そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

「日本型ポピュリズム」 大嶽秀夫

2006-10-21 00:24:53 | Books
日本型ポピュリズム―政治への期待と幻滅

中央公論新社

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春ごろに読んだ本。

1990年代初の自民党分裂下野に始まる「政治改革」の波から、自社さ連立政権の時代、「加藤の乱」、国民投票的首相小泉の登場、田中真紀子騒動といった一連の政界における出来事を振り返るとともに、背景としてテレビのワイドショー的報道番組の成立事情と特徴にも触れ、日本の政界における「ポピュリズム」の台頭・顕在化について分析されている。
ちなみに、2003年に発刊された本であり、昨年の郵政解散については時期が前後している。

ここ15年ほどの政界における一連の流れを体系的にレビューできる。
特に、細川政権誕生とそのあっけない瓦解に際しての「社民勢力」の解体に関する分析や、いわゆる「政治改革」があったがために政党の庇護から放り出された政治家個人の地位不安定化が政策本位の政治をますます遠ざけてしまった逆説に関する解説などは、特に興味深い。

が、もっとも感銘を受けたのは「あとがき」に書かれた、ポピュリズム・政治のワイドショー化の悪弊を言い当てた以下の箇所である。
ちょっと長くなるが、引用したい。

今日の日本政治にとって最大の不幸は、「改革派」が、常にマクロ経済的には誤った政策を掲げ、政権をとったとたんにそれを推進してきたことにある。そのため立ち直りかけた景気回復に冷水を浴びせ続け、「日本経済の失われた10年」の最大の原因を作った。皮肉にも、いわゆる「抵抗勢力」の方が、マクロ経済的にはより正しい政策を提唱してきたし、彼らが「改革政権」のマクロ経済政策上の失敗の被害が致命的になることをそのたびに阻止してきた。

1990年代に政治の「道徳主義的」解釈が蔓延した結果、今では、国民にとって痛みを伴う「苦い」政策こそが、「改革」の正しさを表わし、「甘い」政策は国民の歓心をかうだけの「まやかし」の政策であるとの評価が、マスコミや世論に定着してしてしまった感がある。

マスメディアによって、あまりに「道徳主義」化し、善玉・悪玉二元論に固まってしまった有権者の判断を、成熟した大人の「現実主義」によって、克服すべきときがきているというのが、筆者の判断である。90年代日本は、防衛問題については、徐々にではあるが「理想主義的」「道徳主義的」平和論たる非武装主義を克服し、「現実主義」化していくことに成功した。経済問題についても、それができないはずがない。

自分自身、小泉~安倍の流れにはどちらかといえば与する立場ではあるが、一方で、彼らのような国民的人気を背景にした人物でないと首相になれないという状況の固定化を無自覚に受け入れるのは危険だという気もしている。
その傍にぽっかり開いている陥穽には留意しなければならない。
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「ウェブ進化論」 梅田望夫

2006-10-17 23:31:52 | Books
ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる

筑摩書房

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当初このブログは、読書の記録としても使っていこうと考えていたんだけど、特に子供が生まれて以降書く時間が取れなくなりだいぶ滞ってしまった。
読書の方は細々と続けているので、せっかく読んだものを無駄にしない意味でも遅ればせながら少しずつレビューをエントリしていこうと思う。
読んでからかなり時間が経ってしまったので、簡単な印象を述べるくらいになってしまうが。

まずは、今さらの感があるが、今年の春先に読んだ「ウェブ進化論」。

「Web2.0」だとか「ロングテール」だとかいう言葉はすっかり市民権を得ている感があるが、自分がその概念をきちんと知ったのはこの本からである。
これら概念については、実例を用いつつとてもわかりやすく説明されている。
ネットの世界で、リアルタイムで今どんな現象が進行しつつあるか、そのダイナミズムを系統立てて理解することができる。

全体的には「グーグルがいかに凄いか」について語られた本だと言える。
読むにつれ、その凄さは頭では理解できるのだが、あまりに「凄い凄い」と言われると、天の邪鬼な自分は「ホントに凄いのか」と疑いたくなるのも正直なところである。
何となくその「凄さ」を実感できないのは、日本におけるグーグルの地位と、本国アメリカにおけるそれとの間にけっこう落差があることに起因するのか。
また、グーグルの本当の「凄さ」はそのビジネスモデルにあるのではなく、模倣が容易なネットの世界において他の追随を許さない「技術力」にあるからなのかもしれない。
「技術力」というのは、技術者以外の人間にはなかなか実感しづらいものだ。

実はもっとも印象に残っているのは、筆者がここ1、2年で感じているという「IT産業における日米の関心」の相違について述べられている部分。
日本のIT産業の関心が相変わらずネットの「こちら側」(PCなどに代表される)にあるのに対して、アメリカのそれは「あちら側」(検索エンジンに代表される)へとシフトしているということ。
「こちら側」と「あちら側」は付加価値を奪い合う関係にある。
付加価値の源泉が「あちら側」にシフトし続けて言った場合、日本のIT産業の未来はどうなっていくのか。
日本のIT企業に身を置くものとして、正直けっこう薄ら寒い予感を感じたりもする。
そんな警戒心もあって、グーグルの「凄さ」を素直に認めたくない気分になるのかもしれない。
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日本核武装論

2006-10-12 20:13:14 | Politcs
報道によれば、北朝鮮が核実験実施を発表したことを受け、欧米アジアの海外メディアでは日本の核武装を論じる報道が目立っているという。
この懸念を打ち消すために、安倍総理もわざわざ国会答弁でその可能性を明確に否定してみせた。

ところがその一方、当の日本人の様子はどうかといえば、核武装を唱える人が皆無とは言わないまでも、核保有をしようなんて気運はこれっぽっちも盛り上がっていない。
内外の認識落差の激しさは、滑稽なほどである。

しかし冷静に客観的に考えると、実は海外各国のように対抗して核武装を模索する発想のほうが「常識」なのではないか、という気もしてくる。
北朝鮮がいずれ日本を核攻撃する可能性を想定せず、アメリカの「核の傘」に居れば大丈夫だと楽観視することに、合理的な根拠は無く、あまりに呑気といわざるを得ない。
日本の「常識」は、世界の「非常識」なのである。

かと言って、自分自身核武装すべきと考えているわけでもない。
楽天的で他人任せでお人好しで刹那的な、愛すべき平和ボケ民族。
けっきょく自分もそんな日本人が大好きなのだが・・・

彼我の「常識」の違いにあまりに無頓着だと、今後ヤバイ事態を招くことになりそうで、ちょっと恐ろしい。
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敗因探し

2006-10-02 23:45:39 | Sports
ディープ、世界制覇ならず 仏競馬の凱旋門賞で3着(共同通信) - goo ニュース

今回の騒動は、日本馬が凱旋門賞を勝つことの難しさなどこれっぽっちもわかっていない多くの人々を巻き込んだフィーバーになっていたことにポイントがあると思う。
その難しさを十分わかっている人たちは、もちろん「ディープならやってくれるかも」という期待はもっていたものの、負けたからといって残念ではあっても、「やっぱりダメだったか・・・」と捉えるのみ。
一方で、よくわからんけど今回だけ注目してた大多数の人たちは、負けたとなると途端に敗因を探し出し、自分を納得させようとする。(この点はW杯直後の戦犯探しと通じるものがある。)

敗因などない。
馬なんだから走るときもあれば走らないときもある。
敗因を見つけて説明を付けたがるのは人間のエゴだ。
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