そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

年の瀬に安全保障を考える

2010-12-31 00:46:15 | Politcs

今年2010年は、日本という国が、冷戦終結後20年を経て初めて、というか、ついに、ポスト冷戦時代における安全保障という課題に直面することとなった年ということができるのではないでしょうか。

普天間問題、朝鮮半島問題、尖閣問題…国土と安全保障についてこんなにも問題が次から次へと起こったのは、自分の知る限り初めてのことです。

だいぶ時間が経ってしまいましたが、12月7日~9日まで、日経新聞朝刊「経済教室」に三回にわたり『安保・外交を考える』と題したシリーズが掲載されました。
安全保障の分野は、素人にはなかなか本質が理解しにくいもので、専門家の論考は興味深いもの。
ということで、以下備忘のため要点をメモしておきます。

第一回は、北岡伸一・東京大学教授。
北朝鮮・中国・ロシアのリーダーたちには、軍人に限らず「軍事力を中心に国際関係を理解する」傾向があり、これら国々に対しては譲歩や妥協や和解的な姿勢だけでは意味をなさないとの基本認識の下、何をすべきかが列挙されます。

1.国家安全保障会議(NCS)を設置し、縦割り行政を排して情報組織を強化すること。
2.「武器輸出三原則」を修正して武器開発の国際共同事業に参加できるようにすること。
3.日本周辺で活動する米海軍の艦船との連携強化。
4.自衛隊装配備の見直し。陸上自衛隊の人件費を削ることにより予算捻出し、南西諸島への侵攻などの蓋然性の高い脅威に備えた装配備を厚くする。

以上のような防衛政策の強化見直しが周辺国に懸念を感じることなどあり得ないと断じます。
「日本の国土、社会、経済の現状と、周辺国との軍事バランスでみて、日本から周辺国を攻撃するはずはないし、そんなことに何の利益も」なく、また、中国を敵視するものでもなく防衛力強化と日中友好は完全に両立可能と説明されています。

第二回は、添谷芳秀・慶応義塾大学教授。
2000年代における靖国問題や歴史認識問題をめぐって、日中・日韓の感情的悪循環が始まり、日本においてやや復古的な動きが勢力を増したことは、欧米諸国においても、日本が国家主権などの古典的な国益概念にこだわる「保守的な国」との認識を確立させてしまい、国際社会において日本と中国との関係を相対化され、中国との違いを戦略的に活用すべき日本外交にとって大きな痛手を自ら招く結果となったことが指摘されます。
この痛手から回復するためにも、今後、日本外交は「自由で開かれた国際秩序」の構築に貢献し、その一部として生きていくことで、中国外交との差別化をはかって国際社会の共感を集めることが肝要だ、と。
そのことは、日本が軍事的に無防備であってよいということではもちろんなく、リベラルな国際主義的感覚と伝統的安全保障問題への備えは両立するものであるとした上で、日本外交において現状未開拓領域となっている、地域において「志を同じくする」国々との安全保障協力が最も重要な課題であると主張されています。

第三回は、木村幹・神戸大学教授。
2002年の小泉訪朝で拉致問題への関心が高まった時点で生まれた「北朝鮮はもはや崩壊寸前、圧力を加えれば日本は事態を打開できる」という期待感が裏切られ続ける過程で、日本国内に「北朝鮮にまつわる問題に何ら解決策を持てない日本への無力感と、無力であることへのいら立ちに近い感情」が広がったことが指摘されます。
そして、この無力感といら立ちは現在の日本の対外関係に広く影を落とし、尖閣問題の処理ならびに世論の反応にも反映されており、「国力を喪失しつつある日本は、今や無力な小国へと転落しつつある。世界はこの哀れな日本を小ばかにし、利益を容赦なくむしり取ろうとしている。危機感を訴える人々は、そう考えはじめているように見える」と。
しかし、過去の歴史を振り返ってみても、国際問題に日本が「単独で」対処して大きな成果を挙げたことなど一度もなく、また一方で、これほどの経済大国である日本が無力であると考えることもナンセンスである、と論じられます。
日本は決して無力ではないが、そのことは必ずしも国際社会において独力で何かを成し遂げられることを意味しないのであり、斜陽となっても相対的には大きな国力を、国際関係の中でいかに生かしていくか考え直すことが必要だと結ばれています。

三者に共通するのは、視野の狭い孤立主義に陥ることなく、国際社会において「仲間を増やしていく」協調外交の重要性でしょう。
そして、そのことは厳格なリアリズムに基づいた軍事的な備えをすることと矛盾せず、むしろそうすることが国際社会で信頼感を得るための礎となるという認識です。
先日の防衛大綱見直しで、「動的防衛力」など一部リアリスティックな見直しはされたものの、社民党への配慮といった政局的な理由で武器輸出三原則の見直しが棚上げされるなど、まだまだ危ういところもありそうで、年明け以降も注視が必要そうです。

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ミニシアター系受難と2010年私的ベスト10

2010-12-30 15:55:26 | Entertainment

昨日今日と、日経朝刊終面文化欄に「凍えるアート映画」というコラム記事が掲載されてました。
先日、恵比寿ガーデンシネマが閉館というニュースもあったし、渋谷あたりのミニシアターもここ数年で閉まるところが続出、採算が見込めないので海外の映画祭での受賞作品でも配給に至らず日本未公開となりかねないケースも出てきており、ミニシアター系・アート系映画には厳しいご時世。
このままではシネコンでのマス向け映画(ハリウッド製ビッグバジェット作品や大量にタイアップ広告露出される日本のTVドラマの映画化作品)ばかりになってしまい、映画鑑賞文化の劣化が進むとの危機感から、一方ではTOHOシネマズの「午前十時の映画祭」のような名画掘り起こしの動きも出てきているとの由。

個人的にはミニシアター系ばかりに傾倒しているわけではありませんが、多様性が失われるという点ではやや気になる情勢ではあります。
90年代のミニシアター系バブルが崩壊したという一面はあるような気もしますが。

今年、劇場観賞した新作映画は17本でした。
コドモが生まれて以降激情観賞数も激減していたので、ここ数年では最多の本数。
内訳は、洋画11に邦画6ですが、年の後半はぜひ観たいと思う洋画があまりなくって邦画中心になっていきました。
考えてみると、上記したミニシアター系の不振というのも一要因だったのかもしれません。

個人ベスト10を挙げるとすると以下の通り。

1 インセプション
2 第9地区
3 トイ・ストーリー3
4 悪人
5 インビクタス 負けざる者たち
6 抱擁のかけら
7 マチェーテ
8 ローラーガールズ・ダイアリー
9 ノルウェイの森
10 NINE

奇しくも1、2はいずれもSF系ですが、新鮮な設定と映画ならではの表現に挑戦しているのが心地よかった。
3、5はさすがの完成度、4は力作。
6や7は個人的に好み。
8は健闘、9は期待通りの出来、10は逆に期待ほどではなかった。

総じていうと、今年は心底感服するほどの大傑作には残念ながら出会えなかった気がします。
来年に期待。

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小説「ノルウェイの森」の想い出

2010-12-26 23:08:17 | Diary

映画「ノルウェイの森」を観てきました。
映画の評価についてはそのうちCinemascapeに書きますが、自分は基本的に映画は原作から切り離して一つの作品として評価すべきと考えています。
が、そうはいってもこれだけの偉大な小説を原作として生まれた映画ですから、やはりちょっと小説「ノルウェイの森」について個人的な想い出なんかをとりとめもなく語ってみたくなってしまいました。

自分が小説「ノルウェイの森」を初めて読んだのは、単行本が発刊されて大ベストセラーとなった当時、まだ中学生の頃でした。
母親が買って家にあったのを読んだのだと思います(母親に勧められたのかもしれない)。

性に関する描写も多いし、思春期の少年にはけっこう刺激的だったように思います。
一方で、性を「ヤラシイもの」としてしか捉えられない幼い認識しかなかった自分にとって、この小説から、性が人間の生きる営みの中に組み込まれているのだという新鮮な理解を得ることもできました。
「ノルウェイの森」は、「桃尻娘」シリーズとあわせて、自分にとって大人への階段を上る過程で出遭ったかけがえのない小説なのであります。

小説の中の場面では、まず、映画でも描かれていましたが、ワタナベの住む学生寮の印象が残っています。
時代や境遇がまったく違うのは分かっていても、中学生の身には、大学生になったら自分もこんな生活をすることになるのかなんて漠然とイメージしていたような気がします。

それから、ワタナベと緑の会話は小説の中でもとてもユニークで楽しくて、映画でもちょっと採り入れられてたけど、一番好きだったのは、緑が「熊と抱き合って芝生をごろごろ転がりたい」とかって話すセリフで、それが映画には出てこなかったのでちょっと残念。

一番強烈な印象を受けたのが、最後にワタナベとレイコさんがセックスする場面で、「皺(シワ)」という表現が出てくるところ。
中学生の自分にはちょっと受け入れ難く、かなりゲンナリした気分になった記憶があります。
この点は、その後自分が大学生になってから、飲み会かなんかで友人と話していて「ノルウェイの森」の話題になったときに、その友人(男性)もまったく同じネガティブな印象をもっていて驚いたことがありました。
それがきっかけで、たぶんもう一度読み返したはずです(つまり、自分がこの小説を読んだのは二回ということですね)。
それもあってレイコさんはガリガリの骨ばった女性の印象です。
霧島れいかではちょっと艶めかしすぎますね。

最初のほうで、ワタナベと直子が長距離を歩く場面、映画でも「駒込」という地名が出てきましたが、確か渋谷から駒込まで歩くんじゃなかったかな。
緑が二階に住んでいる本屋は大塚にあるっていう設定だったような。
駒込とか大塚とか、当時から馴染みのあった地域だったので、途端に身近感を憶えたような記憶があります。
映画では、そういった土着感はまったく感じられませんでしたね。
直子が入る療養所は、映画では京都にあるって設定になってたけど、小説でもそうだったかな?
まあでも基本的に実在の地名が出てきてもあまり現実味はありませんね。
映画版は特にそうです。
ベトナム人の監督だから当然と云えば当然ですが。

自分のように二回しか読んでいなくて、しかも最後に読んでから20年近く経っていても、映画を観ればいろいろと細かいところまで印象が甦るわけですから、改めて凄い小説だと思いますよ。
玉山鉄二演じた永沢さんていうキャラクタはまったく忘れていたけど、観賞しているうちに記憶が再生していきました。

この小説を思春期に読むことができるというのは、自分よりも下の世代にしか不可能なわけですが、村上春樹と同時代を生きた世代の方々にはまた違った思い入れがあるようですね。
内田樹さんも語ってます。
そういえば、映画には糸井重里、高橋幸宏、細野晴臣ら同世代の人たちがカメオ的に出演してました。
彼らって、自分が子供の頃から「大人」としてメディアに出ていた人々なんで、なんというか時の流れをしみじみと感じちゃいます。

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「アナーキー・イン・ザ・JP」 中森明夫

2010-12-24 00:48:13 | Books
アナーキー繋がりでセックス・ピストルズと大杉栄をジョイントさせる発想は単純と云えば単純だけど、単なる戯言を超越した立派な純文学作品に仕上がってます。
なんだかどんよりとした空気の漂っている2010年現在の日本の状況に妙にハマっているし。
今年は大逆事件(幸徳事件)からちょうど100年なんですな。

巻末の参考文献リストのボリュームからしても、大杉栄と無政府主義者たちに対するかなり綿密な下調べの上に書かれているだろうとことは想像に難くありません。
主人公に乗り移った大杉が、主人公の兄や学校の教師を論破したりアジったりする件りは、その筆力に圧倒されます。

大杉と伊藤野枝が主人公とアイドルに憑依して××するあたりはなかなかのトランスぶりが表現されてましたが、全体的には案外大人しめにまとめられていて、もう一歩の破壊性が発揮されていればなあという印象。
ちょっと惜しい。

明らかに実在の人物をモデルにした人間が登場する一方で、何人かは実名そのままで出てきます。
石原慎太郎や小泉純一郎はともかく、宮崎哲哉と福田和也の出し方には笑ってしまった。
著者と因縁があるんでしょうか。

アナーキー・イン・ザ・JP
中森 明夫
新潮社
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カズはやっぱり凄い

2010-12-17 22:25:19 | Sports

日経朝刊運動面に不定期に掲載される三浦カズのコラム「サッカー人として」。
いつもいい内容だけど、今朝のは殊に素晴らしかったので、記録させてもらいます。

今シーズンほとんど出場機会を与えてもらえず、もはや横浜FCに居場所はないのかと、誘いのあったブラジルのクラブでのプレーを想像し始めていたというカズ。
最終節の大分戦で今シーズン初スタメンのチャンスを得ます。

あの1戦はただの1試合ではなかったと、その大きさが今になって分かる。フル出場、1ゴール。一般論でいえば僕の年齢の選手が1年5カ月ぶりに先発してフルに走り回るのは相当にきつい。でも僕はやれた。ドリブルでも「戦える」という感触を手にできたし、トレーニングやメンタルの仕上げ方次第でまだまだ勝負できると確認できた。発見といっていい。すべてを吹き飛ばしてくれたんだ。

シーズン通して188分しかピッチにいなかったにもかかわらず3得点。
その決定力に対して「何か持っていると」言われるが、カズ自身は「持っている」からではないと明確に否定します。
1年間、試合形式の練習全てに対して、公式戦だと思って取り組み、グラウンドでの一瞬一瞬を「本番」としてプレーした。
それが最後に「最高の90分間」をもたらしてくれたと信じていると云います。

今シーズンをまとめます。人生に偶然はない。大分戦で輝けたのは偶然じゃない。だからこうも思う。1998年ワールドカップ(W杯)に行けなかったのも偶然じゃない。岡田監督がどうこうでもなく、僕に力がなかったのだと。努力が足りなかったのだと。

今できることを全力でやる、全力でやっているからこそどんな結果に対しても自分自身ですべてを受け止め責任を取ることができる、言い訳はしない。
云うのは簡単だけど、実践するのがどれだけ困難なことか。
カズはやっぱり凄い。

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「就職難は大学生の増えすぎが原因」に対する反論にカラんでみた

2010-12-16 00:08:48 | Society
先日、大学生の就職内定率が低迷している件についての記事を書きましたが、その中でリンクしたブログ記事の筆者のひとりが続きを書いていたのを読みました。

「就職難は大学生の増え過ぎが原因」に対する反論(アゴラ・加藤智将)

なんだかイマイチな浅い議論だなと感じたので、脊髄反射的ではありますが軽くカラんでみたいと思います。

まず、問題設定が不可解。
"就職難は大学生の増え過ぎが原因"説への反論ということだけど、ここでいう「就職難」って何を指しているのか?
たぶんこの記事は、同じアゴラの池田信夫氏の記事「大学生が多すぎる」への反論なんだろうけど、池田氏の記事は、大学生の就職内定率が低いのは大学生の数が多いからだと言っている(内定率の分母は大学生数なのでこれは単純な算数の問題)のであって、「就職難」即ち「求人が少ないこと」の原因が「大学生の増えすぎ」にあると言っているわけではない。

次に、大卒求人倍率と比べて高卒求人倍率が低いことをもって、「仮に大学進学率が今より下がって高卒者が増えたとしても、更に就職が厳しくなるだけ」と書いているが、これもよくわからん。
大卒も高卒も求人数が一定だと仮定した場合、大学生の数が減って高卒者の数が増えれば、高卒の求人倍率はさらに低下するが、大卒の求人倍率はその分上がる(これも単純な算数の問題)。
他の条件を一定とすれば、それに応じて大卒の就職内定率は上がって、高卒の就職内定率は下がる。
つまり「就職難」は良くも悪くもならない(マッチングがうまくいくようになって改善するかもしれない)。

で、
"理工系学生が少なすぎる"ことが問題だと言ってるのだけれど、これも浅いなあと感じる。
理工系は就職に強いので、理工系学生が増えれば就職難が改善すると言っているようなのだけど、本当にそうだろうか?
理工系が就職に強いのは少数精鋭で希少価値があるからであって、そこらじゅう理工系だらけになってしまったらその分価値は下がる。
コメント欄にもあるけど、理工系の定員を増やしたところでその分レベルが下がれば”就活無敵”という状況も変わってくるのが必定。

どうも全体に数字を一面的、静的に捉え過ぎなきらいがあり、こっちの数字が変わればあっちも変わるという相関が理解されていないような印象です。
コメント (2)
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「橋」 橋本 治

2010-12-12 20:43:22 | Books
「巡礼」「リア家の人々」を繋ぐ、橋本治・戦後三部作の二作目…なんですが、自分は「リア家の人々」を先に読んでしまいました(この作品知らなかった…)。

実在の殺人事件をモチーフに、加害者となった女性二人が斯様な凶行に至ることになるまでの半生を、昭和から平成にかけての社会状況の変遷を背景にしながら詳らかに冷静な視点で語っていく形式は、「巡礼」と共通するものがあります。
時代的には、高度経済成長が終焉を迎えて「日本列島改造」を訴える総理大臣が登場した70年代から、束の間の「地方の時代」を経てバブル崩壊とともに地方が疲弊していく90年代までが中心。
中学の同級生である二人の母、田村正子と大川直子は団塊世代、そして彼女たちの娘である田村雅美と大川ちひろは自分と同じ団塊ジュニア世代。
田村雅美は、ピンクレディが解散した1980年に小学三年生ということで自分と同学年の設定なので、彼女たちが辿った時代感はリアルな感覚で捉えることができました。
地理的な設定は、日本海側の架空の地方都市を舞台にしていますが、いくつかの描写から、「角津」は長岡、「豊岡」は新潟をモデルにしてるのかな、と感じました。

三部作に通底するニュートラルな筆致で、二人の少女の父母が如何にして出会い、家庭を築き、少女たちの子育てにいかなる姿勢で臨んだのか、そして、その結果二人の少女がいかにして些かコミュニケーションに弱点のあるパーソナリティを育むこととなったのかが丹念に綴られていきます。
そこに上述したような日本社会の変遷という背景が重ねられていくわけですが、やはり著者は田村正子や大川直子の世代の人だけあって、彼女たちやその夫たちが時代の流れに合わせて彼女たちなりに懸命に生きていく様に生々しいリアリティが感じられる一方、田村雅美や大川ちひろ、娘たちの世代の”育ち”と社会状況の関わり合いについてはイマイチ上手に表現しきれていないような印象を受けました(自分が同世代だけにそう感じるのかもしれません)。
特に大川ちひろについては???です。
著者も結局消化しきれていないような。

個人的に三部作を評価するなら、「リア家の人々」>「巡礼」>「橋」でしょうか。

橋本 治
文藝春秋

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「無罪」ではなく"not guilty"

2010-12-10 22:41:41 | Society

「ぬれぎぬ晴れうれしい」=現場立ち入り、改めて否定―無罪判決後に会見・白浜被告(時事通信) - goo ニュース

事案の詳細については知識がないので、結論に対して論評することはできないけど、死刑求刑事件の第一審で無罪判決が出るのが「異例」だとすれば、裁判員裁判を導入して硬直したプロ裁判に風穴を空けたと評価できるのかもしれないなと感じる一方、求刑は死刑且つ否認という初めてのケースで無罪判決となったと聞くと、裁判員が印象に左右された結果ではないのかという疑念も浮かんできたりして、なかなか複雑な印象です。

ところで、誤解を恐れずに言うと、無罪判決というのは「有罪が証明されなかった」ことを意味するのであって、「潔白であることが証明された」のとは違いますね。
このあたり、「無罪判決」という日本語の表現がミスリードを引き出しているように思います。

その点、英語の表現は論理的ですね。
"not guilt"、即ち「有罪ではない」と正確に事態を言い当てています。
この英語表現からは、刑事裁判というのは、真実を明らかにする場ではなく、その人間を国家権力をもって罰するべきかどうかを判断する場である、という思想が浸透している印象を受けます。

日本の場合、どうしても情緒に流れてしまいがちですが。

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就職難の責を学生に負わせるのはやっぱり酷

2010-12-08 23:32:19 | Society

大学生の就職内定率が10月1日時点で57.6%と最悪ペースになっているという報道があったことを受け、ネット上で本件に関する言説が賑やかになっています。

内定率が史上最悪なのは馬鹿な学生が増えているから(木走日記)

就活生を救う意識改革(アゴラ・加藤智将)

大学就職難に思う(アゴラ・山口巌)

大学生が多すぎる(アゴラ・池田信夫)

「大卒」という資格の幻想(アゴラ・松岡祐紀)

「就職難は大学生が増えすぎたのが原因」説に対する反論(テラの多事寸評)

日本経済全体がシュリンクしていく中で、中高年の雇用を守ることが優先されて若年層が割を食っている、という基本認識の下、「学生の側にも問題がある。大企業を選り好みしすぎだし、そもそも能力の低い学生が多い」という学生批判説と、「それは問題のすり替えだ」という学生擁護説に分かれているようです。

自分はといえば、どっちかというと後者の擁護説に近いです。
確かに、世間知らずな学生が選り好みしてミスマッチを起こしている現実はあると思いますが、昔の学生だってそうだったでしょ(自分の反省も含めて)。
昔はそれでも何とかなったのが、今は通用しなくなった。
変わったのは学生ではなくて、環境の側。
その責を学生に負わせるのは酷な気がします。

大企業ばかりじゃなくて中小企業にも目を向ければいくらでも口はある、って云うのは簡単だけど、今の日本社会で一旦中小企業に入ってしまって将来の展望を描けるのか。
よっぽどのバイタリティがある人材でもなければ、入口の時点で生涯年収も含めたキャリアパスが制約されてしまう。
そのことが目に見えているからこその大企業ブランド志向なんじゃないでしょうか。

学生が馬鹿になった、という点については、正直よく分かりません(実態を知る環境にないので)。
が、数々証言があるので、そういう事実もきっとあるのでしょう。
ただ、いつの時代も「最近の若いモンは」という言説はまかり通りがちだし、いくつかの実例があるからと云って安易に一般化するのは危険なような気がします。

今の就職難って一時的なものじゃなくって、放っておくとずっと続くんじゃないかと思います。
これからの時代、学生の側の意識改革が必要になるの間違いない。
だけど、学生だけが意識改革しなきゃいけないってのはやっぱり不公正だと思う。
若者だけじゃなくて、中高年も高齢者も等しく「今までの延長線では幸せになれない」という意識改革を迫られるべきだと思うのです。

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新興国市場で企業が成功するためには

2010-12-06 23:15:58 | Economics

今週号の週刊東洋経済「スペシャリスト インタビュー」、ジャンメジャヤ・シンハ氏(BCGアジア・パシフィック地区チェアマン)へのインタビュー記事からメモ。
新興国市場で企業が成功するために必要なこと。

三つの視点が重要だ。
第一に、早く一定の市場を獲得すること。一定の市場規模に至らなければ、本社での重要度が高まらず、適切な社員を投入することができない。また、現地での採用や、パートナーとの契約も思うようにはいかない。韓国の電機メーカーがインド市場に入ってきた最初の5年間に、非常に野心的な価格戦略をとり、リーダー的地位を築き上げた。
第二に、その国の顧客視点で徹底的に考えること。既存の商品を本国から持ってくればいい、といった考え方は通用しない。たとえば公道に電灯が少ない国では、ライト付きの携帯電話が好まれる。街中のノイズがけたたましい国では、大きな音量の出るテレビが望まれる。
第三に、その国の政府と良好な関係を築くこと。中国、インド、インドネシア、ブラジルといった国々では、まだ国家の果たす役割が大きい。多くの企業がIR(インベスターズ・リレーションズ)で投資家に時間を割くのと同じように、新興国の政府に対しても時間をかけて説明をし、理解し合うプロセスが必要だ。

特に第一番目の視点は示唆に富んでいるように感じました。
考えてみれば当たり前だけど、お試し感覚で新興国に進出してみたところで何かが得られるはずがない。
肝の据わった取り組みが必要だと云うことですな。

シンハ氏によれば、日本企業は新興国市場での機会を取りこぼしているように思えるとのこと。
日本企業には依然として欧米へのフォーカスが強すぎるのでは、という指摘がされています。

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