そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

堀江判決報道への違和感

2007-03-18 23:22:36 | Society
金曜日のライブドア堀江裁判の地裁判決については、懲役2年6ヶ月という判決が他の粉飾決算事件との比較で厳しいものになっている点が議論になっている。
昨日の朝の情報番組で、堀田力が「まったく反省の色を見せていないのだから、執行猶予はありえない」と解説していたが、そんなものなんだろうか。
無罪を主張している以上、反省の言葉を述べないのはある意味仕方のないことのようにも思え、そうなると最初から無罪か実刑か、どちらかしかなかったということなのか。
いずれにしても、国策捜査の側面があろうがなかろうが、粉飾決算なんて明らかに違法な行為であるわけで、それが事実であればそのことで罪を負うことは当然のこと。

ところで、粉飾決算が何故いけないかといえば、それが公正な資本市場を歪める行為であり、投資家を欺く行為であるから。
だが、ここで言う、欺かれる対象であるところの「投資家」とは、現に存在している特定の具体的な「投資家」ではなく、概念としての、抽象的な、不特定な総体としての「投資家」であるはず。
ところが、この裁判を伝える報道のトーンでは、ライブドア株を購入し、値下がり・上場廃止により損害を被った実在の「投資家」を「被害者」として据え、堀江の罪は彼ら「被害者」に対する罪であるかのように語られていることにやや違和感を覚える。
もちろん彼らの中には、粉飾された財務諸表を頼りにライブドア株を買った人もいるのだろう。
その意味で同情すべき点はあるし、その損害にライブドア社の粉飾行為が因果関係をもっているかどうかについては、今後決着がつく民事訴訟の結果によって明らかになるであろう。
だが、株というものは、言うまでもなく上がることもあれば下がることもあるものだ。
本質的には、株が下がって損害を被るリスクは、購入者自身に帰属すべきものではないのだろうか。
「株価が上がるときいたから買ったのに、嘘だったとはけしからん」という「被害者」の弁には、自分の耳にはやや「都合の良さ」を帯びたセリフとして響く。
少なくとも、「堀江=悪」「ライブドア株購入者=善」という構図は、あまりに事態をわかりやすく整理しすぎであり、却って物事の本質を隠してしまうことにも繋がりかねないように思える。

全体にメディアの報道の仕方は、この裁判が堀江被告の「生き方」が肯定されるべきものか否定されるべきものかを決するものであるかのように、筋立てられてしまっている。
が、司法の場というのはそんなところではない。
「生き方」に関する論議は別の場所でいくらでもやればよい。
裁判長が最後に「説諭」の中で紹介したという「ライブドア株を買ったハンディを負った子供の母親からの手紙」の話についても、結果的に分かりやすいドラマ仕立ての文脈でメディアが伝えるための恰好の材料になってしまっているのが残念。
コメント
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