、米国人はそうした発想法を全く理解できないのだ。

 例えば、プリンストン大学でのシンポジウムで保守系の研究者と話した時のことだが、その研究者は「日本に国際貢献を迫ると、賛成するのは戦前回帰の匂いのする連中だけなんだ。ホンネを言うと、そんな連中と組むのはイヤだけど、ほかに賛成してくれるグループがないから、ワシントンなんかはイヤイヤ手を組んでるのさ」と言っていた。

 少し専門家に属する人の発言でもこうなのだから、一般の米国人には、靖国神社を巡る賛否の議論などは全く分からないだろう。反対に「非武装中立」を善として、あらゆる軍事的なものを悪とする、それを理念だけでなく、あらゆる具体的な判断に用いるという発想法も全く理解されない。

 そんな中で、福田首相としては「給油」の継続が難しいことを米国側に説明するにしても、憲法の制約という言い方しかできなかったのではないだろうか。当局者同士のやりとりはともかく、公式のコメントとしては、それ以上詳しく説明しても、そもそも伝わりようがないのである。左右対立の結果としてそうなったとして、その右と左の中身を説明しても納得は得られず「要はカネを出したくないし、かといって独自の貢献も思いつかないのだろう」と言われるだけだからだ。

コラムはこの後、「サムライ」と「カウボーイ」というステレオタイプなイメージでお互いを見ていることに代表される「相互無理解」の話が続きそっちも興味深かったのですが、上に引用した部分だけでも十分面白い。

先日読んだ「一度も植民地になったことのない日本」にも、日本人の戦争、平和に対する感覚はヨーロッパ人にはまったく理解できないものであることが書かれていました。

欧米人にはまったく理解できない非論理的でドメスティックな戦争感覚・平和感覚があったからこそ、戦後日本はこれだけの繁栄を達成したのは間違いないでしょうが、未来永劫これを続けていくことが果たしてできるんだろうか…

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陰影顛末

2007-11-26 20:57:17 | Diary
人間ドックの胸部X線検査で「異常陰影の疑い」と通知された件ですが、先週の月曜にCT検査を受け、今日その結果を聞きに行ってきました。

結果は、「異常なし」。

最初のX線検査で左肺の部分に映るはずの動脈がはっきり確認できず、何か間に悪いものがあって見えない可能性もあるので再検査ということになったけど、CTで確認したところ何も無かった、ということだそうな。
説明は3分で終了。
そんなんだったら電話か郵送で結果知らせてくれればいいのに(わざわざ仕事中抜けして行った)…とも思いましたが、まあそういう訳にもいかんのでしょう。

CTの検査料は4,550円。
”安心料”だと考えるしかありませんな。

ここのところこのブログのアクセス解析を眺めていると、「異常陰影の疑い」などのキーワードでウェブ検索やブログ検索して訪問されている人も結構いらっしゃるようです。
同じように健診の結果で不安になってる人が世の中たくさんいるんでしょうね。
自分も検索したから気持はよくわかります。
コメント (2)
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好転反応

2007-11-25 17:54:19 | Diary
買い物から帰って昼ご飯食べると急激に睡魔に襲われました。
単に満腹になって眠くなったというのとはちょっと違う。
だるくて仕方ない感じ。
どうやら昨日のカイロプラクティック好転反応が出たみたいです。
心なしか首筋のあたりの血行が良くなって、それがちょっとした頭痛につながっている感覚。
しばらく仮眠してみたところ今は治まっています。
効果が期待できるかな。
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擬似臨月

2007-11-25 17:41:06 | Diary
妊娠19週目に入ったヨメのお腹は順調に、というかすごい勢いでデカくなってきています。

今日午前中近所のスーパーに買い物に行った時のこと。
一緒のエレベーターに乗り込んできた妊婦さんに、ヨメが「何か月ですか?」と声をかけました。
「今まだ13週目なんです。」と答えた妊婦さんのお腹は、確かにヨメに比べるとまだまだ小さい。
妊婦さんから逆に尋ねられました。
「来月あたりご出産ですか?」

……出産はまだ5ヶ月も先なんですけど。
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金土日の三連休

2007-11-24 21:43:43 | Diary
ハッピーマンデー法が施行されて以来、土日月の三連休が格段に増えてすっかり慣れてしまったせいか、たまに金土日の三連休があるとどうも感覚がずれてしまう。
一昨日の晩はなんだか金曜日の晩であるかのような錯覚がしたし、昨日は土曜日、今朝は日曜日のような感覚で起きてしまい、やっているテレビ番組で一日ずれていることを思い出す、そんな感じでした。

昨日は寒風吹きすさぶ中、車で新宿に買い物へ。
高島屋のレストランで食事してたらコドモがコドモがオレンジジュースを大量に服にこぼしてしまいGAPで着替えを買うことに。
予定外の出費になってしまいました…orz
子連れでの外出はタダでは終わりませんわ。

今日はひとりで近所のカイロプラクティックへ。
先日ヨメが体調が悪かった時に緊急避難的に行ってみたところけっこう良かったといこうとで、紹介の形で受けてみることに。
慢性的に首や肩の凝りがあるんです、ってことで診てもらったんだけど、首肩よりもむしろ腰の上部に緊張があることの方が気になるとのこと。
そのあたりは腎臓との結びつきが強い部位らしく。
自分、腎臓結石ができやすい体質で、ハタチの頃から3~4年おきに結石ができて入院も2回してるんです。
ここ5年ほどは出ていないんだけど。
現在結石ができているという訳ではないんだけど、もともと腎臓がウィークポイントなので、疲れが溜まると腎臓に来て、それが腰に影響を及ぼすというメカニズムらしいです。
一通り治療してもらって、来週また行くことにしました。
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2007-11-22 00:00:20 | Sports
日本、4大会連続で五輪サッカー出場決定…サウジと分ける(読売新聞) - goo ニュース

多くを語る必要はないと思うので、一言だけ。

いい試合でした。

全員がよく攻めよく守りよく走っていた。

最後の最後になっていいチームになったと思います。
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「一度も植民地になったことがない日本」 デュラン・れい子

2007-11-20 23:18:31 | Books
一度も植民地になったことがない日本 (講談社 α新書)
デュラン れい子
講談社

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何を買うか決めずに丸善に行ったら新書のベストセラー棚にたくさん置いてあったので何となく買ってみました。

著者は1942年東京生まれの日本女性で、コピーライターとして活躍した後スウェーデン人と国際結婚し渡欧、オランダやフランスに住み版画家として活躍する傍ら、日欧の芸術交流に関わる仕事をしながら30年に亘って日本とヨーロッパを行き来する生活を送っている人物。

そんな彼女が、ヨーロッパで体験した数々のエピソードを交えながら、「フツーのヨーロッパ人が日本と日本人に対してどのような印象を抱いているか」についてを書きしたためた本です。

個人的には、本のタイトルになっている件よりもむしろ、次のような話が印象的でした。

・「日本・ドイツ・イタリアはテロが好きな国民である」というのが一般的なフランス人の感覚である。
・駅弁や個人向け宅配便など、日本特有の細やかな商品・サービスにヨーロッパ人はいたく感動する。
・日本人の子供のしつけ方は甘い。

著者は、専門の学者でも著述家でもないので、精緻な比較文化論を期待すると肩透かしを食らいますが、海外経験豊富な人の茶飲み話を聞いているくらいの感覚で読めば退屈はしません。
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「ゆとり教育から個性浪費社会へ」 岩木秀夫

2007-11-19 23:47:31 | Books
ゆとり教育から個性浪費社会へ
岩木 秀夫
筑摩書房

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VIVAさんのブログで紹介されていて興味を惹かれて読んだ一冊です。

ここにきて「ゆとり教育」路線を否定する方向性は決定的なものになっている感がありますが、本書はなぜ「ゆとり教育」が日本の教育界の趨勢となり得たのか、その歴史を紐解いていきます。
歴史といっても単に教育史に閉じたものではなく、グローバルな視点も踏まえ政治・経済・社会思想といった広範な観点から社会と教育が相互に影響を与えあいながら進んできた道のりが辿られています。
きわめて客観的・価値中立的な立ち位置から淡々と流れを追っていく筆致が特徴的です。

価値中立的と書きましたが、最後まで読めば著者が「ゆとり教育」に対して批判的な意見を持っていることがわかります。
ただそれは「学力低下をもたらしたから」といった巷間言われている理由に基づく批判とはちょっと趣を異にします。

産業資本主義に基づく高度成長が終わりを告げたポスト産業社会では、製造業中心の近代社会からサービス経済化された社会へと移行が進んでいきます。
そして「新奇な感情・欲望を次々に商品化して巨大な利益を上げる、マクドナルド型のサービス産業」が経済社会の中心となり、売り手は「感情労働」を、買い手は「感情消費」を強いられることになります。
そして「マクドナルド化が極限まで進んだ高度消費社会」では、地位や所得による評価よりも「表層的な個性に囚われて相互を評価する社会」が作り上げられます。
著者はこうした社会を「イディオシンクラシー=個性浪費社会」と名付けたのです。
「個性浪費社会」は「社会全体のサブカルチャー化」とも言い換えられます。
著者は「サブカルチャー化」が「ゆとり教育」の直接の産物というわけではないものの、「ゆとり教育」が「子どもたちが学校に拘束される時間を、物理的にも心理的にも減らす」ことでその進行を「一層加速する」点において批判しているのです。

「個性浪費社会」の何がいけないのか。
ここでポイントになるのが経済社会のグローバル化と社会の二極分解です。
この論点については現在では散々議論されているので説明不要だと思いますが、著者の言葉を借りれば、社会は「データ・言語・音声・映像の分析を通じて問題発見・解決・戦略媒介などの活動を行う」シンボリック・アナリスト(「金融・財務・経営・市場調査・広告などのプロ」)から成る「勝ち組」と、「低賃金で劣悪な労働条件の下で働く」「負け組」とに二極化します。
そして「負け組」の一般大衆は個性浪費社会において「そのときそのときに最大限の欲求充足を追及する即時充足的な生活に追い込まれ」人格を「解離的」なものにしていく、とされています。

独特の言葉使いがされているため正確に文意を掴むのには苦労しましたが、著者の論じている社会のイメージはよくわかる気がします。
これまでにこのブログで自分が批判的に書いてきた「ワイドショーによる不祥事のエンターテイメント化」「スポーツイベントの過度な商業化」「テレビ局の資本参入による映画産業の質的劣化」など(あ、テレビ絡みばっかりだ)も「個性浪費社会」の実例と言えるのかもしれません。

ちなみに「ゆとり教育」の出発点は中曽根政権による臨教審にある、ということです。
当時英米ではサッチャー、レーガンによる新自由主義的な市場原理を取り入れた教育改革が行われていましたが、貿易黒字減らしという大命題を背負っていた中曽根政権では内需拡大を目指した「バブル教育」が指向され、英米の能力主義とはまったく異なる「ゆとり」路線へと進んでいったと。
そしてその「バブル教育」を思想面で支えたのがポストモダニズム官僚・学者であると。
このあたりの経緯については非常に丁寧に解説されています。

ここにきて「ゆとり教育」を否定する路線は既定化され、英米に遅れて新自由主義的な「新能力主義」路線が教育政策の主流になっていますが、著者はこれを歓迎してはいません。
新能力主義は「グローバル化にともなう中流階層の空洞化を軽視しすぎて」いると。
もはや一部の「勝ち組」が得た果実が社会全体にトリクル・ダウンする経済社会基盤は崩壊している、としています。

このあたりの論点は現在では聞き慣れたものではありますが、この本は2003年に書かれたものなのでやや先見があったとは言えるのかもしれません。

しかし、「ゆとり教育」もダメ、「能力主義」もダメとなると、いったいどうすればいいのでしょうか。
この本は非常に精緻かつ客観的な視点を与えてはくれていますが、この疑問にはほとんど答えてくれていません。
唯一、答えを導き出すための方向性が示されている一節が「おわりに」に書かれています。
「一人ひとりがもって生まれたイディオシンクラシーを努力によって鍛錬し、その人格的成果が尊敬されるような、そのようなことを可能にする社会的基盤がもっと多様に用意される必要があるのです。」

わかる、わかるんだけど、じゃあそのためにどうしたらよいのかを考えれば考えるほど途方に暮れる気分になります。
この本は明確な回答は与えてくれません。
それは、我々一人一人が考えなければならないということなのか、それとも、答えを出すのが絶望的に困難な課題だということを意味しているのでしょうか…
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性別は…

2007-11-18 23:02:38 | Diary
昨日自分が駅伝に行ってた間、母に子守りに来てもらってヨメは妊婦検診へ。

今は18週目。
お腹の子は15cmを超え、順調に育っているとのこと。
そろそろ性別が分かることもある月齢なのでエコーで赤ちゃんのオマタのあたりを綿密にチェックしたらしいけど”証拠物件”は見つからず。
エコー映像をビデオに録画したものを見たけど、ひとりめのときに比べると動きも穏やかでおとなしい感じ。
女の子かな~。
まだわからんけど。
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