そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

平均への回帰

2013-02-16 17:10:13 | Economics

体罰の有効性の錯覚は「平均への回帰」が理由(大竹文雄の経済脳を鍛える)

 カーネマン教授は、この章の冒頭で、彼がイスラエル空軍の訓練教官に訓練効果を高めるための心理学を指導していた時の話を書いている。彼は、「教官たちを前にして、スキル強化訓練における重要な原則として、失敗を叱るより能力向上を誉めるほうが効果的だと力説した。この原則は、ハト、ネズミ、ヒトその他多くの動物実験で確かめられている」と訓練教官たちに講義した。ところが、講義を受けていたベテラン教官が、訓練生の場合はうまくできたときに誉めると次には失敗し、しかりつけると次にはうまくいくので、カーネマン教授の話は飛行訓練生にはあてはまらない、と発言して、叱る方が訓練には有効だ、と主張したということだ。

 これに対して、カーネマン教授は、「誉めると次に失敗し、叱ると次に成功する」というこの教官の観察は正しいけれど、「誉めるとへたになり、叱るとうまくなる」という推論は「完全に的外れ」だという。

 これは、「平均への回帰」として知られる純粋に統計的な現象であって、因果関係を示すものでもなんでもないのである。どういうことだろうか。あるスポーツ選手が、何かの技を練習している途中であるとしよう。何回も練習していると選手はだんだんうまく技ができるようになるが、時としていつもの技の水準よりずっとうまくできることがある。逆に、たまたま技がうまくできないときもある。たまたまうまくいったときは、その時の実力よりもうまく行ったのだから、次にその技を行うときは、いつもの水準に戻ると予測するのが、統計学的には正しい。逆に、たまたま技を失敗したときには、次の回にはいつもの技の水準に戻ってよりよい技を発揮できると予測するのが正しいのである。誉めなくても、叱らなくても、いつもよりよかった際は、次の回は平均的には前よりも悪くなり、いつもより悪かった際は、次の回には平均的には前よりもよくなるのだ。これは、指導の成果でもなんでもなくて、純粋に統計的な現象だ。

この「平均への回帰」という現象、今読んでる『統計学が最強の学問である』という本でも紹介されてます。
オリンピックの最終予選で素晴らしい成績を挙げたアスリートが、本番では奮わない結果に終わってしまうことが多いのも同じように説明できるという話。

先日、首都圏の大雪が警戒されて、JRが前日の夜の時点で朝から間引き運転を実施すると決めたところ、みぞれしか降らず、ただ通勤ダイヤが混乱してブーイングを買った、という出来事がありました。
成人の日に思いがけぬ大雪で大混乱が起こったことが、結果的には「過剰な」警戒を生んでしまったわけですが、警戒すると大したことなく終わり、警戒していないと大変なことになりがちである、というのも同じく「平均への回帰」の一種なのかな、と考えた次第。 

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イチローの名言集

2013-02-13 23:05:28 | Sports

今日の日経朝刊にイチローのインタビューが掲載されてたけど、これがとんでもなく面白い!
こんなに面白いインタビュー読んだのは塩野七生さん以来だわ。 
この人、天才だけど、ある意味変人だよねぇ、やっぱり。

特に印象的だった発言を引用。

努力をすれば報われると本人が思っているとしたら残念だ。それは自分以外の第三者が思うこと。もっと言うなら本人が努力ではなく、第三者が見ていると努力に見えるが本人にとっては全くそうでない、という状態になくてはならないのではないか。

米国の野球は『力対力』というイメージがあるがそれはイメージでしかない。力の意味が『能力』であればその通りだと思うが、大体は力は『パワー』と同義語になっているように感じる。とにかく相手の欠点を突いてくる。こちらが克服できなければ永遠にそうしてくるだろう。

今はまだ色紙に一言と言われても書けない。大切にする姿勢や哲学はあるが胸を張って一言残せるほどの自分ではない。偉人の言葉を引用する年配の方がいるがあれはダサいと思う。拙い表現でも将来自分の言葉で伝えられたらなと思う。しかし結局、言葉とは『何を言うか』ではなく『誰が言うか』に尽きる。その『誰が』に値する生き方をしたい。

米国に行ってから、日本語の深さや美しさを自分なりに感じるようになり、日本語をきれいに話したいと思い始めた。日本語でも自分の感覚や思いを伝えることは困難だと感じている。それが外国語となれば、不可能に等しい。英語で苦労する以前に、僕は日本語で苦労している。 

3つめや4つめの発言にまさにある通り、自分の感じていることを如何に言葉に表現するかという点に対する物凄い拘りを感じるインタビューです。
深いことを言っているようで、実はそれほど深くもない気もする、という微妙さ加減が絶品。

そしてインタビューの結びが…

初めて株を買ったのが、中学生の時。それで、中学のころから株価分析の本を読んでいた。任天堂の簡単な株のゲームなんかも好きだった。今もホテルでリクエストしているのは、日経新聞。

と締められているのが手前味噌で素敵。 
自分もイチローとは同世代、確かに中学生の頃はバブル真っ盛りで株ブームでしたなあ。 

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『ノマドと社畜』 谷本真由美

2013-02-11 15:28:47 | Books
ノマドと社畜 ~ポスト3.11の働き方を真剣に考える
谷本真由美(@May_Roma)
朝日出版社


著者の@May_RomaさんのTwitterやコラムはよく読ませてもらっているので、個人的にはこの著作(Kindleのみでの発刊)によって新たな知見を得られたことはあまりなかったというのが正直なところ。
が、主張されていることはよく理解できるし、改めて自分自身の生き方について考えさせられるというか危機感を憶えてしまう。

現在が本当に「ノマド・ブーム」なのかどうかはよく判りませんが、世に流布されている「ノマド」と「社畜」を対立概念として捉え、前者にポジティブな、後者にネガティブなイメージと結びつける風潮に著者は一石を投じます。
英国での実例を基に本当の「ノマド」が如何にプロフェッショナリティを要求される厳しい働き方であるか、また「社畜」で居られることが現代のグローバル経済社会において如何に恵まれた甘やかされた立ち位置にあるかが示されます。

いずれにしても問われるのは、所属や肩書から離れて、自分自身が「何を成果物として提供できる」能力があるかを説明できるかどうか。
それができる人は食いっぱぐれることが無く、世界中のどこでも職を得ることができる。
それができない人は居場所が無くなっていく。

この本は基本的にはこれからキャリアを形成していく若い世代に向けた書かれたものだと思いますが、自分のように「社畜」生活を続ける中でいつの間にか中年に差し掛かってしまった人間にとっても、まさに切実さをもって直面している課題であります。
自分はいったい「何ができる」のか、自分の強みが何であるのか、具体的な自分の言葉ですらすらと語ること出来ないことに危機感を感じています。
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体罰が肯定される場合とは

2013-02-10 23:50:00 | Society
旧聞に属する話題が続きますが、今日は体罰問題ついて。

世論調査によると「場合によっては体罰肯定」派が多数なんですよね。
じゃあ「場合によって」ってどんな場合なんでしょうか?

「愛がある体罰なら恨みは残らないのでOK」という意見がありそうですが、これはナンセンスだと思う。
恨みが残らないのは、まさに「愛がある」からでしょう。
それなら、ただ「愛がある教育」をすればよいのであって、そこに暴力を伴う必然性は無い。

「人生、理不尽なこともあるのだから、身をもって理不尽さへの耐性をつけさせるための体罰なら肯定される」なんて見解もありそうだけど、これも同じくナンセンス。
理不尽さを教えたけりゃ、その手段は暴力以外にもあるでしょう。

考慮の必要があるのは、「実は悪いことをしていると判っていながらついついルールを守れない人に対して、ルールを守るようにする切っ掛けを与える」だとか、「努力しなければならないと判っていながらついつい怠けてしまう人に対して、努力する切っ掛けを与える」だとかの目的のための手段としての体罰かな。

ただ、難しいのは、たとえ上記が「体罰を肯定してもよいケース」であると仮定しても、
・体罰を与えられる側の人間の心理状態が適用条件になるので、客観的な判断が難しいこと
・切っ掛けを与えるに留まらず、エスカレートする恐れがあること
といった点。

そういった難しさを勘案すると、今のところは「体罰は全否定」というスタンスとしておいたほうが総合的には適切なんじゃないかと思っています。
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実名報道は弔いになる、という価値観

2013-02-09 22:44:38 | Society
些か旧聞に属する話ですが、先日のアルジェリア人質事件の際、被害者・犠牲者となった日揮の従業員の方たちの実名を公表すべきかどうかが議論になりました。
概ねメディア側に属する記者・ジャーナリストは実名報道の必要性を訴えていました。
実名報道し、被害者・犠牲者およびその遺族に対して取材を行い、公的な記事にすることによって、哀しみを社会全体で共有することが弔いとなる…これが実名報道を求めるメディア側の論拠であったと認識しています。
記者会が連名で政府に対して実名公表を要請したりもしてましたね。

これに対してネットユーザーからは反発の声が多数上がりました。
いわゆるメディアスクラム、悲しみに暮れる遺族に多数の記者が群がり、視聴率や部数を稼ぐためのゴシップ記事を書きたいというエゴイズムをそこに感じた人が大勢いました。

自分も、そうした反発を感じた人々の一人です。
ワイドショー的な騒ぎを盛り上げたいというエゴ丸出しでありながら、それを「公益のため」という大義名分にすり替えようとする狡猾さや不遜さに多大な不快感を憶えました。
Twitterでマスコミを罵るようなつぶやきをしたりもしました。

で、少し時間を置いた今になってみると、ちょっと見方が変わってきたりもしています。
マスコミの人達って、悪意でエゴを大義にすり替えてるんじゃなくって、本気でそれが公益であると信じ込んでるのではないかと。
善意で、真面目に犠牲者の名前を公けに刻むことが社会的な「葬送」として尊い意味があると考える価値観が存在しているのではないか。
単なる思い込みに過ぎないかもしれないけど、そう思ってないとできない職業であるとは言えるのかもしれない。

いや確かにメディアスクラムなんかが起こるってのは完全に視聴率稼ぎのためのエゴでしかないんだけど、その裏でそういったワイドショー的報道をある意味楽しみに待っている一般大衆がいるわけで、その一般大衆の「欲求」に応えることは公益であり、大義に叶うものだと考えているのかもしれない。

自分が仮に事件の犠牲者であったり遺族となった場合に、実名を広く報道してもらって弔ってもらいたいなんて全く思わないし、思わない人の方が多数派であるに違いないとは思うのだけれど、一方でいや報道してもらいたい報道すべきと感じる価値観(ワイドショー的な悪趣味なものも含めて)が世の中に存在することも否定はできない。

常日頃から事件報道や災害報道って何のために行われているのだろうか?ということは疑問に感じており、例えば、老人ホームで火災があって高齢者が複数犠牲になったという報道、これを広く世間に知らしめることで社会全体に対してどんなメリットがあるのか?とかつい考えてしまいます。
これを教訓として防災意識を高めるという効果が全くないとは云わないけれど、メリットがどうのなんていう合理的思考とは全く別モノの、世間の感情に訴え、同情や悲嘆や、或いは野次馬的な興味関心を駆り立てることに意味を見出す価値観が、報道する側にもそれを受ける大衆側にも存在している。
そういうことなのでしょう。

つらつらと当たり前のことを書いてしまいましたが、そんなことを感じている今日この頃です。
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『オタクの息子に悩んでます』 岡田斗司夫

2013-02-08 23:32:47 | Books
オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より (幻冬舎新書)
岡田 斗司夫 FREEex
幻冬舎


他人の悩みを聴く、相談にのる、という行為の概念を根本から覆されました。
今までの人生、他人に相談されてアドバイスする場面は多々ありましたが、いかに自分が「本気で応える」ことをしてなかったのか、「手近な回答」を助言して自己満足に陥っていたのか、痛切に思い知らされた。
大げさでなくそれくらいの衝撃と感動を与えてくれる一冊でした。

まずは「相手と同じ温度の風呂に入る」こと。
悩みを抱えている人は、自分自身が本当は何に悩んでいるかが分からなくなっている。
相手に「共感」し、相手の「立場」に立ち、深く「潜行」して考えることで、相手の本当の悩みに到達する。
そして悩みを解決可能なものと不可能なもの、解決する必要が無いものに「仕分け」て、具体的で実現可能な解決方法に「フォーカス」する。

ここまでならたぶん真似できるし、これだけで「悩みを聴く」態度は著しく改善されるはず。

そして、凄いところは、そのアドバイスの伝え方。
絶妙な「アナロジー」を駆使し、「四分類」ですっと頭に入るような判りやすさを実現し、「メーター」「ピラミッド」により相談者の気持ちを軽くする。
このあたりは岡田さんの独自性が発揮されていて、なかなか真似できないなという感じですが参考にはしたい。

そして何より感動したのは、悩み相談は「相談→回答」ではなく「相談から始まる対話」であるという考え方。
相談に答えることで、相談主だけでなく、自分自身の「心のしこり」を溶かし楽になることができる、と。

そう、他人の相談に感謝されるような回答ができるのであれば、自分自身の悩みにもうまく向き合うことができるんですよね。

岡田さんが悩み相談を「天職」と言い切るのがとてもよく分かる。

バイブルに出遭った気分です。


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