「当事者」の時代 (光文社新書) | |
佐々木 俊尚 | |
光文社 |
著者がこの本を通じて述べたかったことは、423頁にある以下の一節に凝縮されています。
社会のインサイドからの目線は、つねにフィード的な濃密なコンテキストというパラダイムに支配され、そこにはオープンな開かれた社会という視点は欠如している。
社会のアウトサイドからの目線は、つねに幻想の市民という<マイノリティ憑依>に支配され、決して当事者としての意識を持ち得ない。
そしてマスメディアは、この濃密なコンテキストの共同体と<マイノリティ憑依>という二つの層の間を行ったり来たりしているだけだった。
そういう宙ぶらりんな構図のなかで、マスメディアはつねに権力のインサイダーとなるか、そうでなければ幻想の市民に憑依しているだけである。いつまで経っても、日本社会に生きているリアルな人々に寄り添うことはない。ただリアルな人々に対して、経済大国で暮らすなかでつかの間のエンターテインメントを提供する道化でしかなかったということなのだ。
著者のものの捉え方にはほぼ全面的に同意するし、自分が常々感じていたことをよくぞ言語化してくれたと溜飲の下がる思いがします。
幻想の「市民」に「憑依」し、権力という名の「悪者」を敵視することで、自らが「加害者」としての一面を持っていたことにフタをしようとする。
世論の贖罪意識に阿り、在り体に云えばマスターベーションに逃げ込んでいる。
そうした<マイノリティ憑依>が戦後日本に蔓延するようになった経緯をエピソードを丹念に拾いながら詳らかにしていきます。
でもね、丁寧なのはいいんだけど、紙幅の量を鑑みるとやはり冗長に感じられてしまうのですよ。
同じことを何度も何度も手を変え品を変え説明されたような。
正直、もう一歩深く、さらに「その先」を論じて欲しいというもどかしさは感じます。
例えば、以下のような点。
第一に、国際比較の視点。戦後日本の敗戦からの立ち上がりや「総中流化」の流れが<マイノリティ憑依>とシンクロしたことは論じられているけど、それでは他の国ではどうだったのか?
程度の差はあるにしろ、先進国では共通に<マイノリティ憑依>の傾向はあるような気がする(あくまで印象だけど)が、日本だけが特殊なのか、特殊だとしたら何がその差をもたらしているのか。
第二に、社会が<マイノリティ憑依>に至るプロセスに対する社会心理学的見地からの分析。
上述したように、<マイノリティ憑依>には贖罪意識や自己満足などの人間社会の病理が影響しているように思えるが、その観点から深く掘り下げた考察が欲しかった。
第三に、ではこれからどうすべきなのかについての具体的な提言。
「これまで」を分析することには丹念に手をかけているけれど、著者の云う『「当事者」の時代』の具体的イメージが殆ど示されていない。
特に著者が得意とするところのソーシャルメディアと当事者性の関係についてはもっと深い考察があるものだと勝手に期待してしまっていた。
ということで、論の深さにはやや物足りなさを感じつつも、その論を展開するために紹介されているエピソード一つ一つにはなかなか興味深いものがあります。
個人的に面白かったのは、戦後の左翼言論が変遷していく過程を丁寧に追った第三章と第四章。
日本におけるベトナム平和運動の初期の眼目が「日本人がベトナム戦争に巻き込まれることへの不安」であったというエピソードや、津村喬による本多勝一批判だとか、なかなか奥深いものを感じます。