そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

『米中戦争前夜』 グレアム・アリソン

2018-08-25 15:05:08 | Books
米中戦争前夜――新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ
グレアム・アリソン
ダイヤモンド社


著者は、ハーバード大学ケネディスクール初代院長で、レーガン〜オバマ政権の歴代国防長官の顧問を務めた国際政治のエキスパート。

古代ギリシャで、スパルタに挑んだアテネの脅威が、スパルタをペロポネソス戦争に踏み切らせた。
そのことから、著者は、新興国の台頭が覇権国を脅かして生じた構造的ストレスが、新旧大国の衝突に至る事象を、歴史家トゥキディデスの名に因んで「トゥキュディデスの罠」と呼ぶ。
ドイツ対イギリス(第一次大戦)や日本対アメリカ(第二次大戦)など、過去500年の新旧大国の衝突16ケースをひもときながら、現代における米中戦争の可能性と回避の方策を論じる。

トゥキディデスは、対立構図を戦争に発展させる大きな要因は三つ、「国益」「不安」「名誉」だと言う。
それにしても、本書内で論じられる、100年前のアメリカと今の中国の類似性には驚かされる。
セオドア・ルーズベルトなんて、世界史の教科書で名前を知っている程度の人物だったが、米西戦争、モンロー主義の徹底、パナマ運河、アラスカ国境問題などでの傍若無人ぶりは習近平顔負けだ。

16のケースには日本がらみのものも含まれているが、16のうち戦争突入を避けることができたのは4ケースしかないと言う。
読んでいて、戦争に至るか否かには、地理的な近さが重要ファクターなのでは、という気がした。
イギリスとドイツの対立が第一次世界大戦に至った例など、近接しているが故に、直接的な攻撃を受ける脅威を現実的に感じられたからこそなのではないだろうか。
著者は、小競り合いから全面戦争に至るリアリティあるシナリオを展開するなど、米中対決の可能性が低くないことを示しているが、米中が地理的に離れていることをどう考えるべきか。
米国が太平洋覇権の維持コストとリスクを考慮して少しずつ覇権を諦めていけば、最悪の核戦争は避けられるのではという気もする。
もちろん、そうなった時に一番困るのは日本なのだが…
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『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』 新井紀子

2018-08-16 14:07:09 | Books
AI vs. 教科書が読めない子どもたち
新井 紀子
東洋経済新報社


Kindle版にて読了。

数学者の新井紀子さんによるAI論、というより、AI時代の教育論・社会論。
現在もてはやされているAIの限界を語るとともに、その限界あるAIで代替されてしまうレベルの能力しか持たない子供たち(人間)が増えてしまっている教育や社会のあり方に対して強い危機感が語られる。

前半部は、AIブームに対する著者なりの解説。
「AIはコンピューターであり、コンピューターは計算機であり、計算機は計算しかできない。それを知っていれば、ロボットが人間の仕事をすべて引き受けてくれたり、人工知能が意思を持ち、自己生存のために人類を攻撃したりするといった考えが、妄想に過ぎないことは明らか」と、数学者ならではの視点でやや冷めた見解が述べられる。

チェスや将棋のルールのようにある限定された条件の下では、推論と探索はその並外れた計算力で力を発揮することはできても、条件が簡単には限定できない現実の問題を前にすると、推論と探索だけでは無力であることが明らかになったのです。これは「フレーム問題」と呼ばれる今なおAI開発の壁となっている課題の一つです。

ディープラーニングは、「大量のデータを与えればAI自身が自律的に学習して人間にもわからないような真の答を出してくれる仕組みのことだ」と誤解されていることが多いようですが、そんな夢のようなシステムではありません。一定の枠組み(フレーム)の中で、十分な量の教師データを準備すると、これまで人間が手作りで試行錯誤していた部分も含めてAIがデータに基づき調整することで、伝統的機械学習に比べて、低コストでそれと同等か上回る正解率に達しやすいのです。夢のような誤解をすることの危うさを、少しはおわかりいただけたでしょうか。

「いつの日か、教師データを作ったり、目的や制約条件を設定したりという作業から人間は解放されますか」とよく尋ねられます。省力化はされるかもしれませんが、完全に解放されることはないと思います。AIやロボットは 「人間社会で」役立つように作られる必要があります。「役に立つとは何か」を知っているのは、人間だけです。ですから、人間がなんらかの方法で正解をAIに教えなければなりません。


中盤では、著者が中心となって進めた「東ロボくん」プロジェクトの内容と結果が紹介される。
AIが東大の入試に合格することを目的としたプロジェクトを通じて、AIの限界が明らかとなる一方、東ロボくんは一定程度の成果(MARCHレベルの大学への合格可能性80%判定)を成し遂げる。

著者は、東ロボくんプロジェクトと並行して実施した全国の大学生の数学力調査の結果から、論理的な読解と推論の力を著しく欠いている学生があまりに多いことに気づいたことを契機に、中高生を対象にした基礎的読解力を調査するテストを実施することとなる。
そして、表層的理解はできるが 、推論や同義文判定などの深い読解ができない生徒が少なくない割合で存在することを確認する。
そのような生徒は、コピペでレポートを書いたり、ドリルと暗記で定期テストを乗り切ったりすることはできても、レポートの意味やテストの意味は理解できない。
要は、AIに似ている。
AIに似ているということは、AIに代替されやすいということであり、そのことに著者は深い問題意識を抱く。

問題文に出てくる数字を使ってとりあえずなんらかの式に入れてる「当てようと」してしまう。
そんな生徒が少なからずいることは確かに想像に難くない。
そして、そのような「タスク」を超高速で効率的にこなすことこそが、AIが最も得意とすることだというのも全くもって理解しやすい話だ。

後半部では、著者の深刻な懸念が綿々と語られる。

東ロボくんがMARCHクラスの大学合格圏内の実力を身につけたことを考えると、AIに仕事を奪われる社会で、人間しかできないタイプの知的労働に従事する能力を備えた人は全体の20%に満たない可能性がある。
今の日本の教育が育てているのはAIに代替される能力であり、AIに対して優位に立てるはずの読解力で、十分な能力を身につけさせることができていない。
その結果、どのような事態が予想されるか。

AIは自ら新しいものは生み出しません。単にコストを減らすのです。本来はAIにさせることによってコストを圧縮できるはずなのに、それをしなかった企業は、市場から退場することになります。そして、一物一価に収斂するまでの時間がどんどん短くなっていくのです。それがAIによって起こると考えられる、ディスラプティブな(破壊的な)社会変化です。この時代を乗り切れない企業は、破綻したり吸収されたりする前に、人間を苛酷に働かせたり、品質管理を疎かにしたりすることでAIに対抗しようとしがちになります。当然、職場はブラック化しやすくなり、不祥事が起きやすくなるはずです。

私の未来予想図はこうです。企業は人不足で頭を抱えているのに、社会には失業者が溢れている ─ ─。折角、新しい産業が興っても、その担い手となる、AIにはできない仕事ができる人材が不足するため、新しい産業は経済成長のエンジンとはならない。一方、AIで仕事を失った人は、誰にでもできる低賃金の仕事に再就職するか、失業するかの二者択一を迫られる ─ ─。私には、そんな社会の姿がありありと目に浮かびます。そして、それは日本にだけ起こることではありません。多少のタイムラグはあるとしても、全世界で起こりうることです。


では、どうしたらよいのか?
AIに代替されることのない「なんの仕事とはっきりとは言えないけれども、人間らしい仕事」をやっていくしかない、と。

重要なのは柔軟になることです。人間らしく、そして生き物らしく柔軟になる。そして、AIが得意な暗記や計算に逃げずに、意味を考えることです。生活の中で、不便に感じていることや困っていることを探すのです。


考えてみれば当たり前の結論に到達した感があるが、この「当たり前」こそが最も難しいし、そこに気づける人と気づけない人の断絶は大きい気がする。。


ところで、本論からはやや外れるが、現在の第三次AIブームにおいて、米国の企業が勝ち組になっていること、日米のAIに対する認識の差が生じていることの一つの要因として著者があげていた内容が個人的に興味深かったので、以下メモしておく。

もう一つの理由は、AIへのリアルなニーズが多くの米企業にあることです。アメリカではグーグルやフェイスブックなどが、途方もないデータが自動で蓄積される「無償サービス」を世界規模で拡大しています。大規模無償サービスでは、「人手をかけずにサービスを提供できるかどうか」を正確に判断することが経営の成否に直結します。

一方、日本は基本的にモノづくりの国です。製品を作って販売しています。開発費を上乗せした価格で製品が売れる見込みがなければ、新機能は搭載できません。しかも製造物責任を負う必要もあります。そこで求められる「精度」は、グーグルやフェイスブックのようなユーザー責任の無償サービスとはまったく異なります。つまり、ディープラーニングのような統計に基づく判断で重大事故を招いたとき、モノづくり企業はその責めを負わせられる立場になります。賠償責任だけでなく、事故によるブランド毀損も考えないと簡単に手は出せないでしょう。さらに、日本のモノづくりの現場である工場は、既に世界最先端のロボット化に成功しています。となると、AIをどこに使えばよいのかよくわかりません。
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『「ハードウェアのシリコンバレー深セン」に学ぶ』 藤岡淳一

2018-08-12 23:04:45 | Books
「ハードウェアのシリコンバレー深セン」に学ぶ−これからの製造のトレンドとエコシステム (NextPublishing)
藤岡 淳一
インプレスR&D


Kindle版にて読了。

著者は、25歳だった2001年に日本の上場企業から香港資本のベンチャー企業に転職し、そこから深センでの電子機器製造との関わりが始まった。
現在では、深センを本拠にしたEMS(電子機器受託製造)企業の経営者となり、日本の若い起業家のスタートアップ支援も行っているという。
彼の半生と重ねながら、深センが「ハードウェアのシリコンバレー」「紅いシリコンバレー」と呼ばれるまでの世界一の電子機器ハードウェア製造開発の集積地となった過程を解説している。
紙面量は少なくてすぐ読めてしまうが、とても刺激的な内容に満ちた快作だ。

まず「白牌/貼牌」「山寨」「公板」といった深センの製造サプライチェーンを特徴づける独特な概念が紹介される。
白牌とはノンブランドのこと。白紙のノートのように後から別のブランドを書き込むことができる。
貼牌とは、その白牌製品に企業のロゴをつけたり、塗装を変えたりしてブランドを貼り付ける行為。
山寨は「コピー品」「ノンブランド品」「無認可品」のことだが、電子機器製造の世界では、独自の設計、部品、ソフトウェアを使わない製造手法のことをも指す。
公板はパブリック・ボードと呼ばれ、ある特定の製品用に設計された基板を一般販売するもの。

こういった製品・部品サプライチェーンをうまく利用すれば、普通では考えられない低コストで電子機器の完成品を製造することができる。
深センの製造業は殆どの工程を外注していることが特徴で、垂直統合、水平分業ならぬ「垂直分裂」と表現されるという。

もちろん、素人がいきなり深センに乗り込んでいっても、このサプライチェーンを活用することは難しい。
深センのエコシステムや商慣行を深く理解する目利き力や人脈が必要となる。
長年、ここ深センで試行錯誤しながら取引を繰り返してきた著者は、それを備えていることが強みとなっている。

もちろん、中国人とのビジネスは苦労の連続だったという。
著者が中国人と日本人の違いを語った部分を以下引用する。

私は日中ビジネスマンの違いは「損して得するが日本人、中国人は得して得する」だと言っている。今回は損しても仕方がないという考えはないのだ。 1回 1回の取引でメリットがなければやらない。超近視眼的な取引であるが、人間関係も社会も変化が激しい中国ではこうして生きるしかないのだろう。

深圳を見て欲しい 。 1人 1人は超合理的で情に流されない中国人だが、深圳全体を見てみるとエコシステムという形で人の力を借りて生きる世界が生まれている。日本は真逆だ。 1人 1人の人間は親切だが、全体を見てみるとバラバラ 。協力することなく、ばらばらに動いている。


この深センの興隆ぶりを見て、深センを日本でも再現したいという話が出るが、それに対して著者は以下のようにきっぱりと見解を述べる。

だがそれは無理だ。本書をここまでお読みになった方は分かるだろうが、世界に 1つしか存在できない、希有な場所が深圳なのだ。目指すべきは深圳のエコシステムを日本も活用すること、そこから利益を上げられるような枠組みの作り方だ。日本で要素部品を作り、それを深圳で活用してもらう。そうした関係も十分考えられるはずだ。ないものねだりや無謀な発想ではなく、今の状況を十全に理解した上でどう動くのか、現実的な判断が必要だ。


とにかくダイナミックなハードウェアの都。
一度、身をもって体験してみたいものだ。
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『ブロックチェーン革命』 野口悠紀雄

2018-08-11 23:44:15 | Books
ブロックチェーン革命 分散自律型社会の出現
野口 悠紀雄
日本経済新聞出版社


Kindle版にて読了。

自分が読んだのは今年の2月頃、ちょうどコインチェックの流出事件があった直後で、仮想通貨バブルがまさに弾けんとしていたタイミング。
本書が刊行されたのは昨年(2017年)の初めだが、既にブロックチェーンを仮想通貨とは切り離して、その画期性を論じている。
元々はビットコインの中核技術として生み出されたブロックチェーンが、基盤技術、或いは基盤思想として汎用性をもって注目されているというのも、技術の発展過程として面白いなと思う。

著者は、ブロックチェーンにより実現される社会の仕組みを表現する言葉として"trustless system"を紹介する。
ここで"trustless"とは「信頼に欠けた」ではなく、「個人や組織を信頼しなくても安心して取引ができる」という意味。
信頼を担保するためのコストが不要になる、また、人間が介在して管理したり運営したりするコストが不要になることで、圧倒的に低コストな仕組みで取引ができるようになることを、著者は強調する。
信頼が不要になるが故に、大企業や有名人でなくても取引に参加するハードルが下がり、システムは民主化するのだ。
決済についての叙述も多くあるが、後半部分で紹介される、保険やレンディングや教育・医療などの個人データ管理、そしてIoTの世界でのスマートコントラクトの事例などの方が、より興味深い。

今のブロックチェーンは、黎明期のインターネットみたいなものなのだと思う。
メールができて、Webブラウザができて、皆がインターネットを使うようになった。
やがて、検索サイトやWeb広告、ECサイトが出現し、インターネットに繋がるデバイスがPCからスマホに変わって、SNSを皆が使うようになり、今のメガ・プラットフォーマーが支配する世界ができあがった。
まず草の根で広がり、次に商業化し、ネットワーク効果でまた利用価値が増大していく、そんな広がり方をブロックチェーンも繰り返すのではないか、と個人的には思う。
だとすると、ブロックチェーンにおける「Webブラウザ」は一体何なのか、まずそれを考えるべきなのかもしれない。
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