そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

『水曜日の凱歌』 乃南アサ

2016-02-28 22:16:16 | Books
水曜日の凱歌
乃南 アサ
新潮社


3月の大空襲で全てを焼かれて家族や友人を殺され、町には焦げた焼死体が至る所に放置される状況の中を彷徨う。
それが僅か5ヶ月後、半年も経たないうちに戦争は終わり、仇敵であったはずの米兵たちが支配者として身近に登場し、鬼畜であったはずの彼らに群がる日本人たちが大勢現れる。
この壮絶なパラダイムの転換。
これまでにも散々聞かされてきた話ではあるが、こうして小説世界として時系列に疑似体験してみると、改めて竦然たる気持ちになる。
それを噛み締めさせてくれただけでも、この小説には読む価値があった。

女性作家による、女性視点での物語である。
男性である自分が、本当の意味でこの小説に込められた想いを理解できたとは到底思えないが、兎角政治問題としてしか語られない慰安婦という存在が、哀しくも逞しく生きる様を体現しているということは分かった。
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『ブラック オア ホワイト』 浅田次郎

2016-02-17 22:57:43 | Books
ブラック オア ホワイト
浅田 次郎
新潮社


『夢十夜』モノと聴いて、期待して読んでみたが、ノレなかった。
バブリーな団塊世代の自慢げな昔語りを聞かされているようで、鼻について仕方がない。
夢の話なので非現実的なのは仕方がないが、それにしても浮つきすぎ。
もうちょっと身につまされるようなものが読みたい。
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『完訳 7つの習慣』 スティーブン・R・コヴィー

2016-02-16 22:59:40 | Books
完訳 7つの習慣 人格主義の回復
フランクリン・コヴィー・ジャパン
キングベアー出版


Kindle版にて読了。

かの有名な「7つの習慣」、これまで接触したことがなかったのだが、思い立って読んでみた。
なかなか素晴らしかった。
さすがにバイブル的に扱われるだけのことはある。

だが、もし若い頃に読んでいたとしたら、その良さがここまで理解できたかどうか。
40代になり、ある程度人生経験を重ねてきたからこそ腹に落ち、自身を省みて修正することに役立てることができるものであるようにも思う。

7つの習慣は以下にて構成されている。

まず「私的成功」のための3つの習慣。
第1の習慣:主体的である
第2の習慣:終わりを思い描くことから始める
第3の習慣:最優先事項を優先する

次に「公的成功」のための3つの習慣。
第4の習慣:Win-Winを考える
第5の習慣:まず理解に徹し、そして理解される
第6の習慣:シナジーを創り出す

さらに、全体に跨る継続的改善のための習慣として、
第7の習慣:刃を研ぐ

読んでみて感じたのは、第4から第6の「公的成功」に関わる習慣は、『嫌われる勇気』がロングセラーになっているアドラー心理学とシンクロする部分が多いということ。
そしてそれら他者との相互依存の前提として、第1から第3の習慣で、自身が「自立」した人格となることに重きを置いているところがポイントである。

個人的には、第2の習慣が自分にとってもっとも欠けているものだと感じた。
自分の葬儀を思い描き、どんな弔辞を読んでもらいたいかを想像する。
それこそが自分にとって本当に大切なものであり、それを自覚しなければ自分の人生を正しい方向に導くことができない。
仕事においても、家庭においても。

本の中でも書かれていたが、部分的にでも折に触れて何度も読み返すことで得られるものがありそうだ。
以下、至言だなと思った部分をまとめておく。

(第3の習慣より)
自分が取り組まなければならないタスクを、「重要度:高/低」「緊急度:高/低」の切り口で4象限に分ける。
「重要度:高」だが「緊急度:低」の領域の活動にいかにリソースをかけることができるかが大切。
それができないと目先の「緊急度:高」の領域にばかり追われることになる。

(第4の習慣より)
成熟とは、「相手の感情や考え方に配慮しながら、自分の気持ちや信念を言えること」

(第6の習慣より)
シナジーと妥協は異なる。
シナジー:1+1が3にも4にもなる
妥協:お互いに0.5を我慢して、1+1が1.5になるところで手を打つこと
違いを尊重することがシナジーの本質である。

(第1の習慣に関連して)
外から受ける物理的、社会的、心理的な刺激と反応の間には「スペース」がある。
衝動ではなく、主体的に反応を「選択」することができるはず。
その反応には、その人の価値観が反映される。
そのスペースをどう使うかが人間の成長と幸福のカギを握っている。

原則と価値観の違い
原則:自然の法則、私たちの外にあり、私たちの行動の結果を最終的に決める。
価値観:私たちの内面にあり、主観的なもの。
原則を価値観にできれば理想的である。
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『呪文』 星野智幸

2016-02-13 23:30:02 | Books
呪文
星野 智幸
河出書房新社


各所で高評価だったので読んでみたが、期待外れ。

社会に活躍の場を持てない輩が、正義感や理想主義に触発されて狂気に染まっていく、という構図は、かつての内ゲバ極左やカルト教団、現代のネトウヨまで共通しているが、この小説はその現実をただなぞっただけ。
なんら新しさを感じなかった。
寂れゆく都会の片隅の古い商店街という舞台装置もあんまり有機的な効果を生んでいるように思えない。
途中で興味を失った。
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ベッキーの没落は性差別なのだろうか?

2016-02-11 10:49:39 | Entertainment
イギリスのガーディアン紙が、ベッキー騒動について日本の芸能界に蔓延る性差別を反映しているのではないかとの記事を掲載したとのこと。
日本のメディアでは、ベッキーがテレビ出演やCMを打ち切られ休業に追い込まれる一方、ゲス川谷が平然と音楽活動を継続できているのは均衡を逸しており、その背景には若い女性芸能人にモラルの完璧さを求める日本芸能界の性差別意識を反映しているのではないか、との趣旨と報じられている。

拙い英語力による読解になるが、原文を一読してみた。
確かに上述の趣旨の通りのことが書いてあるが、どっちかというと「何の芸がなくても、可愛らしさや純潔さだけが芸能人のブランド価値になってしまう日本社会って変じゃね?」というニュアンスに重きが置かれていて、ベッキーがほとんどタレント生命を奪われそうなほどの社会的制裁を受けている一方でゲス川谷がのうのうと音楽活動を続けていることの不均衡をもって「性差別」と言っているわけではないようである。

今回の騒動、客観的に見てベッキーはどちらかというと騙された被害者であり、騙したゲス川谷の方がまさに下衆、サイテーの酷い奴だというのが正しい見方ではないかと個人的には思っている。
が、そんなサイテーのゲス川谷が音楽活動を続けられているのは、音楽的才能という「芸」を彼が持っており、それが一定層に支持されている(自分にはゲスの音楽の良さはよく分からないが)からであり、他方ベッキーは「好感度」という価値以外に武器らしきものは何も持ち合わせておらず、その価値を毀損してしまえば芸能人としての存在価値がほぼゼロになってしまうというのは悲しくも厳しい現実なのである。
確かに、彼女の愛らしい容姿、聡明さ、話術の巧みさは類い稀なる才能だと思うが、残念ながらその程度の才能を持っている人材は芸能界にも、一般社会にもゴマンと存在しており、いくらでも代替が効いてしまうのだ。

ガーディアンのいう通り、「何の芸がなくても、可愛らしさや純潔さだけが芸能人のブランド価値になってしまう日本社会」は自分も変だと思うし、その背景に女性の社会的役割に対する差別意識が潜んでいるというのもその通りだと思うが、まあそれが日本社会の現実であり(だからそれでよいと言っているわけではない)、マーケットが成立してしまっているのも事実なのだ。
マーケットのニーズがある限り、「商品」としての女性アイドル・タレントは次から次へと登場するだろうが、どんなに人気が出て「一流」と呼ばれるようになったとしても、絶対的な武器になる「芸」が無い限りは、所詮いつ代替されてもおかしくないないコモディティにしか過ぎないという冷徹な現実がそこにはある。

ベッキーには、これを機会に、何か武器になる「芸」(女優としての演技でも、その他の技能でも何でもよい)を身につけてもらって、いつか復活してもらいたいものである。
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